今日の SmartNews にあったニュース記事である。これはイスラエルの研究機関が発表したもので、脳には自己に関連する「死」を否定し、死はすべて「他人だけに降りかかるもの」と思い込む働きがあると判明した、というもの。実験では、他人と死が結びつく場合のみ脳がシグナルを発し、自分と死が結びつく場合、脳はまったくの無関心を貫いた、とある。これは、自分が死ぬ運命にある現実を拒絶する「一種の心理的な防御反応」で、脳自体の働きだったことが分かる、とバル=イラン大学の研究は言っている。
しかしイスラエルなのに「イラン」大学って、なんか変じゃないのかな。今や政治の世界では「不倶戴天の敵のNo. 1」がイランの筈だったと思うのだが。もしかするとヘブライ語では「バル=」というのは否定の接頭語で、日本語に訳すと「何々は最低でどうしようもない」みたいな感じになって、バル=イラン大学という名前は「イランなんか、まるで相手にしてないぜ、ばーか!」大学という意味だったりして・・・(そんな訳無いだろう!)。あるいはイランという言葉はヘブライ語では「あの中東の大国」の事ではなく、花の名前だったりするのかも知れない。つまり国としてのイランのことは「ギリャンヌ」とか何とか発音する、みたいな。昔、新羅のことを嫌っていた百済の亡命人が「新羅の奴め」と罵って言っていたのがそのまま日本語になって「新羅をシラギと読む」ようになった、という話も本当らしく聞こえるのが面白い。
話を戻すと、これがレッキとした学術論文であることは疑い得ないが私に言わせれば、脳が無反応なのは防御反応でもなんでも無くて、ただ単に「死と自分を結びつけるという設定を脳が理解できない」ことを示しているに過ぎないと思う。つまり「自分が死ぬ」という現象を「自分は絶対に体験出来ない」のであるから、それがどういう事なのか想像もできなくて無反応なのに過ぎないという訳だ。確かに目の前で「車にはねられた人」が空中を飛んでいくのを見たら、「ああ、あの人は死ぬんだな」と脳は反応する。だが自分が同じ目にあったとして、相当痛そうだとか骨が折れてるだろうなとかは想像できても、「死ぬこと」を想像するのは実は簡単ではない。
先ず「死ぬこと」は「眠ること」とは医学的には別の状態だと思うが、「自分の意識の上」では変わりがない。これは体験上言える事である。つまり「意識が一時的に停止」しているか「意識がそのまま完全に停止する」かの違いは、単に停止した後「また復帰する」かどうかである。その復帰のメカニズムは「復帰するまでわからない」のだから、我々は毎日「一度死んで」、翌朝「生き返る」ことを繰り返している、とも言える。これは「自分という意識」は、脳が復帰してから「その後」に意識されるものだからである。言うならば、「自分という意識」は内臓器官としての脳の機能の全体のうちの「ごく一部の表層部分にある」ということではないだろうか。
イスラエルの研究が脳のシグナルのどの部分をモニターしているのか明確ではないが、目や文字情報も含めたインプット情報処理を通過して、自分の記憶領域に蓄積された事例及び過去の経験などとリンクした上で、「脳の電気信号」が眼の前の現象を「理解するプロセス」へ伝達されたとすると、それはあくまで処理対象のデータである。今回の「自分の死」というのは処理の「対象」ではなく、脳の「処理作業を行っている側の意識」を意味しているのだから、微妙に違っている、というのが私の考えだ。脳は「自分の死」ということを「意識の死」と受け取って理解しようとするのだが、結局「意識=存在している」ことの死とは「存在しなくなる」こととに他ならず、存在しなくなること=無という状態を「想像する=存在して機能する」こととなってしまって、完全な前提条件無視・自己撞着・二律背反・意味不明の言葉に陥ってしまう。意味をなさないのだ。これが「未体験の事柄なので処理できない」になり、シグナルが発生されなくて外から見ると無反応のように見えることの真実である。
つまり目で見たり耳で聞いたりする「死」に関する情報は色々と脳に送られてくるのだが、「死」はコンピュータ的には「データ」の一つであり、意識の「プログラム」で処理すべき情報の中の一つの事例に過ぎないと考えられる。プログラムによる自己解析という方法も無いではないが、それもあくまで「プログラムに従って行っていること」で、プログラムそのものでは無い。プログラムが実際に動いている「チップ内部の電気信号処理自体」については、プログラムが意識することはなく、ある信号を渡して答えを受け取る間(つまりコンピュータ内部が処理している間)は、プログラム側からすれば「暗闇にボールを投げ入れて、また戻ってくるまで間」のような、全く完全な「時間の停止」状態である。これが「死」だとすれば、死は「痛くも痒くもない、何もない無反応な事象」では無いか。当然だが、脳もただ、次に何かが返ってくるのを待っているだけの「なんとも反応しようが無い」状態なのである。植物人間は、当にこの状態だといえる。ちょっと前に私の家のパソコンが壊れて電源が入らなくなったことがあった。もう相当古いので修理せずに新しいパソコンを買う事にして、壊れたパソコンは「ゴミ」として処分するつもりである。これはパソコンからすれば「まさに死」では無いだろうか。勿論、パソコンは「自分が死んだ」とはまるで思ってはいない、と思うのだが。
昔、何かの本で飛行機事故で5000mの高さから落下し、たまたま雪の上に落ちて助かった人の話を読んだことがあった。驚いた事にぐんぐん地面が近づいてくる中で、その人は「不思議と恐怖感を感じなかった」と言っていたのである。雪の上に落ちたとはいえ、「5000m」の高さから落下した衝撃で骨が折れたりした筈なのだが、その時は「全然、痛みは感じなかった」とインタビューに答えている。その記事の解説には「脳は、耐え切れないほどの極度の痛みが予測される場合は、あらかじめ電源ブレイカーのように神経伝達を遮断する機能」が備わっているそうだ。ビルの屋上から投身自殺する人の感覚もこれに似た「無感覚の状態」になっていて、痛みも何も感じないのだということらしい(実際に死んだ人に聞いたわけでは無いから、確かなことはわからないが・・・)。だがこれらは「死」を意識しているといっても、「きっと死ぬんだろうな」または「必ず死ぬ」とは思っているが、死を「自分の体験として自覚している」わけではない。あくまでも死は「目で見える、外部で起きる事象」である。
もし「死」を自分の生命の「終了」の意味と捉えるなら、人工心臓などの代替物が効かない臓器(=人間の生物としての生命そのもの)である「腸」が破壊された時に、「脳は死を悟る」のだと理解できる。武士が切腹をする時に「自分の腹わた(=腸)」をつかみ出して天井に投げ上げた、などという逸話を聞いたことがあるが、まさに自己の死を「外部の出来事として客観視している」証拠である。その実際に意識がなくなって死ぬまでの何秒かの時間、武士は自分の死を「見ている」わけであるが、これは厳密には「自分の死」とは言えない。「コンピュータのプログラム」のような「自意識」が脳本来の機能であるならば、「自分の死」という生物学的な現象は、単なる「停止」または「電池切れ」または「プログラムエラー」の状態で「復帰できないまま廃棄される」こと、と理解される。プログラムには、コンピュータのハードエラーや機械的・物理的な障害を回避する方法は、「最初から存在しない」のである。
結論は(私の考えるところによれば)、我々の見ている死は他者の生物学的な死であっても、「脳の意識上の死」という、いわば形而上学的な実例を目の当たりにしているわけではない。例えば死を間近にした老人が「意識が混濁」して来て、何かを言ったり考えたりしようと思っても「ボーっとして」来て、「自意識そのものが崩壊」してくる現象が出て来れば、それは初めて「脳の死」だと言えるのじゃ無いだろうか。しかし脳の死が実証的に分かったとして、その死を「老人本人が見つめる」ことは、やはり出来ないのだ。何十人もの死を看取った医者であっても、他人の頭の中に入り込んで「その人の意識が死をどう受け止めるているか」を知っているわけではないのである。
結論:「死」は生物学的な「臓器の生命の終わり」であり、脳は単なる高級なコンピュータで、特別な「魂」などはこの世に存在しない、である。勿論同じように「神」も存在しないから、これはイスラエルのユダヤ教徒には到底思いつかないことだろうね。
そこで、私はふと他人の意識を覗いてみる「新しい機械」を考えてみた。人がみな「個人IDあるいはマイナンバー」を持っているとして、タブレットの「他人の意識を見るアプリ」にIDとパスワードを打ち込むと、その人の「視界・聴覚・味覚・嗅覚・触覚、そして考えていることを文字で表したもの」を画面に写し出してくれる、というものである。電車の中で可愛い子が乗ってるなと思って「その子のIDとパスワードをアプリに打ち込むと(もし仮にID・パスワードが分かれば、だが)、タブレットの画面には「その子の頭の中が映し出される」としようか。そこには「自分の姿が写って」いて、何を考えているかと言うと「なんだろな、このジジイ。さっきから私の方をチラチラ見て来て、ちょ~キモいんだけど」なんて表示されたりして。
まあ、良いことばっかりではないが、脳が感覚器官からの情報と脳細胞に刻み込まれたデータを「プログラム処理して答えを出しているコンピュータ的な器官」だとすると、その電気信号を「外部から可視化する」ことも理論上不可能ではないだろう。そうなれば犯罪者を「尋問で自白に追い詰める」なんてことは「する必要がない」わけであるから、犯罪摘発は飛躍的に伸びる事になる。しかし、男女が「恋の駆け引き」で手練手管を駆使したり、想う相手が自分を好きなのかどうなのかと悩むことも「全然ない」ことになって、例えば「浮気」なども激減してしまって、全然面白味がない世の中になったりする訳だ。こうなると果たしてそれが良いことなのかどうか、大いに疑問に思えてくるから人間というのはややこしい。
まあ実際に、こんなアプリが出まわる気遣いはないから面白半分に想像してみるが、これは映画などによくある「自分が他人になっちゃう疑似体験」ではない。自分という意識はちゃんとあって、そのほかに「別に、他人の頭の中を覗く」ピーピングトムの一種である。映画やドラマでは「登場人物の視点で周りを見る」シーンがあるが、それを実在の人物(目の前にいるか他の場所にいるかは問わず)の頭の中をスクリーンに映し出すと考えれば理解しやすいだろう。他人が何を見てどう考えているかを「あくまで他人の事として」見るのだ。要するに「覗き見」である。
これがやっぱり「一番楽しい」みたいである。昔から「自分だけこっそり覗き見する」ってのは秘密の匂いがして、やり出したらやめられないらしいから、気を付けないといけないな。とにかくユダヤ人っていうのは、つまんない事を研究している、という話でした。
しかしイスラエルなのに「イラン」大学って、なんか変じゃないのかな。今や政治の世界では「不倶戴天の敵のNo. 1」がイランの筈だったと思うのだが。もしかするとヘブライ語では「バル=」というのは否定の接頭語で、日本語に訳すと「何々は最低でどうしようもない」みたいな感じになって、バル=イラン大学という名前は「イランなんか、まるで相手にしてないぜ、ばーか!」大学という意味だったりして・・・(そんな訳無いだろう!)。あるいはイランという言葉はヘブライ語では「あの中東の大国」の事ではなく、花の名前だったりするのかも知れない。つまり国としてのイランのことは「ギリャンヌ」とか何とか発音する、みたいな。昔、新羅のことを嫌っていた百済の亡命人が「新羅の奴め」と罵って言っていたのがそのまま日本語になって「新羅をシラギと読む」ようになった、という話も本当らしく聞こえるのが面白い。
話を戻すと、これがレッキとした学術論文であることは疑い得ないが私に言わせれば、脳が無反応なのは防御反応でもなんでも無くて、ただ単に「死と自分を結びつけるという設定を脳が理解できない」ことを示しているに過ぎないと思う。つまり「自分が死ぬ」という現象を「自分は絶対に体験出来ない」のであるから、それがどういう事なのか想像もできなくて無反応なのに過ぎないという訳だ。確かに目の前で「車にはねられた人」が空中を飛んでいくのを見たら、「ああ、あの人は死ぬんだな」と脳は反応する。だが自分が同じ目にあったとして、相当痛そうだとか骨が折れてるだろうなとかは想像できても、「死ぬこと」を想像するのは実は簡単ではない。
先ず「死ぬこと」は「眠ること」とは医学的には別の状態だと思うが、「自分の意識の上」では変わりがない。これは体験上言える事である。つまり「意識が一時的に停止」しているか「意識がそのまま完全に停止する」かの違いは、単に停止した後「また復帰する」かどうかである。その復帰のメカニズムは「復帰するまでわからない」のだから、我々は毎日「一度死んで」、翌朝「生き返る」ことを繰り返している、とも言える。これは「自分という意識」は、脳が復帰してから「その後」に意識されるものだからである。言うならば、「自分という意識」は内臓器官としての脳の機能の全体のうちの「ごく一部の表層部分にある」ということではないだろうか。
イスラエルの研究が脳のシグナルのどの部分をモニターしているのか明確ではないが、目や文字情報も含めたインプット情報処理を通過して、自分の記憶領域に蓄積された事例及び過去の経験などとリンクした上で、「脳の電気信号」が眼の前の現象を「理解するプロセス」へ伝達されたとすると、それはあくまで処理対象のデータである。今回の「自分の死」というのは処理の「対象」ではなく、脳の「処理作業を行っている側の意識」を意味しているのだから、微妙に違っている、というのが私の考えだ。脳は「自分の死」ということを「意識の死」と受け取って理解しようとするのだが、結局「意識=存在している」ことの死とは「存在しなくなる」こととに他ならず、存在しなくなること=無という状態を「想像する=存在して機能する」こととなってしまって、完全な前提条件無視・自己撞着・二律背反・意味不明の言葉に陥ってしまう。意味をなさないのだ。これが「未体験の事柄なので処理できない」になり、シグナルが発生されなくて外から見ると無反応のように見えることの真実である。
つまり目で見たり耳で聞いたりする「死」に関する情報は色々と脳に送られてくるのだが、「死」はコンピュータ的には「データ」の一つであり、意識の「プログラム」で処理すべき情報の中の一つの事例に過ぎないと考えられる。プログラムによる自己解析という方法も無いではないが、それもあくまで「プログラムに従って行っていること」で、プログラムそのものでは無い。プログラムが実際に動いている「チップ内部の電気信号処理自体」については、プログラムが意識することはなく、ある信号を渡して答えを受け取る間(つまりコンピュータ内部が処理している間)は、プログラム側からすれば「暗闇にボールを投げ入れて、また戻ってくるまで間」のような、全く完全な「時間の停止」状態である。これが「死」だとすれば、死は「痛くも痒くもない、何もない無反応な事象」では無いか。当然だが、脳もただ、次に何かが返ってくるのを待っているだけの「なんとも反応しようが無い」状態なのである。植物人間は、当にこの状態だといえる。ちょっと前に私の家のパソコンが壊れて電源が入らなくなったことがあった。もう相当古いので修理せずに新しいパソコンを買う事にして、壊れたパソコンは「ゴミ」として処分するつもりである。これはパソコンからすれば「まさに死」では無いだろうか。勿論、パソコンは「自分が死んだ」とはまるで思ってはいない、と思うのだが。
昔、何かの本で飛行機事故で5000mの高さから落下し、たまたま雪の上に落ちて助かった人の話を読んだことがあった。驚いた事にぐんぐん地面が近づいてくる中で、その人は「不思議と恐怖感を感じなかった」と言っていたのである。雪の上に落ちたとはいえ、「5000m」の高さから落下した衝撃で骨が折れたりした筈なのだが、その時は「全然、痛みは感じなかった」とインタビューに答えている。その記事の解説には「脳は、耐え切れないほどの極度の痛みが予測される場合は、あらかじめ電源ブレイカーのように神経伝達を遮断する機能」が備わっているそうだ。ビルの屋上から投身自殺する人の感覚もこれに似た「無感覚の状態」になっていて、痛みも何も感じないのだということらしい(実際に死んだ人に聞いたわけでは無いから、確かなことはわからないが・・・)。だがこれらは「死」を意識しているといっても、「きっと死ぬんだろうな」または「必ず死ぬ」とは思っているが、死を「自分の体験として自覚している」わけではない。あくまでも死は「目で見える、外部で起きる事象」である。
もし「死」を自分の生命の「終了」の意味と捉えるなら、人工心臓などの代替物が効かない臓器(=人間の生物としての生命そのもの)である「腸」が破壊された時に、「脳は死を悟る」のだと理解できる。武士が切腹をする時に「自分の腹わた(=腸)」をつかみ出して天井に投げ上げた、などという逸話を聞いたことがあるが、まさに自己の死を「外部の出来事として客観視している」証拠である。その実際に意識がなくなって死ぬまでの何秒かの時間、武士は自分の死を「見ている」わけであるが、これは厳密には「自分の死」とは言えない。「コンピュータのプログラム」のような「自意識」が脳本来の機能であるならば、「自分の死」という生物学的な現象は、単なる「停止」または「電池切れ」または「プログラムエラー」の状態で「復帰できないまま廃棄される」こと、と理解される。プログラムには、コンピュータのハードエラーや機械的・物理的な障害を回避する方法は、「最初から存在しない」のである。
結論は(私の考えるところによれば)、我々の見ている死は他者の生物学的な死であっても、「脳の意識上の死」という、いわば形而上学的な実例を目の当たりにしているわけではない。例えば死を間近にした老人が「意識が混濁」して来て、何かを言ったり考えたりしようと思っても「ボーっとして」来て、「自意識そのものが崩壊」してくる現象が出て来れば、それは初めて「脳の死」だと言えるのじゃ無いだろうか。しかし脳の死が実証的に分かったとして、その死を「老人本人が見つめる」ことは、やはり出来ないのだ。何十人もの死を看取った医者であっても、他人の頭の中に入り込んで「その人の意識が死をどう受け止めるているか」を知っているわけではないのである。
結論:「死」は生物学的な「臓器の生命の終わり」であり、脳は単なる高級なコンピュータで、特別な「魂」などはこの世に存在しない、である。勿論同じように「神」も存在しないから、これはイスラエルのユダヤ教徒には到底思いつかないことだろうね。
そこで、私はふと他人の意識を覗いてみる「新しい機械」を考えてみた。人がみな「個人IDあるいはマイナンバー」を持っているとして、タブレットの「他人の意識を見るアプリ」にIDとパスワードを打ち込むと、その人の「視界・聴覚・味覚・嗅覚・触覚、そして考えていることを文字で表したもの」を画面に写し出してくれる、というものである。電車の中で可愛い子が乗ってるなと思って「その子のIDとパスワードをアプリに打ち込むと(もし仮にID・パスワードが分かれば、だが)、タブレットの画面には「その子の頭の中が映し出される」としようか。そこには「自分の姿が写って」いて、何を考えているかと言うと「なんだろな、このジジイ。さっきから私の方をチラチラ見て来て、ちょ~キモいんだけど」なんて表示されたりして。
まあ、良いことばっかりではないが、脳が感覚器官からの情報と脳細胞に刻み込まれたデータを「プログラム処理して答えを出しているコンピュータ的な器官」だとすると、その電気信号を「外部から可視化する」ことも理論上不可能ではないだろう。そうなれば犯罪者を「尋問で自白に追い詰める」なんてことは「する必要がない」わけであるから、犯罪摘発は飛躍的に伸びる事になる。しかし、男女が「恋の駆け引き」で手練手管を駆使したり、想う相手が自分を好きなのかどうなのかと悩むことも「全然ない」ことになって、例えば「浮気」なども激減してしまって、全然面白味がない世の中になったりする訳だ。こうなると果たしてそれが良いことなのかどうか、大いに疑問に思えてくるから人間というのはややこしい。
まあ実際に、こんなアプリが出まわる気遣いはないから面白半分に想像してみるが、これは映画などによくある「自分が他人になっちゃう疑似体験」ではない。自分という意識はちゃんとあって、そのほかに「別に、他人の頭の中を覗く」ピーピングトムの一種である。映画やドラマでは「登場人物の視点で周りを見る」シーンがあるが、それを実在の人物(目の前にいるか他の場所にいるかは問わず)の頭の中をスクリーンに映し出すと考えれば理解しやすいだろう。他人が何を見てどう考えているかを「あくまで他人の事として」見るのだ。要するに「覗き見」である。
これがやっぱり「一番楽しい」みたいである。昔から「自分だけこっそり覗き見する」ってのは秘密の匂いがして、やり出したらやめられないらしいから、気を付けないといけないな。とにかくユダヤ人っていうのは、つまんない事を研究している、という話でした。
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