明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ショパン愛聴曲集10選

2018-06-08 23:25:26 | 芸術・読書・外国語
モーツアルトと並んで私が大好きな作曲家であるショパンは、どれもこれも優劣をつけ難い名曲揃いだが、中でも私が特に好きな曲を10曲集めてみました。ではランキング形式でどうぞ。

第10 位 バラード第1番ト短調作品23
ショパン若き日の祖国への暗い熱情が目に浮かぶような作品で、イントロの不協和音から最後のオクターブでの下降まで一気に聴衆を引っ張り込む「音楽の勢い」の激しさは、当時のプレイエルというピアノの限界を考えても「時代を先んじていたショパンならでは」の意欲的作品である。作った年代は割と遅いが評価は非常に高く、当時はショパンの最高傑作とまで友人たちの間では言われていたらしい。本人は後年もっといい曲があるのにと不満を漏らしていたというが、「万人受けする」華麗な音の圧倒的な洪水にサロンの貴族の女性たちがうっとりした、というのも無理からぬ聴き応えのある出来栄えである。私ももちろん何度も練習し、何とか音符をなぞるところまではたどり着いた。ひとしきり練習してそれでポリーニなどを参考にしようと聞いてみるのだが、「あれれ、同じ曲にはとても聞こえないな」ってことになり、「ガッカリする」の繰り返しであった。世界で5本の指に入る超絶テクニックの王者と単なる趣味で弾いているド素人を比較するのも烏滸がましいが、どんなにスピードが遅くても「気分はショパン」なのが我々素人にはとにかく嬉しいのである。これだからピアノはやめられない・・・これは音楽を愛する者に共通の喜びである。

第9位  エチュード第3番ホ長調作品10の3「別れの曲」
誰でも知っているショパンの曲。あんまり通俗的なので選ぶのに気が引けるぐらいだが、一年に一度くらいは聞いてみようかと思って聞いたら「ショパンにしては珍しい部類に入る曲」に思えてきた。ショパンの曲には感傷的な作品も多いのだが、この「別れの曲」は一般に考えられているような男女の悲しい別離を描いた曲というより、遠くへ旅立つ友達との「平静な別れ」という、ある意味「去ってゆく友情」の方が似つかわしいと思える曲である。ショパンがこの曲を書いた経緯はよく知らないが、中間部の激しいパッセージの連続はモーツァルトのイ短調の幻想曲を想像させてドラマチックである。最後は平静な感情で締めくくるあたりは「人生の悲しい出来事もありのままに受け入れる」という気持ちが感じられる。「諦念」は情熱の人ショパンの最も相応しくない感情であるが、この曲ではそれが不思議なことに「サラッと」出ているところがまたいい。自分で弾く時には真ん中の難しいところはとてもじゃないが無理なので「すっ飛ばして」弾くのだが、やはりこの部分を弾かなくては「最後に平静に戻る」というこの曲の構成が全く無意味になってしまう。私は、子供でも弾ける名曲集などにこの曲が入っているのが不思議に思っているのだが、小さい子には技術的にはもちろんのこと、音楽的にも難しいのではないだろうか。やはりこの曲は「じっくり聞かせる演奏」で聞いてみたい大人の曲である。

第8位  バラード第3番変イ長調作品47
ショパンのバラードは物語というジャンルである。第3番は特に静かな出だしが何かの物語の始まりを指し示しているようで引き込まれる。音数が少ないので一見易しそうであるが「結局難しいところが出てきてそこでオジャン」というのが私の経験から出された結論だ。要するに「ハナっから諦めよ」という教えである。ショパンは素人にはどれも難しいのだ。スケルツォ第2番など、子供の発表会などでも良く弾かれる派手な見栄えのする曲であるが、割と頻繁に演奏されるというのは案外と易しいのではないかと想像しているけどどうなんだろう。演奏効果は抜群なのだが弾くのはそれほど難しくはない、というのがショパンのいいところであると誰かが言っていた。といっても最低限の技術はもちろん必要ではある。つまり私などには「一生縁遠い」世界である。目にも止まらぬ指の動き、とよく言われるが一流のピアニストになってくると「実際、スロー再生しても見えない」ことがある。まさに神業である。3つ4つの頃からピアノ一筋に研鑽努力しているプロの間でも「天才」といわれる一群の人達がいて、その中でもミケランジェリやポリーニやリヒテルは「抜きん出ている超人」と言えそうだ。とにかく「身体の一部を早く動かす」というのは、努力して何とかなるわけじゃないのだろう。しかも早けりゃいいってモンではないのが「この世界の難しいところ」である。このブログを描くにあたって色々YouTubeで動画を開いてみたが、やっぱり私の持っているリヒテル盤が最高だった。どこが凄いといって上手く言えないのだが、とにかく凄いのである。ゆったりとして始まるがしかし激しい所は「恐ろしく早く、しかも一音一音はっきり」としている、つまり正確に弾くだけでなく表現として成立している演奏なのだ。世間には早く弾くことで飯を食っているピアニストもいるみたいだが、曲芸師に入れたほうがいいような人もいっぱいいて、スケルツォやバラードは特に観客に受けるので「目一杯張り切って」弾く連中が多く辟易する。いまどきは早く弾くのが流行りみたいだが、ゆっくり弾くことも覚えなければ一流にはなれない、とは誰かの言葉らしいが「名言」である。但し、ゆっくり弾くのと「早く弾けないから遅く弾いてしまう」のとでは「似てるようで全然違う」から間違えないこと。まあ聞いていればわかるけどね。

第7位  ノクターン第18番ホ長調作品62の2
まどろむようなメランコリーの感情が横溢する小品。色々な感情がないまぜになった不安定な揺れ動く心の不安や、まるで都会の雑踏の中を何かを探し求めて彷徨う青春の儚さを表しているかのような、夢見るメロディで終始する曲。私はショパンのこのようなゆらゆらした感じが好きである。よく「夢見るような」という表現があるが、甘いばっかりの曲は飽きてしまう。シューマンのトロイメライやリストの愛の夢第3番など有名な曲が多いこのジャンルでは、結局は単純な楽想をオカズで膨らました「目くらまし」になりがちだ。観客は曲を聞いて満足するかも知れないが、ショパンのこの感じは「最後まで分からない」ところが私は気に入っている。メランコリーというのは曲が終わって「ああメランコリーだったね」と結論づけてはメランコリーではない。何だか分からない感情が心を捉えて離さないがしかし、自分では出口が見えないもどかしさの中に置き去りにされる、そんな霧に包まれたような感情こそが結果的にメランコリーと称されるのではないだろうか。この感情を音として定着させるショパンの能力は、時代の状況もあるだろうが「彼、独特のもの」と言えると思う。まあそれほど持ち上げるだけの傑作では無いとは思うが、私にとっては好きな曲の一つである。何しろ出だしのメロディが「悩み多くて、しかも可愛らしい」のが好みだ。

第6位  アンダンテスピアナートと華麗なる大円舞曲変ホ長調作品22
美しいの一言である。上流階級の淑やかな貴婦人令嬢達を夜会に誘うオープニングに相応しい、構成のしっかりと練られた大規模な作品である。これが作品22というから結構番号付きの曲は遅く発表されていることになる。バッハの1000曲以上、モーツァルトの600曲以上は時代が違うとしても、ショパンやシューベルトといった若くして生涯を閉じた早熟の天才は、一日の頭の使い方も「想像を絶する高速回転の全速力で走り切って」いたのだな、というのも生物の不思議である。我々鈍才は一週間をボーッと過ごした挙句何をやっていたんだか忘れてしまうぐらいで「やっと一つくらい記憶する」体たらくであるが、ショパンはこれを最高度に毎日毎時間やっていた、ということはすなわち、生命のエネルギーを音楽のためにだけ燃焼しつくしているということで「そりゃ早死するわなぁ」とは思う。しかしこの頃のショパンは後年肺結核で早死するなんてことは露ほども知らないわけで、故郷ポーランドの行く末と自身の音楽の道とが複雑に絡み合った激動の時である。その中で「一瞬の晴れやかな舞台」をきらびやかに飾る「颯爽たるピアノの詩人」の片鱗を見せた社交界への名刺代わりの一曲がこれである。私はオーケストラ付きのツィンマーマンの演奏が好きであるが、独奏バージョンも悪くはない。出だしの第一主題の「下降装飾パッセージ」が何ともお気に入りで、気分が外交的でハッピーになってくる豪快な曲である。

第5位  ワルツ遺作ホ長調KK4A/12
これもショパンの故郷のポーランドを懐かしみ、楽しかった青春の思い出を一つずつ心に浮かべる佳曲。ところどころに楽しさが散りばめられて珠玉の逸品に仕上がっている。私はポーランドには行ったことがないが、テレビで見るとヨーロッパの国々のなかでもロシアに近くてちょっと片田舎の風情である。当時の社交界はウィーンとパリとロンドンが三大都市だったようで、ワルシャワなんか全然出てこない。今の日本で言えば東京に対する鳥取みたいなもんで、住めばいいところかも知れないが「住みたいとは思わない」という感じではないだろうか。ピアノの才能(もちろん当時は自分で作曲した)だけで一旗揚げようというのだから相当な自信家だったのだろうが、時代がそれを受け入れる土壌になっていたとも言える。故郷を離れてパリで生活していても、彼の心の片隅にはポーランドの「田舎暮らし」が時折懐かしさをもって思い出されることもあったと想像したい。上流階級の女性たちを喜ばせる曲や自分の音楽的野心を密かに叶えるための作曲の合間に、このような「ふとした瞬間に心に芽生える故郷への抑えがたい愛」というものが作曲されていた、というのもまたショパンの人間的魅力の一つである。

第4位  エチュード第1番変イ長調作品25の1「ハープ」
最愛の逸品と言ってもよいのがこの曲。だいたいピアノは旋律を弾くのには向いていない楽器で、ブツブツと音が切れて「一回鍵盤を叩いて」音を出した後はもう演奏者にはどうにもならないわけで、朗々と歌い上げるテノールの美声なぞ望むべくもない、というのが難点だった。バッハの頃はパイプオルガンがあったが「建物の一部」というのも甚だ具合がよろしくないし、モーツァルトの頃までは膝の辺りで操作していたのがようやくショパンの頃には足でペダルを踏むようになり、多少は長めの音も出せるようにはなってきたというのがピアノの現状で、「音を伸ばすことができない」のが最大の欠点である。その代わりに10音以上の「和音」を一度にバンバン演奏出来るというのはピアノにしか出来ない利点で、独奏曲というのも「ピアノならでは」の伴奏付きという「一人二役」が大いに受けて今の隆盛に至っている。ピアノはもともと伴奏をする楽器だったのであるから、主役に躍り出たのはバッハの子どもたちの世代ではないだろうか、それから100年も立たずにショパンまで進化したのだからそのスピードは凄いものである。私はこの「ハープ」がネットラジオから流れてくると電車に乗っていようが何していようが、お構いなしに思わずニンマリして笑顔になる。つまりは何とも言えず幸せな気分になるのである。これほど疑いの入り込む余地のない、混じりけのない幸せ感をもたらしてくれる音楽は他にない。シューベルトの即興曲作品90の3は、美しいのだがそこに彼独特の悲しみが混じり「到達できない憧れ」が精神を彷徨わせ、モーツァルトのアヴェヴェルムは美しくて同時に「人間を超えた高貴な存在への思慕」が聞くものを高みへ誘う「言わば非日常」の世界である。そこへ行くとショパンんこの曲は「ただただ美しく幸福」だ、それに尽きるのである。私はクラウディオ・アラウの盤が好きで、気がつくと目を閉じてじっと聞き入ってしまっているのだ。中間部に一瞬悲しみがよぎるが、すぐに打ち消してまた幸せ感に戻ってゆく作りは流石である。もちろん最初の幸せ感と最後の幸せ感は「同じではない」。同じではないところが「何度でも聞いてしまう、飽きさせない味」なのである。音楽は深い。

第3位  ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11
言うまでもないことだがショパンで最も多く演奏会場で披露されていて、ピアニストが最高の見せ場で喝采を浴びるのがこの協奏曲なんである。とにかくこれを弾くピアニストは「カッコいい」の一言に尽きる。オーケストラの序奏を聞きながら椅子に座って自分の出番を待っているソリストの心境を推測すれば、早くも心はフィナーレの後のスタンディング・オーベイションを浴びている「自分の颯爽たる姿」じゃないか、とすら思える余裕の表情である。CDで聞いている時でもピアニストの演奏している姿が目に浮かぶような、そんな演奏者とオーケストラと観衆が一体となった演奏会向けの大人気コンチェルトである。ベートーベン・チャイコフスキーと並んで三大ピアノ協奏曲なんて言われたりするが、私はショパンが一番だと思う。ベートーベンは理屈っぽく、チャイコフスキーは田舎臭いし、どっちもオヤジ的発想の曲である。特にベートーベンはメロディが陳腐で「オカズ」ばっかりである。チャイコフスキーも壮大な出だしの割には尻すぼみ感が隠しきれない。まあアルゲリッチがチャイコフスキー・コンクール・デビューでいきなり優勝した時は、女性なのにド迫力のオクターブの連打に涙が出たが、曲自体の見どころ聞きどころは余り無いと言えよう。それに比べるとショパンのほうは曲の出来といい見せ場をいくつも作っている緊張感や、第二楽章の甘美極まりないメロディ、それにフィナーレまで一気に追い込む緩みない迫力の連続は「秀逸で断トツ」の傑作であると言える。こういう曲をいかにも軽々と弾いて「よく似合う」と言えるのは単にテクニックが優れているだけではダメで、やはり「見てくれもイケメン」であることが必須であろう。私としてはロシアンピアニズムのアヴデーエワが6月日本公演の時にやってくれるのかと思ったら、曲目は何とブラームスの1番だというので超ガッカりさせられた。しかしブラームスの「ザ・青春」ともいえる名曲を彼女がどう弾くか、というのも楽しみではある。東京文化会館でやるのだが、C席で9000円なので私は少し考えている。クラシックは我々庶民が生で聞くには高すぎるかも知れない。

第2位  ポロネーズ第7番イ短調作品61「幻想ポロネーズ」
どちらかと言えばレア物かも知れない。私はちょっとひねくれているから「この手のアクの強い曲」が好みなんである。ショパンにはままあることだが、「幻想」という魅力ある題名が付いている。シューベルトのソナタにも同じ題名がついていたが、なにか共通するものがあるのかどうかは分からない。謎めいた出だしが先へ先へと聴衆の興味を掻き立てる書法は、後期のショパンの常套の書き方である。そしていつの間にか彼の描く魔法の世界に包み込まれて、深い内省的な感情の迷路に投げ込まれるのである。幾たびか念押し的な主題が繰り返されて徐々に緊張感が高まりついに最高潮に達するかと思えば突然に暗い情念が支配するどん底に突き落とされる。そこから這い上がって歓喜のフィナーレへと駆け上がっていくが、万華鏡のような華やかでめくるめく夢の世界を演出するショパンの技法的頂点を示す究極の作品である。一般的な意味での演奏会プログラムには余り載ることはないが、わかりにくい難解な曲というより、分かりやすいメロディの中に深い曲想が秘められている「音楽を心底楽しむための曲」であると私は確信する。これこそがロマン派の真骨頂だ、ともいえるのだ。私はこの曲の「いつ果てるとも知らぬ暗い情熱の行方」を追いかけるのが、好きである。

第1位  ピアノソナタ第3番ロ短調作品58
私が最も好きな、そしてピアノ曲全体を見渡してもこれだけ雄大で精緻で完璧な構成力と「とろけるような甘美なメロディ」を兼ね備えた名曲は他に知らない。ショパン畢生の作品である。ポリーニが今年の秋に日本最後の公演をサントリーホールで開くが、演目にこの3番を加えた聞いて私は「密かに感激した」のを覚えている。技術的に超難曲というわけでもなく、ベートーベンやリストみたいに「オカズてんこ盛りのカロリー満腹料理」ではなく、ショパンの晩年にようやく実を結んできた深みのある曲想が、「雄大な風景の中に繊細な感情の糸がもつれて吐息となって消えてゆく」みたいな、メランコリーな感覚に昇華するのを静寂の中でじっと聞いている、そんな気分にさせてくれる名曲中の名曲である。作曲家全てが望むソナタ形式の頂点であり、それこそピアノの詩人の面目躍如の作品と言えるであろう。有名な作曲者が必ず辿る道を、ショパンもまた辿ったのである。若い頃は才能の赴くままに華麗に大向こうを唸らせる受けのいい曲作りに励んで「傑作揃い」の一時期を得意の絶頂で過ごした後、音楽的にさらに一歩踏み込んで行こうとするにつれ「新進気鋭の若手後輩」に追い越されそうになり人気に陰りが出る」頃に不思議なことに「作曲の技法が一つの頂点に達する」時が訪れるのだ。当時の人々にはもう理解されなくなったその孤高の芸術は「100年後」にやっと大衆の認めるものとしてコンサートなどに演奏されるようになるのである。バッハもメンデルスゾーンが再発見するまでは「教会音楽の山に埋もれていた」という。モーツァルトが晩年にバッハを見つけて対位法を勉強した、というのは有名な話である。それでもメンデルスゾーンまでは「また埋もれた作曲家」になってしまっていたのだ。ビートルズも団塊の世代がこの世を去っていったら、きっとレコードショップの蔵の中にホコリを被って眠る運命に見舞われるであろう。流行とはそういうものである。クラシックは、今では儲かる人は「ごく一部」の人気者しかいなくなった。きっとピアノの詩人も、草葉の陰で寂しく嘆いていることだろう。分からない人には無理に聞いてもらわなくても結構だ、と喧嘩腰になるほどではないが、このソナタの魅力をわかってくれる人がまだいるようなら「クラシック界も安泰」である。私ももう一度最初っから聞き直してみようと思っている。できれば2、3人を選んで聴き比べるのもいい。

以上、ショパン「ベスト10」でした。如何でしたでしょうか。あなたの10曲と一致しているとすれば、これはもう大変珍しいことです。何しろ私はひねくれものですから。

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