明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

私の引っ越し履歴(7)狛江の慈恵医大付属病院 ② とうとう脳梗塞発症!

2022-01-20 15:10:23 | 今日の話題

私は布団に入ってしばらくして、ふと「何故か、病院に行こう」という気になった。「何がどう」という理屈があったわけではない。ただ、そのことだけが心に浮かび、行動したのだ。何かに「突き動かされた」ように夢中でスボンを履き、携帯と財布を持って家を出た。夜11時頃、真夜中である。

まず私は調布東山病院に歩いて向かった。ここは以前高血圧で受診したことのある病院である。しかし夜間のせいか、入り口は閉まっていた。そこで入り口脇の植え込みに入り込み、裏口を探したが結局見つからず、今度は駅前の飯野病院に向かう。冷静に考えれば、ネットで夜間開いている救急病院を調べて、タクシーでもつかまえて行くのが常識なのだが、そんな正常な判断力があれば多分「翌朝まで待ってから」行くことにして、その夜は寝ていただろうと思う。

飯野病院も同じように閉まっていたので、どうしようかと駅まで戻って来た時には、もう右足を「引き摺るように」なっていた。脳梗塞の症状が始まっていたのである。しかし何か変だなぐらいに思いながら、私はタクシーに乗り込んで「慈恵医大」と行き先を告げていた。この時はまだ言葉が出たらしく、ぼんやりだが運転手と何か会話してたような記憶がある。だが、夜の緊急入り口でインターホンに来院目的を告げた段階では、満足にしゃべれていなかったのではないだろうか。その頃の記憶は殆ど飛んでいて、途切れ途切れにしか覚えてない。

受付で呼び鈴を鳴らし、出てきた担当者に「呂律が回らない」と言うと、すぐに黙って通路を挟んだ奥の小部屋に私を入れた。きっと私の「しゃべり方」で只事ではないと分かったんだと思う。慌ただしく何人かの医者が部屋に入ってきて状態を「問診され」るのだが、何とか説明している間にも「脳梗塞」は悪化の一途を辿っていく。私はもはや一人の善良な市民ではなく、脳梗塞の進行状況をチェックされる「患者であり、一個の物体」と化していたのだ。

この時、すでに時計は0時を回っていた。脳梗塞は時間との勝負である。発症してから4時間というのが一つの目安になるのだが、私が発症したのは「夜11時頃」だから、本当は「血栓を溶かす薬」が使えた筈である。だが私は大月でゴルフをして、居酒屋で呑んでいる時を発症の時間だと思い込んでいたので、問診を受けた時には、既に8時間も経ってしまっていた。しかし一度は回復して言葉も喋れたし、テレビも見て普通に布団に入ったわけだから、2度目に発症した時間で「10時頃です」と言っていたら、あるいは血栓溶解剤を使って「後遺症が無い、完全な回復」が出来たかも知れない。

まあ、言うならばこれは「歴史のIF」ということになるだろうし、今でも「何一つ後悔していない」ことではあるのだが、人生「一瞬の判断」が運命を分けることになる、という良い例である。実際は先生達は「CTやエコーやMR」など、散々チェックして結論出している訳だから、結果的に「最善の処置」を選んでくれている筈だ、と私は信じていた。それが運命ならば、「黙って受け入れるべし」という考えだったのだ。とにかく自分の過去については「過ぎたこと」としてグジグジ振り返らない、というのが私のモットーである。要するに、例え「酷い失敗」をしたとしても、それで「致命的な結果」になるかというと、今まで何とかなっているじゃないか、・・・つまり、根っからの「自己肯定論者」なのだ。だから私の人生は楽しいことも辛かったこともあったが、それでも皆んな「懐かしい思い出」である。医療従事者も、そういう性格の方が「扱いが楽」のようである。

私は受付脇の問診部屋から大部屋のベッドに移され、点滴を腕に付けられたまま「絶対安静」の状態になった。病院ではこの手の患者は何も聞かれることは無く、ただ看護師達が忙しく動き回る間「それをじっと眺めている」だけである。聞かれても喋れないので誰も聞かないのか、それとも安静にしてなければいけないので話し掛けないのか、どちらなのかは私は知らない。ただ頭はハッキリしていたので、最初のうちは「検査のために」あちこち病院内をベッドに寝かされたまま「高速で移動」するのを、仰向けの姿勢で他人事のように観察していた。これは私も昔、待合室で座っている時に良く見かけた「緊迫した」風景である。まさか私がその当人になるとは考えてもいなかったが、実際その立場になってみると、もう「どうにでもなれ」という心境であったのは間違いない。

とにかく最初はベッドで点滴をしたまま、全く身動き出来ない状態で数日間を過ごした。私に出来ることと言えば、ベッドに備え付けの有料テレビを見るだけの生活である。誰も何も話しかけてはこなかった。3日目ぐらいには家族に連絡を取った筈だが、喋れないので電話ではなかったと思う。多分メールだろうと思うが、これまた全然覚えていない。重要なことの筈だが、我ながら困ったものである。どこかの本で血液型のことを「B型の過去は闇」と書いてあったが、人生の一大事なのに丸っきり覚えてない、というのは流石に自分でもどうかと思う。そうかと思えば毒にも薬にもならない「どうでもいいこと」は鮮明に覚えているのだから、何か自分なりに「独自に選別する基準」があるのだろうか。今度その基準とやらを研究してみたいもんである。

そんなこんなで私の入院生活は静かに始まった。会社の仕事は、全部「放ったらかし」のままである。多分、誰かが代わりにやっているのだろう。これで私が会社にとって「大して必要な人間じゃない」と、分かったのには大いに笑えた。社長からは、お見舞いにアディダスのスウェットパーカ上下を貰ったと記憶している。私はその時「脳梗塞の後遺症」で右手右足が片麻痺になっていたのだが、スウェットは車椅子に乗ってる人も良く着ていて、意外と病院で使えるのだ。さすが、社員のうちから「3人」も脳梗塞患者を出している会社の社長である。慣れたもんだと感心した。

次回は大部屋での奮闘エピソードを書いてみたい。(続く)

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