明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(火)雪舟・鉄斎にみる水墨画の魅力

2021-02-09 20:49:40 | 芸術・読書・外国語

もともと私は絵画について子供の頃から西洋名画に親しんできた。私の親が世界名画全集などを買い与えてくれていて、イタリアルネッサンスは勿論のこと、19世紀のパリ印象派はもとより、アングルやプッサンやターナーなども一通り本で知っていた。そうして私の好みは西洋名画に絞られて、特にその絵の中に「人々の人生」がほのぼのと見える絵を好きになって行ったのである。例えばゴッホの「夜のカフェテラス」や「アルルの病院の中庭」とか、ベラスケスの「ラス・メニーナス」やルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、マネの「フォーリー=ベルジェールの劇場のバー」やプッサンの「アルカディアの羊飼い」などは尤も親しんだ絵であった。それが大学生の頃、ある本でたまたま知った「鉄斎」の山水画に心惹かれたのである。日本にもこんな楽しい絵があるんだと驚いた。鉄斎の絵には「見る者の想像力を掻き立てる何か」がある。その後にもう一人「雪舟」を知った。この二人は日本画にあって「特別な存在」のように私は思う。

と言っても鉄斎の画は、ほんのちょっと若い頃に1、2点見たことがあるだけだ。何れどこかの美術館でじっくり見てみたいと思っているが、どうやら鉄斎美術館というのは兵庫県宝塚市にあるようで、見に行くのはちょっと難しい。私はもともと出不精で、美術館に行くのは上野で開かれたベラスケスの展覧会にいったぐらいである。よく鉄斎は模造品が出回っていて画商泣かせだ、ぐらいの知識しかないので大層なことは言えないが、水墨画でありながら風景の中に描かれている人物や住居が「何となしに親しみを感じる」のが鉄斎の特徴だ。勿論、他の画家も風景の中に人物を描いていて、山水画としては「ごく普通」なのだが、鉄斎の絵には「グッと前に出てくる迫力と存在感」がある。こういうのを名画というんだろうな、と私は思った。話に聞くだけで実物は余り見たことがないという、まあ余り「好きな」と言うのには「おこがましい」が、今の所日本の画家で知っている名前は「鉄斎と雪舟」の二人だけであるからしょうがない。よく探幽や等伯をテレビで特集しているが、どうも今ひとつ響くものがないのである。他の作家の障子画や襖絵を見ても皆「装飾品」としては綺麗だとは思うが、どうにも「画家」とは呼べない気がする。それに比べると鉄斎・雪舟は、立派に絵になっていて私は好きである。

こないだNHKで雪舟の特集をやっていた。天橋立図という傑作を中心にしたドキュメンタリーだったが、雪舟の魅力を伝えきっているとは言えないように思ったのは私だけではないだろう。鉄斎は墨で描いた山水画に彩色して、見るものの感覚に「色彩の美しい世界」を実感させたが、雪舟は室町時代の人で、日本の水墨画を作った孤高の画家である。雪舟はそれまでの北山文化に見られる模倣の時代の後を受けて、水墨画の技法を極めた絵を次々と発表して「水墨画を一個の芸術にまで高めた人」だと私は思っている。雪舟の絵は後に世に出て来る狩野派や長谷川等伯などの「装飾画」を目指すこと無く、絵画として鑑賞できる稀有の作品なのだ。その辺の絵画と装飾画の違いを NHK が詳しく取り上げていなかったのは残念である。

雪舟や鉄斎には白地にササっと墨で何かを描いて「余白を楽しむ」というような、日本画の特徴的な変な感覚はない。あくまでキッチリ対象を描いて、絵としての全体を「一つの作品に仕上げている」と感じた。それは例えば花鳥風月を一つずつ微細に細かく書き込んで「一種のデザイン」として完成させていくのではなく、全体を「動きを持った対象」として捉え、見るも者の想像力を働かせることで「見えてくる世界」を描いているのである。テレビで雪舟の「天橋立図」を現実の風景と比べる企画があったが、雪舟は写実的な意味で「実際の風景」を丁寧に描いていると思った。だが描かれた図は「雪舟」らしく、黒々とした墨の骨太な自然の中に、点在する楼閣を豪快な筆致で描き出した迫力満点の橋立図である。そこには天橋立という名勝の風景に留まらず、大自然の作り出す生命力をも彷彿とさせる雄大な国土が広がっている。まさに「絵画」と呼ぶに相応しい作品である。これが雪舟の魅力なのだと思う。

一般には絵画を評して「まるで写真のように本物そっくりだ」というのが褒め言葉ととられている。ネットでは色鉛筆で描いた絵と同じ構図の写真を並べて、「どちらが本物の絵か」当てさせるのが流行っているようだが、これは単に「対象を色鉛筆で再現する能力」が優れているということであり、絵が上手いというのは別だと私は考えている。写真はどこまでいっても「物理的な一瞬の静止画像」にしかならない。それはカメラが切り取ったただの画像である。カメラをあちこち向ければ、どこを撮っても同じレベルで同じ高精細な画像が得られる。誰が写しても画角と方向が同じなら「同じ写真」が取れてしまうのだ。だから、写真の出来の違いは「何をどう撮るか」だけである。絞りやシャッタースピードや焦点深度など、いくつかの写真撮影技術の違いはあるが、主に「構図と被写体」で写真の善し悪しは決まってしまう。ネットには富士山を写した美しい写真がいくつも紹介されているが、北斎の「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」の迫力には比べるべくもないだろう。写真は理想を求めるとどうしても写実を越えて「絵」になってしまう。思うに写真は、それが「現実のものである」から意味がある。つまり、理想の現実があって、それを体験することができない者にとっての「代替品」なのだ。人は写真を見て「実物を想像し」、体験したような空想に浸るのである。だから、写真は現実に体験している人よりも「2次的」な擬似体験だと言える。

「写真そっくりに描かれている」と絵画を評している人はその絵を褒めているつもりだろうが、実は絵としては「全然ダメだ」と言っているのに他ならない。見た目にそっくりに描くことは、プロなら誰でも簡単に出来る初歩的な技術である。プロのピアニストが楽譜通りに弾けるといって誰も褒めたりしないのと一緒で、それはプロなら皆んな出来て当たり前なのだ。それは褒め言葉でも何でも無く、素人の「ピアノ教室の発表会」レベルの評価である。まあ、そう言われたらプロの画家なら「筆を折って実家に帰る」くらいの罵倒ととられてもおかしくない評価と思う。画家は対象が人物であれ風景であれまたは静物であれ、それが「生きて動いている姿」そのものをキャンバスに描かねばならない。

子供は親の顔を見たとおりに描くと「髪と目」という特徴的な部位だけを書く。子供の目には「そう見えている」のだ。子供は注意の向いている対象を大きく描く。子供の書く絵は「認識の度合い」を表した外界の「正確な表現」なのである。人間は観察力が精密になるにつれて、ほぼ写真と同等に「細かく認識」出来るようになる。だが人は写真のように「無差別に全体に映像を見ている」わけではなくて、自分の注目している「ごく狭い対象」はある程度細かく見ているが、それをちょっとでもはずれた物は見ているというよりも「認識している」状態だ。認識しているとは、子供が親を「髪と目」で認識しているような「脳の判断する注目要素」を確認している状態、を意味する。細長くて黒っぽい物が部屋の隅に置いてあれば、脳はそれがゴルフクラブの練習用ケースだと知っているので「ぼんやりと色と位置情報」を確認し、それ以上の情報は遮断する。必要な情報と、必要ない確認すればいいだけのものを「分けて見ている」のである。視覚の集中を自然とやっているのだ。我々が美術館で絵画を念入りに鑑賞するようには、普段は身の回りの景色をじっくり観察するようなことはしていないだろう。絵を見るというのは、他人が注目している対象を(つまり画家が描いているものを)追体験して「鑑賞する」という行為である。その点では写真も近い。だが写真では対象を写してはいるけれども、「写真」は対象を認識している訳ではない。認識はあくまで鑑賞者一人ひとりの能力によってバラバラに行われる。

例えば赤いリンゴの絵があるとしよう。写真ではどこまでいっても赤いリンゴ以上の答えは見つからない。美味そうとか高そうとか思うのは見ている者の勝手だが、写真の作者から何かのメッセージを表出するのは困難である。ところが絵であれば、荒いタッチで動きを作ったり絵の具の厚塗りで重量感を出したり、あるいは部分部分で色彩を変えて見る者の感じ方を誘導したりたり表面をざらついた感じに仕上げるなど、無限に表現することが可能である。そして何より、その表現の多様さを駆使して見る者の脳に「画家の認識を直接メッセージとして伝える」ことが可能になるのだ。これが絵画の持つ「コミュニケーション」である。名画は我々見る者に「作家の感じた何か」を伝達している。それは時空を越えて「画家の見ているもの」が我々にも見えた瞬間だ、とも言えるわけである。言葉はそこには要らなくて、ただ映像の圧倒的存在感が迫ってくるだけであろう。写真はただの機械的な「記録」だが、絵は人間が発した「視覚によるコミュニケーション」なのである。

という訳で、雪舟・鉄斎の話から脱線してしまったが、どんな絵が好きかは「人それぞれ」であるのは間違いない。絵画が画家の発する何かを「具現化したもの=コミュニケーション」だとするならば、どんなメッセージを心地よいと思うのかも人それぞれだと言えよう。そう言えば、ピカソやカンディンスキーをどうしても理解出来なかった私としては、部屋に飾るものは古典的な絵画をどうしても選んでしまう。まあ、どちらにしてもコピー写真だが、名画に囲まれた生活というのも案外悪くはない。今度引っ越したら、書斎にゴッホやダ・ヴィンチを飾るってのも、やってみたいな。まあ、夢だけど・・・。


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