明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(日)歴史:古代史刑事(デカ)柚月一歩の謎解きは晩酌の後で(25)一条このみ「万葉の虹」を読み直す(その10)天智天皇の謎

2021-02-21 13:09:08 | 歴史・旅行

1、665年7月28日、唐から使者が来た
ここで一条このみ氏は、中大兄皇子と大海人皇子の関係を明らかにする。唐の交渉相手は白村江で壊滅的敗北を喫した倭国の人間ではなく、白村江に参加しなかったせいで勢力を温存していた中大兄皇子が支配者の空白を利用した、と分析する。そして唐の要求は、大海人皇子ら倭国の残党の引き渡しではなかったか、と考えたのだ。この推測を裏付ける資料が2011年10月23日の朝日新聞で明らかになったという。それは唐使に同行した百済禰軍の「墓誌」が公表され、「生き残った日本兵は扶桑に閉じこもり、罰を逃れている」と記されていた。百済禰軍というのはどうやら個人名のようで、678年2月に死亡したそうである(当時から倭国軍は「日本軍」と認識されていたらしい)。この時点での日本全体を勢力分けすると、大海人の倭国残党(さらには大海人皇子に味方する「大和旧勢力」)と中大兄の大和政権とが分裂拮抗していた。つまり状況を総合すると、中大兄は昔からの大和の人間ではなく外からやってきた「外部勢力」じゃないかと私は思っていたが、実際は全く違うようだ。武烈の系統が絶えて応神5世の孫という触れ込みで継体が出てきた。その後、欽明王朝と蘇我一族が権力を握り繁栄を極めたが蘇我氏の内部分裂から争いが起こり、多分渡来系だろうと思う「孝徳天皇」を担いで、河内の蘇我氏が権力を握った。それが、倭国が朝鮮半島の情勢変化に介入すると対抗して、倭国と違う「独自路線」を掲げたために危機感を覚えた中大兄皇子が、袂をわかち飛鳥で政権を取ったのが斉明政権である。もともと中大兄は、渡来系の中では新羅に近い蘇我氏とは距離をおいている百済派だったと言う意見がある。しかしあくまで朝鮮に介入して唐と対立する倭国とは一線を画し、倭国から遠く離れた田舎の飛鳥に籠もって、白村江には派兵しなかったと言うのが事実である。もしかしたら中大兄皇子は「伯耆・出雲の大国出身」の貴族の可能性もある、かと空想したりもしている。これは「河村日下」の影響である。

とにかく欽明王朝が推古天皇で途絶えて以来、倭国の息の掛かった山背大兄皇子一族を滅亡させて大和に独立政権を構えた蘇我氏が、大和では独裁権力を謳歌していた。一方では朝鮮半島の勢力争いに加担する倭国と、他方では飛鳥を本拠として急激に国内に勢力を伸ばしつつある蘇我氏。孝徳政権は蘇我氏の内部抗争で生まれた一時的な政権だったのだろうか。乙巳の変で走って逃げ帰った古人大兄皇子は、「韓人が蔵作を殺しつ」と叫んで家の扉を閉じたという。じゃあ蘇我氏は渡来系の韓人ではないというのか?、謎である。勿論古人大兄皇子の言葉自体が創作だとも言える。何もかも疑って掛からなければいけないのが日本書紀であるが、そもそもクーデターの下手人がハッキリしているのに「韓人」というような通称を言ったというのは「宮廷内でも韓人という呼び名」で通用していたということだろう。私が思うに古人大兄皇子は現場にいたわけで、「実際に入鹿が殺されるのを見ていた」のだから、首を刎ねた「佐伯子麻呂か葛城稚犬飼網田」の何れかが韓人という事になる。どちらにしても渡来系とは思えないから謎は深まるばかりだ。他に現場にいたのは中大兄皇子であるから、やっぱり中大兄が「韓人」なのであろうか。もし中大兄皇子が韓人なら、母親の皇極天皇自身が韓人になるわけだから「皇室一家が韓人」と言うことになる。ああ困った。

大体、天皇の子の二番目の皇子という「中大兄」という呼び名で呼ばれていて、すでに上には「古人大兄」皇子という「年長の後継者候補」がいるのにも関わらず、16才という若年で「しかも皇太子」として舒明天皇の誄を行ったというのも、実に妙である。もしそれが本当なら「この時皇太子指名を巡って」蘇我氏内部で争いが起きていてもおかしくない。中大兄皇子が皇女を母に持っているとしても、古人大兄皇子の母も糠手姫で皇女である。どちらにしても血統的には大した差はない。むしろ中大兄皇子の誄の記事は、天智天皇の年齢を天武天皇より上に持ってくるための「撹乱記事」ではないかというのが私の推論だ(意外と当たっているかも)。実際は中大兄皇子は「もっとずっと若かった」というのが真相だと思っている。そうであれば、宝皇女は中大兄皇子を次期天皇にするためには、皇極として王位を継ぎ、そして乙巳の変を起こして蘇我氏を倒して孝徳という中継ぎを経て、念願の中大兄皇子を天皇にするように着々と準備を進めていたということになる。孝徳が難波宮に一人残されて百官全員が飛鳥に戻ってしまったというのも、皇極が中大兄皇子を天皇にする気だったと思えば納得がいく。孝徳天皇の息子の「有間皇子」も、中大兄皇子の即位に邪魔だったから殺された。乙巳の変の首謀者は案外「皇極」だったのではないか、との「妄想」が頭を掠める(おおっ!)。なお、有間皇子の母方は内大臣・阿倍内麻呂系の小足姫で、後年持統天皇の異母妹である元明天皇として日本書紀を完成させる女性天皇が「阿閉皇女またの名を阿陪皇女」という名なのも意味深だ。とにかく中大兄皇子の周辺は分からないことだらけである。ひとまず疑問はそのままにして、一条このみ氏の先を追っていこう。

2、どういう形で交渉が成立したのかは分からないが、劉徳高らは12月に帰っていった。
9月に話し合いが行われ、ほぼ3ヶ月半を要して合意に達した模様である。それから1年少しで近江遷都が行われ、倭国残党が香久山西に建設中だった王都は打ち捨てられて、琵琶湖の南西に「大津宮」が新しく出来上がった。そして翌年、唐の使者との交渉から3年目の668年正月、中大兄は天皇位に即位する。藤原家の家伝によるとこの時の「天智主催の酒宴」で大海人皇子が槍を持ち出し、床板を突き刺して暴れたらしい。よっぽど酒宴で気に食わないことがあったのだろうと推測される事件だ。この時は鎌足が天智を押し留めて事なきを得たと家伝は書いている。本当かなぁ?。怒りっぽい天智のことだから、こんな狼藉を働けば「即死罪」となる筈だが、その後大海人皇子には何のお咎め記事も載っていない。やっぱり二人の間には「勢力の根深い溝」があったのだろう。それには「唐の思惑」が絡んでいることは間違いがない。多分、天智天皇は唐の使者との交渉で、大海人皇子等と「揉め事を起こさない」と約束することで、日本代表の地位を任されていたのだろう。唐は百済を滅ぼして宿願の高句麗征伐に全精力を注ぎ込んでいた。倭国に関しては、朝鮮に口出ししなければ良しとする状況だったのではないだろうか。そこで「親唐政権」を倭国の上に置いたと考えられる。そうなると鎌足の役割が大きくクローズアップされてくるのである。

天智天皇が百済に肩入れしていたとする日本書紀の記述は、白村江の戦闘に参加しなかったことからも事実と大きく食い違っていると思われる。天智は一条このみ氏の言うように、純然たる大和人で半島情勢には関心がなかったと考えたい。それにもしかすると、鎌足は「唐の代理人だった」ということも考えられるのだ。しかし妄想が過ぎるようだから、少し慎むとしよう。大海人皇子は倭国側勢力の代表で「大皇弟」だから、敗北した側ではあっても無碍に死罪には出来なかったのだと解しておきたい。もし天智天皇が大海人を疑っていたのなら、自分の生きている間に「何としても、必ず謀反の罪で殺している筈」である。それが達成されずに、大海人より先に天智天皇が亡くなったというのは「歴史の分かれ道」だったかも。天智天皇が先に大海人皇子を殺していたら、日本はどうなっていただろうか。妄想はどんどん広がっていく。結論からすれば、天智天皇は「勢力の危うい均衡に上」に存在していた、と言えるのではないだろうか。あくまで「唐という背景があっての政権」なのだ。唐が天智天皇を日本の代表と認めていたのは、ひとえに「倭国とのつながりが無い」ことだと言えるのではないか。ここに推古以来の近畿大和政権が40年振りに再興されたのである(一条このみ氏)。

3、天智天皇と大海人皇子との確執
天智天皇は671年9月に病に倒れた。そして12月3日に崩御する。新宮で殯した、とあるが場所が不明である。万葉集には殯の時の歌が4首残されているが、額田王・舎人吉年・倭姫大后・石川夫人、何れの歌も、天智天皇の死が突然で「船に乗り、彼が帰ってこなかった」ようにも受け取れる歌である。つまり遭難を暗示しているのだ。扶桑略記は「馬に乗って山科の郷に入ったまま行方不明」になったと言っていて、新井白石に至っては「その履沓の落ちたる処をもって山陵となす」と、おどろおどろしい伝承まで伝えている。これでは日本書紀の記述とは全く違う「天智天皇暗殺説」が根強く語られるわけである。そもそも天智天皇と大海人皇子は、大海人皇子が大田皇女に加えて鵜野皇女・新田部皇女・大江皇女と中大兄の娘を4人も娶り、中大兄皇子の息子の大友皇子と大海人皇子の娘の十市皇女の政略結婚に付いていく形で額田王・鏡王女を中大兄皇子に渡す、つまり人質交換をして一触即発の危険を避けていた対抗勢力同士であった。それが、一方のトップ「天智天皇」が急死したのだ。当然、大海人皇子側にとっては、両勢力間の均衡が破れたという「絶好のチャンス」である。そして大友皇子の側にしても、考えることは同じだったろう。壬申の乱は起こるべくして起きた。・・・いや、むしろ「仕掛けたのは大海人皇子の方」かも知れない。

という訳で、次回はいよいよ「壬申の乱」です。

おまけ:一条このみ氏が描いている白村江後の日本の政治状況は、中大兄皇子=大和人・大海人皇子=倭国人という均衡の上に成り立っていたとする(と私は解釈した)。その後、壬申の乱で大海人皇子が勝利するわけであるが、では何故勝った側の大海人皇子は削偽定実と言って「倭国の歴史を抹殺」したのだろうか。むしろ「倭国が正統の日本の支配者だ」と宣言する筈である。そして倭国の正統な後継者こそが自分だ、というのが壬申の乱の論理ではないのか?・・・という疑問が残る。これは日本書紀編纂プロジェクトの「最大の問題点」である。この疑問を頭に入れて、「古代史の謎」を追いかけていきたい。


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