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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

(火)孤独な夜に聞くクラシック(7)アンドレイ・ガヴリーロフ

2021-02-02 21:19:50 | 芸術・読書・外国語

私は以前にアンドレイ・ガヴリーロフがバッハを弾いているCDを持っていた。彼のゴールドベルク変奏曲は若々しい躍動感にあふれた見事な演奏で、数多くのピアニストが出しているゴールドベルクの中でも「傑出した名盤」だった記憶がある。運良くスマホに入れてあったのを今回改めてちょっと聴き直してみたが、これは紛れもなく「バッハ演奏の一つの到達点」と言っても過言ではない、と思った。ただ、ジャケットが若いシュッとした痩せ型細面の写真が使われていた記憶があり、あまりにも今回テレビに映る姿と「かけ離れて」いたため、同一人とは俄には信じがたいのが唯一の疑問点である。CDの帯には確かロシアの若きビルティオーゾと紹介されており、今回ガヴリーロフをネットで検索したら、彼もチャイコフスキー・コンクールで優勝しているので間違いないとは思うが、一度キチンと調べてみることにした。

彼のバッハは、グレン・グールドのスタッカート奏法と似ているようにも聞こえるが、全体を比べるとグールドがやや繊細で、陰鬱な鋭さと孤独感を漂わせるのに対し、ガヴリーロフは自信に満ちた輝かしい明るさと豪快な演奏で際立っている。これはある意味、彼の完璧な技術に支えられた若さが、制限なく爆発した喜びの現れだろう。彼のバッハが年令を重ねるにつれてどのように変化したのか聞きたかったが、プログラムはショパンとプロコフィエフのソナタだそうだ。折角の映像なので彼のバッハを聞きたかったが大変残念である。まあ彼のショパンを聞いておくのも損はないだろう。初老の白髪が混じったガブリーロフが、その天性のテクニックを封印してどんなショパンを聴かせてくれるか、楽しみである。

しかし日本という国はアジアにあって、今は少し少なくなっているにせよクラシック音楽がしっかりと根を張っている珍しい国である。ここ、武蔵野市民文化大ホールにも2020年11月というコロナ蔓延の中で「ピアノリサイタル」という控えめなイベントに「実に沢山のファンが詰めかけている」のには驚いた。コロナ感染防止のせいかどうか座席を開けて座っていたので「すし詰め満員」というわけでは無かったが、熱心なファンがいるものである。ガブリーロフは名の通った高名なピアニストではあるだろうが、ポリーニやアルゲリッチなどの人気・実力ともに世界で一時代を築いた有名人と比べると「中堅」のピアニストである。それなのに多くの聴衆が集まったというのは、クラシックの未来も捨てた物じゃないな、と胸を撫で下ろした次第。その昔、「手回し式の蓄音機」でシューベルトの魔王を聴きながら育った私にしてみれば、たった半世紀であるが隔世の感がある(当時、私の家はそれほど裕福というのでは無かったが、母がそういう「芸術教育」に関しては、お金を惜しまず色々と与えてくれていたのが役に立った)。

しかし、それにしても殺風景な舞台である。ガブリーロフも黒の冴えない衣装で一向に舞台映えしない。NHKだからというわけではないのだろうが舞台には花も飾ってなく、壁もコンクリートの打ちっぱなしみたいで、ただグランドピアノが一台あるきりの恐ろしく質素なものだった。ここでショパンはないだろうと演出者に文句の一つもつけたくなる所だが、ガブリーロフは全然気にならない風である。本人が気にしてないのならそれでもいいのだが、何だかなぁ。プログラムの最初はショパンのノクターン変ロ短調・作品9の第一である。私も病気になる前にはよく弾いた曲だ。まあショパンの曲の中ではノクターンは静かで割と弾きやすい方なので初心者には入りやすい。スタインウェイのピアノは高音が鋭く際立っていて、突き刺すようなアタックが心地よく響く。次の変ニ長調・作品27の第二と、嬰ハ短調・遺作と続けて演奏されるが、いずれも静かな曲である。いっとき、嬰ハ短調の曲が「燃え上がるような情熱の火花」を散らすが、そのあとはまた元の静かな流れの中で、消え入るように終わる小品だ。どちらかというとコンサート向きの曲というよりも、考え事に疲れてふと窓を開け、夜空に浮かぶ星々を眺めながら胸の奥の憂いを吐き出す時にピッタリの曲である。その吐息のような微かに揺れるメロディを淡々と弾くガブリーロフの指は、テレビで見るとリヒテル並みにぶっとい。まあ興醒めとまでは行かないが、曲想から想像するイケメン優男のピアニストの指でない事は確かである。やっぱりコンサートでショパンを弾くには「見てくれ」も大事かなと思いつつ、テレビの画面に映し出されるガブリーロフの顔を眺めた。うーむ、確かにノクターンを弾くには少々老けてしょぼい顔である。

私はこういうコンサートではバラード第一番とか幻想ポロネーズとかソナタ第三番とかの、華麗で豪壮で緻密な大曲を弾くべきだと考えている。当のショパンも大衆を前にした演奏会では、そのようなプログラムを組んだであろう事は明らかなのだ。勿論、オーケストラを入れられれば、ショパンにはここぞという名曲・コンチェルト第一番と第二番という稀代の傑作があるのだから選曲に困るという事はない。このコンチェルト2曲は「いつ何時弾いても」必ずや聴衆の喝采を浴びる事間違いなしのピアノ界の「No.1大ヒット曲」なのである。しかるにガブリーロフが選んだのは地味な「プロコフィエフのソナタ第八番」という「面白みのない」難解な曲だった!(誰が選んだんだよ!)。つまらないと言ってはガブリーロフに失礼だが、このホールに集まった聴衆のうちの「何人がプロコフィエフを解っていたのだろう」と私は訝ったのであった。少なくとも、暗い客席の最前列にずらっと座っているオバチャン達には、プロコフィエフの楽曲の美しさは「伝わらなかった」事は明白である(私の勝手な憶測である。失礼!)。そう言えばプログラムの「ノクターン3曲」と言い、プロコフィエフのソナタと言い、この客達は何を期待して入場料を払い、客席で身じろぎもせずにじっと聞き入っていたのであろうか。

確かにプロコフィエフは熱演であった。だが如何せん私はプロコフィエフが全然解らないので「キョトン」である。まあクラシック・ファンにはそれぞれに得意なジャンルがあって、ベートーベンの第9が最高!という人がいれば、バッハのシャコンヌを聞いていると鳥肌が立つほど感動するという人もいる。私は割とメロディがしっかりしているバッハやモーツァルトやショパンそれにブラームスが好きなミーハーだ。近頃はもう少し幅広くなって、ようやくシューマンにも興味が出てきた位の「極々狭い範囲のコアなクラシック・ファン」である。一般的な「交響曲」は殆ど聞かない。しかもピアノ曲ばっかりで、たまに「ブルッフとブラームスのバイオリン協奏曲」を聴くぐらいである(バイオリニストの評価用に聴くときはチャイコフスキーも聞いたりする)。そんな私がピアノリサイタルを聴くのであるから「バッチリ」だろうと思えばさにあらず。やはりプロコフィエフは何を弾いているのか「全然」解らなかった。これが果たして「楽曲なのか」すらも解らないチンプンカンプンである。まあこういうプログラムと知ってて聞きに来る人は、余程の現代音楽ファンなのだろうと思うしかない。だが何でショパンなのだろう、この組み合わせが解らないのだ。ショパンを楽しむ人は「甘いメロディと華麗なテクニック」の眩いショーを観に来るのである。その同じ人がプロコフィエフを楽しむとはどうしても思えないのだ。これはピアニストにも言えることで、バッハやモーツァルトを演奏した後に「ショスタコーヴィチのレパートリーを披露する」などという演奏家が稀にいるみたいで、私にはどうにも理解し難い所である。まあ天才にはそれなりに理屈はあるのだろうが、凡人に取ってみれば、好きな料理を食べた後に「ヘンテコな創作料理」を食わされた気分で一つも宜しくない。今回もショパンの余韻に浸っていたところを冷水を浴びせられたようで、ショパンの良さが全て消し飛んでしまった。

アンコールにモーツァルトの幻想曲K.397を弾いて口直しをしようとしたようだが、時既に遅し。大凡、今夜のプログラムでは、満足した客は少ないのではなかろうかと思った。完全な失敗である。勿論、ガブリーロフという「ピアニストの全貌を知ってもらう」ためにリサイタルを開くのだと言えばそうなのだが、これで全く解らなくなってしまった。逆効果である。演奏家というのは幅広く色々な作曲家の作品を弾くことが求められることもあろう。しかし徐々に自分の好みや相性というものが出てきて、その人の演奏法と相俟って「得意とする作曲家」が絞られてくるものである。であれば、ある夜はバッハ中心のプログラムで演奏したら、違う夜はプゾー二やラヴェルの難曲に挑戦するという風に分けるのが正しいように思う。昔、芸大の発表会を聞きに行った時にシベリウスのバイオリン協奏曲をやっていて、余りの駄作に「途中で出て来た」ことがあった。それ以来、シベリウスの作品は「一回も聞いていない」。その奏者がどれほど上手であっても、曲がつまらなければ聞いてられないのである。シベリウスはそれほど最低の作曲家なのだ。ところがネットで「バイオリン協奏曲名曲ランキングベスト10」というのがあって、チラッと見たら第一位が「何とシベリウスになって」いて驚天動地・床にひっくり返って驚愕したことがあった。あの馬鹿げた薄っぺらいシベリウスがよりによって第一位だなんて・・・、こいつら一体何を考えているんだろう?、と目を疑った。ことほど左様にクラシックの趣味というものは千差万別、お互い理解し難いものと知るべし、である。

結局、ガブリーロフが私のスマホに入っているゴールドベルク変奏曲の演奏者と同じ人かどうかは解らずじまいだった。ところがここまで書いて、今ふと思い出したのだが、ジャケットの若いイケメンはガブリーロフではなく「ベレゾフスキー」の写真だったのだ!(おおっ)。何と別のCDを間違えて記憶していたらしい。だとすれば、両方同じ人だったかも知れないな、と思えて来た。そういえば何となく演奏も「弾き方が似ているような」気がして来るから不思議である。多分、いやきっと同じ人に違い無い。ガブリーロフの演奏は実に歯切れが良いね。それにしてもバッハのメロディは美しい。清楚にして優雅、高貴にして孤高、古典派の端正ないで立ちとロマン派の情熱を併せ持った「正に音楽の巨人」である。今試しに聴いてみたガブリーロフの演奏はそれほどの深みは感じられないが、一気呵成に圧倒的テクニックで弾き切るバッハというのも一種爽快な気分にさせてくれるのだ。

ようやくガブリーロフの疑問が解けたので、今夜は口直しにもう一度ゴールドベルクを全曲聴いてみようと思う。もしかしたら途中で寝てしまうかなぁ、ゴールドベルクだけに・・・。


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