明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史通史の試み3(倭の五王と磐井の乱)

2018-10-09 23:07:24 | 歴史・旅行
倭の五王とはいわゆる讃・珍・済・興・武の、中国史書に出てくる倭国の王統である。いずれも中国の王朝から東アジア朝鮮半島南部の軍事的支配権を認めてもらうために度々貢物を持っていった日本の王権である。478年には倭王武に対し、南宋順帝から「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任じられている。倭を六国の最初に書いてあることからも倭が本拠地である。だがこの倭王については、中国史書(及び朝鮮の金石文など)以外に日本の史書(日本書紀など)には一切出てこない。私は倭の五王については余り関心がなく、少々の疑問とともに「おまけ」程度のものと考えている。なぜなら日本の歴史を志賀島から邪馬台国そして磐井の乱から白村江へと続く古代史の流れと見た場合、ちょっと違和感があるからだ。

武が順帝に送った上表文には「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平ぐること95国」と書いている。つまり東西と海北の三角形の中心という位置関係から言うと、倭国は北九州あたりを本拠地とする勢力だと言える。これを奈良に持っていこうと必死になっているバカがいるが所詮無理な話、いい加減にやめろと言いたい。ちょっと過激な口調になってしまったが、この手のバカはいつまでもウダウダ下らないことを言い続けるし一度では懲りないので、何度でもやめるまでは言い続ける必要がある。とにかく東側に55国あるということは、日本地図をみればわかるが、大分県から宮崎県あたりは博多・太宰府から「東」と言ってもいい。当時は1国が今で言えば「市か村」規模だったと思えば、55国と言っても納得も行くのだ。

都督府とあるのは太宰府でほぼ間違いない、というか「太宰府である」。日本の古代遺跡で都督府らしき跡というのは「太宰府しか無い」のだから、この点だけでも倭の五王が本拠としていた場所は「九州博多の太宰府」である、と普通の感覚を持っていれば思って然るべきなのに何故か日本の学者は、未だに「倭王武は雄略天皇か」などという妄言たわごとを「本にまで書いている」のだから呆れてものが言えない。いっぺん自宅に押しかけてその粗末な頭を思いっ切り引っ叩き、「このバカが!」とでも言い放たなければむしゃくしゃして何するか分からない位に腹が立つ状況である。日本の歴史学会はアホばかりだ。とまあ、話の本筋とは関係ないので元に戻すとしよう。

で、太宰府を本拠地とする倭国が何故、そんなにも朝鮮半島の北辺にある高句麗に敵対しているのか、である。この間、中国への遣使では「しきり」と軍事権を主張している。妙に半島に執着しているのだ。5世紀の記事が半島のことしか書いていないのでしょうがないが、高句麗への侵攻と同時に国内での戦闘も行うとすれば、相当な頻度で軍隊を召集・組織・送出していることになる。記事にある通り万単位の軍隊であるとすれば、国力は生半可のレベルではないだろう。ある程度の統治制度や身分階層もはっきりした「国家」と言えるまでの段階にあった、と容易に想像が可能である。それが、倭王武の半島での戦いが敗戦で終わると、記事もまた途絶えてしまう。

五王の支配は国内的には安定していたのかどうなのか、詳しいことは分からず仕舞いである。しかし中国史書に頻用されている上表文が四六駢儷体の華麗な文章で綴られているのを見れば、純粋な日本人が書いたというよりは専門の役職にある「中国人」を想像したほうが「すんなり」いく。つまり、この時代には外国人の登用も盛んであったか、政府中枢においては「むしろ朝鮮半島王朝」というべき傾向にあったと言えよう。であれば高句麗への度重なる出兵も、倭国の支配層が元々朝鮮半島の出自となれば当然である。何れにしても中国・朝鮮とがっぷり4つに組んだ戦いの連続する5世紀に倭国は、北九州が本拠地とは言え「活躍の場を半島においた政権」であり、言わば侵略・拡大の思想を持つ集団といえよう。

私は倭の五王を一つの壮大なエピソードと考える事にしている。讃・珍・済・興・武と、日本人らしからぬ漢風一文字の名前にしても、どうも日本とは関係なさそうな気がするのである。晋書にある邪馬台国の記述にしても、卑弥呼が公孫氏の親戚とする解釈もあるくらいで、そもそも邪馬台国が朝鮮半島にあったとする「山形明郷氏」のような意見も一概には否定できない。第一、日本書紀に書かれていないということは「邪馬台国は日本と関係なかったから」という考えもありうるのである。つまり倭国は邪馬台国の後継で朝鮮半島にあり、どちらも日本とは無関係と言うわけだ。それなら漢字一文字の王名も納得がいく。だが夢想するのはそこまでで、魏書倭人伝の対海国・一支国以下の国名にしても、邪馬台国の風物や習慣などを読むと、どう考えても邪馬台国は九州である。それに上表文の「海を渡りて平ぐること95国」とあるのを見ても倭国は九州ではないか。では倭国はどこで、何をやっていたのか?

残念ながらこれ以上の情報は何もないのである。全て推測・想像の域を出ない。それで私は「諦めた」と言うわけだ。紀元57年の志賀島の金印から紀元238年あたりのの親魏倭王の金印、それから6世紀初めの「磐井の乱」と続く日本の歴史の間に挟まった「朝鮮半島支配をめぐる一連の物語」であり、広開土王の碑に書かれているような壮絶な戦いは「だいぶ誇張された事績」として考えて、戦闘行為はあったにしても「大規模な海外派兵という程ではなかった」と思いたい。少なくとも5世紀の日本の統治形態や全体像・姿を僅かでも想像する事は、倭の五王からは出来ないというのが結論である。日本は志賀島から邪馬台国そしてその後の4世紀・5世紀の何百年間は、相互に戦ったり友好関係にあったりしながら次第に村単位から「ある程度の領地をもつ国」に発展していた時期、と思っておけばそれで十分である。

肝心なのは聖徳太子と蘇我王朝、天智天皇と天武天皇の王権奪取、それと文武天皇の奈良王朝である。日本古代史を彩る「この3つのキーワード」を解くカギは、九州にある。日本は歴史的に百済と深い関係にあるが、それがたまたま近いからなのか、それとも血縁関係があるからなのかは調べる必要があるだろう。現天皇家も、百済王家と姻戚関係にあることを公言しているから、宮内庁の資料部には何か「とんでもない秘本」があるかも知れない、などと考えがぐるぐる巡ってまとまらない。まあ、永遠の秘密として今後とも語られることはないだろうけど、興味が無いと言えば嘘になる。だがその前に継体天皇についてちょっと書いておくことにする。

百済本紀に「辛亥の年に日本の天皇および太子と皇子が崩御」とある。これは一応531年と比定されているが、継体天皇の死亡年も「古事記は527年・日本書紀は531年または534年」とあって、都合よく合致する年がある。これが欽明天皇王権簒奪説にもなっている訳だが、欽明王朝は蘇我氏と関係が深いことから飛鳥地方の部族による政権交代があったとすることも考えられる。勿論この「飛鳥地方」は九州の飛鳥である(大伴金村と物部麁鹿火は共に九州の一族)。最近の私の日本史理解は、大矢野栄治氏の九州王朝説を「とりあえず中心に据えて」考える事にしている。継体天皇が物部麁鹿火に言ったとされる「長門より西は汝が取れ、東は朕が取る」という言葉など、「?」と思うこともあるが一先ず放っといて、磐井の息子の筑紫葛子が死罪を免れるために糟屋の屯倉を献上したという事件が「日本書紀の困ったところ」に思えるのだ。つまり威風堂々と叛徒磐井を打ち破っているのに「長門より西は汝が〜」とあっさり九州を物部にあげてしまったり、大掛かりな戦いの戦利品にしては屯倉一つだけという結果になっている点で、「磐井を倒した伝承はあるが、その後については未詳」らしいのである。どうやら磐井の乱と言われている事件は「磐井が主人公」の物語のように見える。多分物部氏の伝承に類似の事件が残されていて、「大王が云々」と言っていたのを日本書紀の作者が年代的に継体天皇に当てはめたというのが真相であろう。「長門より東を云々」も話の都合上そうでなくては辻褄が合わないために挿入された言葉である可能性が大である。元は九州の勢力争いで物部氏の先祖が活躍した、という話かも知れない。まあ、前後の脈略がない「単一のエピソード」として、本筋に無関係と見たほうが良さそうである。大筋は、武烈王統が絶えて内乱が続き、大伴氏や物部氏らが押すオオド王が、住居を転々としながら何とか大王として政権を取ったのも束の間、最後にクーデターで太子・皇子共々殺され、勝った欽明天皇が王朝を開いた、といった辺りではないだろうか。倭王武の後しばらくして磐井の乱があり欽明天皇が立って「蘇我氏の時代が来る」というのが流れである。継体天皇は事件としては色々あって面白いが、歴史的には「聖徳と蘇我氏」の方が重要であると思う。

今回は尻切れトンボになってしまったが、歴史自体がそうなのだから仕方ない。ここまで大雑把に「市易するところ三十国」とあった日本が、段々と収束して「日出ル処の天子」が統一するくだりを見るまでになった訳で、細かい点はあるが日本の統一というより「九州の統一」というのが歴史の本当の姿だと思う。この理論をさらに掘り下げて古代史を俯瞰する、というのがこの古代史通史のテーマです。次回は「日出ずる処の天子と聖徳太子、及び蘇我氏と乙巳の変」、大変ですが乞うご期待!

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