明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(木)古代史刑事(デカ)柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(24)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その9)中大兄いよいよ登場!

2021-02-11 19:15:09 | 歴史・旅行

1、白村江敗北と中大兄
万葉集に中大兄が歌った三山の歌というのが残されている。665年8月、中大兄が大和から九州太宰府に向かい兵庫県加古川市稲美町付近を船で通った時に、「印南」という言葉に引っ掛けて大和に残してきた女性の事を思って歌ったものだ、と一条氏は喝破する。その時に同じく中大兄の詠んだ反歌「わたつみの 豊旗雲に入り日さし 云々」は中秋の名月を歌ったものと考えられるそうだ。では中大兄皇子は、なぜ船に乗って西に向かっているのであろう。665年7月28日、劉徳高・百済禰軍・郭務棕ら254人が対馬に到着。9月20日に筑紫に上陸している。 唐の使者に会うために九州に行く途中だったのだ。どうやらこの時、唐と交渉する役目は中大兄が担っていたようである。663年10月、白村江の決戦に臨んだ倭国軍が唐・新羅連合軍に大敗し、サチヤマ大王を始めとする多くの兵士が捕虜になってしまった。それから2年後、唐が「次の高句麗攻略」に苦心する状況の中で、戦勝国唐から使節団がやってくる。時局はいまだ予断を許さぬ戦時体制の中で、緊張した外交交渉が展開されていただろう。中大兄はどのような戦略で唐の使者と対峙したのか。そもそも白村江大海戦に参加しなかった中大兄だ。あくまで「事を起こさず、平和裏に収めよう」としたであろう。この時点では、まだ中大兄は「称制」のままである。

2、中大兄、倭国王への布石
そもそも万葉集の三山の歌は、香久山と耳成山が畝傍山を争ったという「一人の女性を男二人が争ったことを山に擬えた故事」を歌った歌である。では、この歌に登場する女性とは誰であろうか?。藤原家の「家伝」には、中大兄が濱楼で酒宴を催した時、大海人皇子は槍を床板に突き立てるという大事件を起こしている。この時、中大兄は40歳、大海人皇子は44歳という壮年の大人である。公の場で大の大人が大喧嘩するほどの相手なのだ。書紀に描かれるような額田王(当時、40近かったと推測される)ではないと一条氏は言う(そりゃそうだろう)。645年の大化の改新で政権中枢にいた古人大兄皇子は、落飾・仏門に入って吉野に隠棲したがその後に謀反の疑いで中大兄に一族皆殺しにされている。668年、この時ただ一人生き残ったとされる古人大兄皇子の娘「倭姫王」を中大兄は娶って「皇后」とした。この倭姫王を一条氏は「倭国王の娘」と言い切る。確かにこの皇女の名前は、古人大兄皇子の娘というのには相応しくない「倭」の姫王になっている。それに古人大兄皇子は一族皆殺しになっているのに、たった一人生き残った娘が、その一族滅亡後「23年」もして当の皆殺しの張本人である中大兄の皇后になるというのは、どう考えても「?」である。ここは一条氏の説明が当たっていて、古人大兄皇子とは無関係だと思われる。そして倭姫王と結婚した前後に中大兄は称制を解き、晴れて「天智天皇」を宣言するのである。倭国の皇女「倭姫王」と結婚する事でようやく倭国王の「娘婿」になり、やっと中大兄の天皇位就任が認められたという事だ、と理解できた。天智称制の意味は、大和の地方勢力に過ぎなかった中大兄が白村江で壊滅した倭国の混乱に乗じて、何とか「権力の座につく」までの期間だったのである。それを書紀はなんとか辻褄合わせるために、称制と言うような変な名称を作って誤魔化した、というのが正しいだろう。事実は白村江が齎した「倭国王の空位期間」だったのである。

3、近江大津宮
665年8月、中大兄は劉徳高ら唐の代表が求める賠償要求に対応するため、九州に向かった。交渉が終わり、大和に戻ったのは翌年である。その間、九州博多から逃げてきた倭国の人々は、香久山の周辺に新しく都を建設しようとしていた。藤原宮の前身、「新益京」である。中大兄はこの「九州主導の都」の建設を嫌って、九州王朝の全く手垢のついていない「近江大津」に遷都した、と一条氏は鋭く見抜く。もともと大和勢力の中心はずっと「飛鳥」の筈である。香久山の周辺に新都が出来るのでは、折角倭国から政権を奪った中大兄にしてみれば「倭国が大和に引っ越してきた」だけ、ということになってしまう。あるいは唐の劉徳高らとの和睦条件に「倭国の消滅」を約束させられていて、新益京の建設はそれに違反していると考えた、とも想像できる(ここまでの要求を唐が突き付けて来た、と言うのは考えすぎのような気もする)。何れにしても中大兄は「近江大津宮」に遷都した。当然、九州から移転してきた倭国旧勢力とは「対立」してもおかしくない。ただ、この時点での両者の立場は「唐 > 中大兄大和政権 > 九州倭国」という力関係である。敗戦国日本の舵取りは、唐から中大兄が任されていた。

4、中大兄皇子の立ち位置

福井からやってきた継体天皇が武烈から王座を奪い、物部麁鹿火がクーデターで磐井を倒した後、逆に倭国から逆襲されて「倭国主導の政権=欽明王朝」が生まれたわけだが、その時「倭国のお目付け役」として登場したのが「蘇我氏」である。そののち徐々に政権を独占し、入鹿・蝦夷親子は推古女帝を「飾りの神輿」に仕立てて倭国と蜜月関係を築き、暗黙の「蘇我王朝」を謳歌していた。蘇我氏は4回も遣隋使を派遣していることからも分かるように(実際は618年から唐帝国に代わっているが、日本書紀は遣隋使としていて、蘇我氏が倭国とは別に使節を送っていた可能性がある)、どちらかと言えば倭国王・多利思北孤の方針とは違う「独自路線」を取っていたようだ。近畿大和政権を牛耳っていた蘇我氏は「独裁体質を強化」していったが、馬子が叔父の境部摩理勢を倒したあたりから蘇我氏内部の派閥対立が激化し、ついには大化の改新のクーデターが起きて入鹿・蝦夷親子を倒した「孝徳天皇」が政権を取る。

新しく政権を担った孝徳天皇は国内的には矢継ぎ早に新政策を打ち出して、むしろ積極的に蘇我氏色を打ち消していたと書紀からは読み取れる。外交関係は唐や朝鮮半島と波風立てずに上手くやっていて、金春秋を人質に取るなど「新羅」とは密接に関わっているような印象である。653年と654年には遣唐使を送っているが、これも政治的と言うよりは「先進文化の摂取」に熱心だったという感じである。この頃、宮を難波から大和に移したい中大兄皇子の主張と孝徳天皇が対立し、二人の関係が不和になって、ついに百官を引き連れて中大兄が飛鳥に帰ってしまう事件が起こる。海外重視の孝徳天皇と大和地元に執着する中大兄との「政治方針」についての確執だが、これが倭国の白村江海戦とどう関わるのかは「まだ不明」である。もしかすると倭国の唐新羅対立路線が孝徳政権と相容れないため、日本国内でも倭国と大和政権の対立が起きるのを恐れた中大兄が、孝徳を見限って「中立」の姿勢を取ったのかも知れない。

しかし「壬申の乱は九州で起こった」とする大矢野栄次氏の九州説信奉者である私としては、中大兄が滋賀県の「近江大津」に宮を構えたとは、どうしても思いたくない。それに敗戦国倭国に賠償をせまる唐の軍船が「博多に上陸」したことからしても、対応する交渉役の中大兄は「九州にいなければならない」筈である。あるいは唐の大軍隊が完全に制圧している九州北部に「都護府」を置き、そこに中大兄を呼び付けた、とも考えられる。だが唐が倭国と「本土決戦」をしたような記録もないし、まだ九州は日本の領土のままであるとするのが正しいだろう。劉徳高はそこに派遣された「唐の交渉使節」だ。唐は倭国とは戦っているが、交渉しているのは「中大兄の大和勢力」という点が重要ではないだろうか。いわば、唐と中大兄は「上司と部下」のような上下関係ではなかったかと私は想像する。そして中大兄はひとまず交渉を収めて、劉徳高等は帰っていった。

5、ついに天武天皇の謎の一端が明かされる

ところで万葉集には667年近江大津宮へ遷都する時に、額田王と井戸王とが歌を交わした贈答歌が残されている。額田王はその前にも、飛鳥を去る悲しみを歌った2首を詠んでいるが、これには天智天皇の気持ちを代作したものだとの「山上憶良・類聚歌林の左注」がついているらしい。額田王は御用歌人だったというのがこの歌を解釈する学者達の定説だが、しかし近江宮に遷都を決めた当の本人である天智天皇が、いくら慣れ親しんだ三輪山を通り過ぎるとは言え、「悲しみの感情」などを覚える理由は全くないのではないか、と一条氏は一蹴する。ではこの2首は誰が歌ったのか?。これを三番目の歌の相手「井戸王」だと一条氏は考える。井戸王とは、漢字表記をちょっと変えれば、あの古代史に燦然と輝く志賀島の金印で有名な国名と同じ「委奴王」だというのだ!(おおっ)。この指摘こそ、額田王の夫である大海人皇子の「本名と出自」を明らかにした「一条氏の大功績」であり慧眼であると私は敬服する。であれば大海人皇子が「大皇弟」と呼ばれていた理由も納得できるのだ(納得!)。

中大兄・天智天皇と大海人の関係は、敗戦国の代理として臨時政府の首班をつとめている近畿大和の大王と、戦いに破れて自粛の憂き目を余儀なくされている倭国の皇子、という関係であった。これが白村江大敗の後に起こった日本の実情だと思われるのだ。これが今の時点での、私の「歴史理解」である。

と言うわけで、次回は天智天皇即位と唐との交渉を検証しようと思う。


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