goo blog サービス終了のお知らせ 

明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史刑事(デカ)柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(27)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(高市天皇)

2021-04-11 10:23:00 | 歴史・旅行

1、白村江までを振り返る

欽明王朝が敏達・用明と続いた後に「蘇我物部戦争」で実質的に蘇我政権が誕生し、それに不満を持った崇峻天皇が馬子に弑逆されて「傀儡」の推古が天皇位に就いた。古事記が628年推古の崩御で巻を終えているのは、彼女の死がすなわち「大和王権の消滅」を意味しているからである(これは一条このみ氏から得た知識だ)。ところがそれを描いた正統な歴史書である「古事記」は、712年に撰進されたあと宮廷内部に埋もれてしまい、720年全く新しい歴史書として「日本書紀」が登場した(制作年代については色々な疑義があるが)。古事記は読んで字の通り「古事」の記録である。天武天皇が古事記の作成を指示したという話が本当だとして、それは中国の歴史書が「前代の歴史を当代の認識で描く」という伝統に従って、前代の欽明王朝の歴史を書いているという体裁である。だから天武天皇の頭の中では、推古女帝以降の「舒明天皇・皇極天皇・孝徳天皇・斉明天皇・天智天皇・弘文天皇」といった面々は実体が希薄で、乙巳の変で倭国の支配に変わった期間に「名前を連ねているだけ」の存在ということだったのかも知れない。実際、舒明・皇極(斉明)の事績は外交・内政とも殆どない。孝徳の事績も書記では大化の改新や難波宮の建築など大々的だが、これらはどうやら高市皇子や博多湾岸に造られた宮などの記録を持ってきたようなので、これも実体は無さそうだ。古事記は多分名前の通りに「古い記録を時系列に集めた書」という程度なのだろう。だから、書記には書いてあって古事記にない話が頻出する(例えば景行大王の九州大遠征など)。その代わりに古事記ではロマンチックな歌謡など、書紀には無い特徴的な「逸話や物語」が多く載せられている。

一方、書紀は「日本国の正史」という明確な意図をもってつけられた書名である(日本紀とも)。これはむしろ、中国(=唐)に向けた対外的な説明のために急遽作成された文書だとも考えられる(これは私の想像だ)。だが歴史愛好家にとっては残念なことに、書紀の記述は場所も年代も何もかも「事実を変更」して埋め込まれているので、「何が本当か」は簡単には決められないのである。中国史書や万葉集などと外部文書と「照合・裏読み」しなければ歴史の真実は見えてこない、という点が難解なのだ(うーん、いつまでこれが続くんだろう?)。だから私は細かいことには目をつぶり、大きな粗筋だけを追ってみることにしている。例えば持統天皇の吉野詣では34年前の倭国王の記事の剽窃であるというのは、一条氏の解説で知った(古田武彦氏が発見)。中大兄皇子の大化の改新も、古人大兄皇子の吉野殺害も、そして大海人皇子の壬申の乱までもが「事件があったことすら」明確な確証は得られてはいない(らしい)。これが現在「私が確認した」歴史である(つもり)。ただハッキリと言えることは、663年に白村江で倭国が唐と新羅の連合軍に大敗した、という事実である。これは唐と新羅の歴史書にも載っている事実であるから疑いようがない。そして、続いて唐は念願の「高句麗」を攻め滅ぼして、平壌と熊津に都督府を置いたことまでが分かっているのだ。これを基点として日本の歴史を解明するのが一番正しいやり方であろう。

そう言えば大宰府にも「都府楼」という名前があったが、これが日本に設置された「唐の傀儡政府、またはGHQのような統治拠点」を意味すると考えるのは飛躍しすぎだろうか(面白いアイディアだが、まあちょっと無理があるかもね)。白村江の勝利の後、唐と新羅は「日本占領」をしなかった。勿論高句麗を滅ぼすことが唐の目標だったから、日本には「手が回らなかった」とも言える。実は白村江の戦いは、唐にとっては「高句麗を攻める拠点作り」だったのではないか。百済が滅んで新羅が韓半島の勝者になったとしても、唐に取っては「目下の計画」ではなく、オマケのような事に過ぎなかったと私は思っている。つまり戦国の英雄「武田信玄」が、まだひよっこの徳川家康を三方原で「鎧袖一触」、散々に打ち破ったように、である!(白村江を古代史最大の海戦と位置付けておきながら、その言い草はなんだ!)。まあ私は、倭国=日本は昔から中国の冊封体制に組み込まれており、唐も「日本をそれほど嫌ってはいなかった」と思いたい。実際に倭国と日本の双方の使節が唐の宮廷でかち合って言い争う状態になった時、唐側の官吏は「倭国の方に好印象」を持っていたと記録に残っているようだ。何れにしろ白村江以降、唐は日本を武力によって征服するのではなく、より穏便な方法として「安定的に従属させる方針」を採用したのは間違いない(つまり冊封体制の継続、親分子分の関係である)。日本は侵略・征服するには面倒くさかったのだろう。何より地続きじゃなかったのでコストに比べて得るものが少なかったのだ。それよりも私は「皇帝の徳」が、こんな東方の僻遠の地から遥々やってくる蛮族・東夷の国にも及んでいるという事実の方が、彼らにしてみれば価値があったと理解している。大体中国人は、実利より名目を重んじる民族であるということか(最近はそうでも無いようだが)。これが私の考える「7世紀東アジアの国家体制」の正しい歴史認識である。

2、高市天皇

白村江から一夜明けて、唐との外交交渉を一手に引き受けて賠償問題を解決した中大兄皇子が、(古人大兄皇子の娘と言われているが実際は)倭国の姫君である「倭姫」を皇后に迎えて倭国大王位を継ぎ、近江大津に宮を置いて「天皇を名乗った」のが668年である。それまでは元々が大和政権という実体がなかったから、中大兄皇子が天皇即位を躊躇して「称制」をとっていたという「不可解な事実」も無かったことになる。北九州倭国から大挙して避難してきた人々は(つまり疎開である)香具山の麓に都を造ろうと土地買収や区画整理などを始めていた。ある程度構想が出来ていたところに急な天智天皇の近江遷都があって、仕方なく「都」建設は一時諦めて計画は頓挫していた。その後に壬申の乱があって(これも実際は大した事無かったとの説もある)天武天皇が天下を握り、数々の改革を断行して686年に崩御した。これが一応の歴史解釈である。だが天武天皇は年齢も両親も何もかも正体が不明な上に、壬申の乱の活躍というのも「高市皇子の方が実績」があって、実は天武天皇は壬申の乱を戦ってはいない、と考える人もいるようだ(何を隠そう、この私である!)。天武天皇は実はそれほど歴史的に重要な人物ではなく、むしろ「高市皇子」の方が八面六臂の大活躍をしていた、とする見方が最近は有望視されているようだ(当然、私の勝手な憶測である)。ただ、倭国正統の大王=天子というよりは、北部九州湾岸地方に広大な勢力を持っていた「宗像氏系の一族」の後押しを受けた大王ではなかったか、というのが私の視点である。つまり倭国本体の正式な後継者は天智天皇と大友=弘文天皇であり、それを破った天武天皇と高市皇子は「疎開してきた別グループのリーダー」だった、という案だ。これ案外と当たっているかも知れない、と思っている。

倭国の人々からして見れば、元は大和地方の田舎大王だった天智天皇は「倭国の姫君」と結婚して倭国王の地位を継承してはいるが、その権威に納得して従っているわけではなかった。天智天皇が亡くなり「最大の脅威である」唐の使節が去っていった後は、そろそろ「倭国の人間」が帝位に返り咲くべきだとの声が充満してきたと思う。それが壬申の乱であり、天武天皇の誕生である。だから多分「戦闘自体は大したことなかった」というのが真相だろう。何より、日本書紀が丸々一巻を費やして、微に入り細に渡って大海人皇子の吉野逃避行から瀬田の唐橋での激戦に至るまで、これでもかと言うくらい詳細に綴っているのが「逆に怪しい」のだ。日本史上最大の海戦である「白村江」についてはあっさり数行で終わらせているのに・・・、である。私はこのこと一つを見るだけで「壬申の乱はなかった」と考えるに至ったのだ(大袈裟なこと言うな!)。まあそれは良いとして、高市天皇が696年8月に崩御され、後継指名を会議で決めたと懐風藻に記事が載っている。書記の記述では持統天皇が皆を召集して後継者(記事ではこの時は、一応「皇太子を選ぶ」ということになっている)を決めようとした時に、年長の葛野王が「珂瑠皇子=後の文武天皇」を推したので大いに喜んだという。まあ、持統が天皇であったなら何も大臣達を招集する必要は「全然無い」のだから、歴史家もそろそろ考えを変えた方が良くない?、って思うのである。

それはそれとして、高市天皇が崩御した後から実は倭国は書記に書かれていない「内乱状態に陥っていた」と一条氏は考えているようだ(あくまで私の解釈だ)。これは驚くべきというか、まさに歴史における「コペルニクス的転回」である!。実は高市天皇の息子には「長屋王」という立派な後継者がいたはずだが、彼が「冤罪」で自殺に追い込まれるのはもっと後の話である。まあこの話も「実際には」いつ起きたことなのかは分からないが、取り敢えず日本後紀の記述では「もっとずっと後の出来事」のように書いてあるらしい。とにかく書記の記述をそのまま追うと、697年11月11日に新羅使を陸路と海路から筑紫に迎えしむ、とある。一条氏は高市天皇が崩御した後に「内乱」が勃発して、倭国は「陸路と海路の両方から」攻め立てられて大混乱に陥っていた、としているのだ。だがここは文武天皇の登場する前に一度戻って、香具山の麓の「藤原宮」について一条氏が指摘している新しい知見を書いておこう。

686年に天武天皇が崩御。それから高市天皇が後を継いで中途で放棄したままになっていた区割りを拡充して(平城京や平安京よりも大きいと言う)新益京の建設を開始した。藤原宮と言うのは都全体の名称ではなくて、その中にある「大内裏の建物名」であったのを、大正時代に学者が勝手に都の名前として呼んじゃったらしいのだ。どうも日本人は、歴史というものを自分勝手に捻じ曲げる癖があるみたいなのである(書記の書かれた当時から既にあった癖だとも言える!?)。地鎮祭に高市天皇の母方の地、北九州の神である宗像三姉妹の末娘「市杵島姫神」を勧請して、ついに新益京(つまり藤原宮のこと)は694年に完成した。万葉集に当時の「新しい都の完成を寿ぐ歌」が幾つか載せられていて、その古写本が香具山の麓の「奈良県文化財研究所藤原宮跡資料館」に展示されているとのことで、それを実際に見に行った一条氏は、その注の中の「日本」という文字の部分に「ひのもと」とルビが振ってあった、と証言しておられる!。これは「日本という文字」の読み方についての大発見だと思うのだが、なぜか「ヤマト」と読んで恬として疑わない「学者」が未だにいるというのは、全くもって信じられない「歴史の冒涜」であると思うのだが・・(怒っている!)。しかし、日本の学者連中というのはいくら言っても無駄なようだから、ここは残念だが割愛しよう。完成後の翌年「新年695年」に大化と改元(九州年号というのが残っている)。いわゆる「大化改新の詔」という一連の改革はこの年に高市天皇が天下に布告した各条例を、645年の乙巳の変以後に孝徳政権が発布したように作り替えて記述したものなのである。まあ、その殆どは倭国から持ってきた制度であると言われているが何にしても、高市天皇は精力的に支配体制を強化しようとしていたようである。豪華絢爛な新都「新益京」に比べて、飛鳥地方に細々と残っていた飛鳥浄御原宮(板蓋宮?)の侘しさは、もはや見る影もなかったと言う。やっぱり天武天皇は「影」なのであろうか。

次回は最終回、「九州王朝の崩壊」です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。