コカイン常習のピエール瀧について松本人志がコメントしていたが、麻薬をやっていることと「ドーピング」を一緒くたにしていたのが気になった。彼はコカインや覚醒剤に反対の立場だと言ってはいるが、こういう「麻薬がドーピング効果」を生むという点については「その効果を疑ってはいない」ようである。つまり、麻薬を使えば感覚が研ぎ澄まされて、特に「芸術分野で素晴らしい作品を生み出す力がある」と信じているのだ(私はそう言う風に受け取った)。これは本当だろうか?
ドーピングは「医学的に運動能力を増進させる」効能が実証されており、その結果「競技に多大な影響を与える」との考えから「禁止薬物」なのである。医学的な実証結果だ。では、麻薬はどうかというと、私の見解では「脳内で快楽物質が放出」されるだけで、その前段階の身体的機能を促進・増大させるものでは「無い」とする。つまり麻薬を使ったとしても、何かの芸術あるいは演技・パフォーマンスが「より良いもの」となる可能性は「ゼロ」である、と思う。ここが松本人志と異なる点だ。
では、それを証明しよう。
麻薬の効能は「気分の高揚」など、感覚器官の異常反応を引き起こすことである。一方、芸術はコミュニケーションの普遍化である。私の大好きな和歌に例を取るならば、「風そよぐ 楢の小川の 夕暮れは〜」の名句は、単純に「小川が流れている」という事象から一転「夏の盛に楢の林を涼しげにサラサラと流れる小川を眺めて、云々」と思いを高めていき、市民の生活の季節感を見事に歌い上げたものであって、百人一首にも選ばれた素晴らしい作品である。これを作者が麻薬でラリっている状態で作ったとしようか、麻薬の効用は「ハイになること」だから、何か分からないけど楽しい!となるわけだが、ただ楽しいという感情でいくら詩句をひねっても、楢の小川と組み合わせた「夏のしるし」という簡潔な表現との見事なまでに「言い切った」美しさは出てこないのではなかろうか。従二位藤原家隆の活躍した時代にはコカインやヘロインや覚醒剤はなかったから、彼が麻薬を使用していたとは思えないが、それよりも先ず、使ったとしても和歌の技術には「何の助けにもならなかった」であろうことは間違いない。コミュニケーションツールの一つである「言葉」というものを使って「人々の心の奥底にある感情を揺り動かす」ような作品を作るためには才能と努力が必要であり、「麻薬で鋭敏になった感覚だけ」では、詩人の持つ繊細な事物への洞察には「返って邪魔」なだけであろう。芸術ということで言うならば、私も若い頃に詩人を目指していたこともあり、少しは「創作の機微」を分かっているつもりだが、一般に思われているほど彼らは「陶然自失している」わけではなく、むしろ「素材と理性的に格闘」して、産みの苦しみと戦っているのけである。麻薬でラリっている状態で生み出されるものは所詮、同じような状態を連想させるだけの「劣悪な非日常性」の発露に過ぎないのではないか。もし松本人志が芸術をそのようなものと考えているなら彼は、芸術を語る資格はないであろう。芸術とは、単なる感情表現を遥かに超えた「もっと崇高な真実」を我々に与えてくれる「何か」である。その何かによって「現れてくる」ものにこそ、我々は感動するのだ。ラリって非日常的なハチャメチャな演技を人に見せたからと言って、それで「芸術です」というのは大きな間違い、だと思う。麻薬の効能は、受け取る側の感覚は研ぎ澄ましたり亢進したりするかもしれないが、創作者側の緻密な作業をアシストするような機能は持っていないと考えるべきである。
まあ、これはあくまで私個人の意見だから、松本が「そんなことはない」ということも私は否定しない。彼が麻薬は「創作に効果がある」というのであれば、それを実証する作品なりを教えて欲しい。何処かの番組で「音感が鋭敏になり、通常聞こえない高周波が聞こえたり、ステレオの分離がいつもより格段に明確になったりする」と言う「更生施設ダルク代表の男性」の発言があったが、感覚が鋭くなるというのは確かにあるかも知れない。だが、それだけのことであり、何かミュージシャンがそれによって「アイディアや啓示を得る」ような言い方をしているのは間違いだと思う。そのような「見せかけの鋭敏さ」は単に「すごいな」とは思えても、決して「真の感動」を呼び起こしたりはしない。一部のロック・ミュージシャンには麻薬を常用していたという話があるが、勿論人が聞いて判断するのだから「それで歌がヒット」することもあるであろう。それが麻薬を常用するきっかけになったかも知れない。だが本当の所は「次々とヒットを飛ばさなければいけないプレッシャーに追い詰められて」仕方なく使用していた、のではないだろうか。私は本当に才能のある人間は、麻薬の力を借りて作るものよりもずっとずっと素晴らしい作品を、「麻薬無しで」創作できると思っている。結局、麻薬は芸術家の「澄み切った精神」をダメにし鈍感にし、つまらないものを「良いものに見せる」効果しか無い、それが真実である。だから松本が言うような「ドーピング効果」は麻薬には全然無い、というのが私の意見だ。また麻薬で何かの創作活動が上手く行ったとしても、その出来栄えは「大したものではない」と断言できる。
昔私がコンピュータソフトの開発で深夜になっても出来上がらず、翌朝までに仕上げなきゃならないのにどうしても突破できない問題があって困り果てた時、何故か「タバコを吸ったら」解決できたことが2、3回あった。それは「間に合わなかったらどうしよう」という眼の前の問題「以外の雑念」から「一時的に精神状態を開放」した結果、スルッと問題が解けたのである。タバコも常習性薬物の一つ、もしコカインが役に立つ場合があるとすれば、この「精神・脳のリフレッシュ」である。タバコとコカインでは、身体に与える影響が違いすぎるが、効果の方向性としては「似たようなもの」と言える。だが、このプログラム開発を「解決して完成させたのは私の技術」であって、けっしてタバコの力ではない。このプレッシャーなりストレスなりから開放してリフレッシュさせる方法を「会社の仕組みで用意」しておけば、私がタバコを吸いながら必死に夜中に作ったりせずとも充分余裕を持って対処することが出来たと思う。だからタバコという薬物は、プログラム開発においても「ドーピング効果」は無かった、これが結論である。そもそも私に其れ相応のコンピュータ知識と技術がなければ、いくらタバコを吸っても「出来っこない」話なのである。
つまり松本人志の話は、もともと創作能力も才能もある「出来る人」が、スケジュールやその他の理由で追い込まれてしまった状態から「雑念を取り払ってリフレッシュ」してくれるものとして「麻薬」をつかった、という話なのだ。言わば問題をすり替えるための「麻薬」である。作品は、もともと持っていたものが表に出たに過ぎない。そういう意味では、松本がピエール瀧の映画や作品に対して「ドーピング作品」というような呼称でその価値を貶めるような発言をしているのは頷けない。まるで「それが許されるなら俺だって使っている」とでも言いたげな発言ではないか。これは逆に言えば「麻薬賛美」である。
結論として言うならば、麻薬はドーピングとは全くの別物だ。それは働く場所が「身体」の機能と「精神」との違いでもある。だから間違わないでほしいのだが、法律違反だから使用しないのではなく、「本当の意味で役に立たない」から使用しない、これが正解である。真の人と人との「コミュニケーション」である芸術を、「精神を歪める麻薬」でどうにかしようという考えは、球を上げようとして「すくい打ち」をしているアマチュアゴルファーのようなものである。・・・これ、あんまりピッタリの例えじゃないけど分かってくれたかな?
ドーピングは「医学的に運動能力を増進させる」効能が実証されており、その結果「競技に多大な影響を与える」との考えから「禁止薬物」なのである。医学的な実証結果だ。では、麻薬はどうかというと、私の見解では「脳内で快楽物質が放出」されるだけで、その前段階の身体的機能を促進・増大させるものでは「無い」とする。つまり麻薬を使ったとしても、何かの芸術あるいは演技・パフォーマンスが「より良いもの」となる可能性は「ゼロ」である、と思う。ここが松本人志と異なる点だ。
では、それを証明しよう。
麻薬の効能は「気分の高揚」など、感覚器官の異常反応を引き起こすことである。一方、芸術はコミュニケーションの普遍化である。私の大好きな和歌に例を取るならば、「風そよぐ 楢の小川の 夕暮れは〜」の名句は、単純に「小川が流れている」という事象から一転「夏の盛に楢の林を涼しげにサラサラと流れる小川を眺めて、云々」と思いを高めていき、市民の生活の季節感を見事に歌い上げたものであって、百人一首にも選ばれた素晴らしい作品である。これを作者が麻薬でラリっている状態で作ったとしようか、麻薬の効用は「ハイになること」だから、何か分からないけど楽しい!となるわけだが、ただ楽しいという感情でいくら詩句をひねっても、楢の小川と組み合わせた「夏のしるし」という簡潔な表現との見事なまでに「言い切った」美しさは出てこないのではなかろうか。従二位藤原家隆の活躍した時代にはコカインやヘロインや覚醒剤はなかったから、彼が麻薬を使用していたとは思えないが、それよりも先ず、使ったとしても和歌の技術には「何の助けにもならなかった」であろうことは間違いない。コミュニケーションツールの一つである「言葉」というものを使って「人々の心の奥底にある感情を揺り動かす」ような作品を作るためには才能と努力が必要であり、「麻薬で鋭敏になった感覚だけ」では、詩人の持つ繊細な事物への洞察には「返って邪魔」なだけであろう。芸術ということで言うならば、私も若い頃に詩人を目指していたこともあり、少しは「創作の機微」を分かっているつもりだが、一般に思われているほど彼らは「陶然自失している」わけではなく、むしろ「素材と理性的に格闘」して、産みの苦しみと戦っているのけである。麻薬でラリっている状態で生み出されるものは所詮、同じような状態を連想させるだけの「劣悪な非日常性」の発露に過ぎないのではないか。もし松本人志が芸術をそのようなものと考えているなら彼は、芸術を語る資格はないであろう。芸術とは、単なる感情表現を遥かに超えた「もっと崇高な真実」を我々に与えてくれる「何か」である。その何かによって「現れてくる」ものにこそ、我々は感動するのだ。ラリって非日常的なハチャメチャな演技を人に見せたからと言って、それで「芸術です」というのは大きな間違い、だと思う。麻薬の効能は、受け取る側の感覚は研ぎ澄ましたり亢進したりするかもしれないが、創作者側の緻密な作業をアシストするような機能は持っていないと考えるべきである。
まあ、これはあくまで私個人の意見だから、松本が「そんなことはない」ということも私は否定しない。彼が麻薬は「創作に効果がある」というのであれば、それを実証する作品なりを教えて欲しい。何処かの番組で「音感が鋭敏になり、通常聞こえない高周波が聞こえたり、ステレオの分離がいつもより格段に明確になったりする」と言う「更生施設ダルク代表の男性」の発言があったが、感覚が鋭くなるというのは確かにあるかも知れない。だが、それだけのことであり、何かミュージシャンがそれによって「アイディアや啓示を得る」ような言い方をしているのは間違いだと思う。そのような「見せかけの鋭敏さ」は単に「すごいな」とは思えても、決して「真の感動」を呼び起こしたりはしない。一部のロック・ミュージシャンには麻薬を常用していたという話があるが、勿論人が聞いて判断するのだから「それで歌がヒット」することもあるであろう。それが麻薬を常用するきっかけになったかも知れない。だが本当の所は「次々とヒットを飛ばさなければいけないプレッシャーに追い詰められて」仕方なく使用していた、のではないだろうか。私は本当に才能のある人間は、麻薬の力を借りて作るものよりもずっとずっと素晴らしい作品を、「麻薬無しで」創作できると思っている。結局、麻薬は芸術家の「澄み切った精神」をダメにし鈍感にし、つまらないものを「良いものに見せる」効果しか無い、それが真実である。だから松本が言うような「ドーピング効果」は麻薬には全然無い、というのが私の意見だ。また麻薬で何かの創作活動が上手く行ったとしても、その出来栄えは「大したものではない」と断言できる。
昔私がコンピュータソフトの開発で深夜になっても出来上がらず、翌朝までに仕上げなきゃならないのにどうしても突破できない問題があって困り果てた時、何故か「タバコを吸ったら」解決できたことが2、3回あった。それは「間に合わなかったらどうしよう」という眼の前の問題「以外の雑念」から「一時的に精神状態を開放」した結果、スルッと問題が解けたのである。タバコも常習性薬物の一つ、もしコカインが役に立つ場合があるとすれば、この「精神・脳のリフレッシュ」である。タバコとコカインでは、身体に与える影響が違いすぎるが、効果の方向性としては「似たようなもの」と言える。だが、このプログラム開発を「解決して完成させたのは私の技術」であって、けっしてタバコの力ではない。このプレッシャーなりストレスなりから開放してリフレッシュさせる方法を「会社の仕組みで用意」しておけば、私がタバコを吸いながら必死に夜中に作ったりせずとも充分余裕を持って対処することが出来たと思う。だからタバコという薬物は、プログラム開発においても「ドーピング効果」は無かった、これが結論である。そもそも私に其れ相応のコンピュータ知識と技術がなければ、いくらタバコを吸っても「出来っこない」話なのである。
つまり松本人志の話は、もともと創作能力も才能もある「出来る人」が、スケジュールやその他の理由で追い込まれてしまった状態から「雑念を取り払ってリフレッシュ」してくれるものとして「麻薬」をつかった、という話なのだ。言わば問題をすり替えるための「麻薬」である。作品は、もともと持っていたものが表に出たに過ぎない。そういう意味では、松本がピエール瀧の映画や作品に対して「ドーピング作品」というような呼称でその価値を貶めるような発言をしているのは頷けない。まるで「それが許されるなら俺だって使っている」とでも言いたげな発言ではないか。これは逆に言えば「麻薬賛美」である。
結論として言うならば、麻薬はドーピングとは全くの別物だ。それは働く場所が「身体」の機能と「精神」との違いでもある。だから間違わないでほしいのだが、法律違反だから使用しないのではなく、「本当の意味で役に立たない」から使用しない、これが正解である。真の人と人との「コミュニケーション」である芸術を、「精神を歪める麻薬」でどうにかしようという考えは、球を上げようとして「すくい打ち」をしているアマチュアゴルファーのようなものである。・・・これ、あんまりピッタリの例えじゃないけど分かってくれたかな?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます