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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今日の気づき(13)何と言っても台風被害は辛い(782)

2019-10-26 10:30:33 | 今日の話題
1、菅原一秀経産大臣が「まさかの香典配り」で一発辞任
あいも変わらず姑息な現金バラマキで、いつまで同じ事やってんだ!って感じ。これが当選6回の中堅議員だっていうんだから、議員の質も何もあったもんじゃないねぇ。配った方も悪いには違いないが、貰った練馬区の自民党有権者って、揃いも揃って「どんだけバカなのか」って話よ。菅原大臣は秋田生まれで菅官房長官と相性がよく、次期政権を狙う菅官房長官の下の若頭的な有望株だと言われてるらしい。これが「昔っから現金で選挙を勝ち抜いてきた、根っからの資金管理法違反者」で、「ズブズブのアウト議員」だというからその辺り、菅官房長官は知らなかったはずはないのだが。騒がれてからあっという間の辞任発表には「流石に最近ちっとも驚かない」が、首相の任命責任を問う声が一向に盛り上がらないのは「どうも変だな」とは思う。これは、安倍政権が官邸中心の独裁政治を行っていることと無縁ではなくて、発表される政策が安倍首相周辺の数人によって計画されている事が大きく関わっていると考えられるのだ(何も陰謀論を書いているわけではなくて、周知の事実)。菅官房長官・麻生財務大臣・甘利外務大臣等を中心として、それに官邸付きの数人を加えた「お友達の頭の中」で政治が動かされていて、その他の多くの大臣は「何かあったときのトカゲの尻尾」という役回り人事であり、バカでも出来る「お飾り」に過ぎないのである。問題の核心は「このようなバカ大臣がトップに座っている経産省」は、安倍首相に取って大事な省では「ない」のか?、という点である。

結論を言おう、経産省は「既に死に体」なのだ。

今、金子勝著「平成経済 衰退の本質」という本を読んでいるのだが、安倍首相のアベノミクス失敗によって「日本は先進国から真っ逆さまに落っこちている」状態である。東日本大震災から福島原発事故に始まり、熊本地震や西日本豪雨災害に続く今回の連続台風被害など最近起こっている大災害によって、災害列島「日本の復興費」は未曾有の規模に膨れ上がっている。国内産業でも明るいニュースは外国人のインバウンドばかりで、「製造業の停滞」が続いている。外交の分野では隣国韓国とは冷え込む一方で、一向に出口が見えない無策を続けていて、いまや「一人あたりGDP」という幸福度は先進国の中でも下位にあたる「28番目」という悲惨な状況だ。雇用は一見なんとか確保されているように見えているが、非正規雇用がぐんぐん増えていて、この先一層増加傾向にあるというから心配を通り越して絶望しかない。では金融はどうなのかというと「日銀が異次元の財政出動」を仕掛けて以来、とうの昔に「にっちもさっちも行かない、お手上げ」状態だと言うから呆れて物が言えない。そんな状況を知っていながら「このバカ大臣」をトップに据えたというのは、安倍首相の本音は「経産省などに出来ることは、何もない」ということだろう。もはや日本人は「安倍晋三と心中する」しか無いのである、何と恐ろしいことだ。この前の戦争だって、そうだった。考えてみれば安倍首相就任以来、経済を活性化させる「具体的な製造分野」への国としての積極的な関与といった施策を打つことはなくて、株価や円安に頼った税収増加をバックにした「経済無策、大企業へのタダ乗り」を通してきた。年金・医療・教育・インフラ整備と、喫緊の課題は山積みなのに、やることと言えば「外国への無差別バラマキと原発輸出(全部失敗している)、それに自衛隊増強と憲法改正」だというんだからもう「どうしようもない」のは誰の目にも明らかである。安倍首相就任以来「失敗しちゃった大臣」がどんだけいたか考えてみれば分かると思うが、こんな「体たらく」では、まともな政治ができる「筈がない」のだ。安倍首相は自分の首相としての「無能無策を観念し」て、菅原大臣の辞任を期に「任命責任を取って」もらったほうが日本のためである。ここでもういい加減に「安倍政権を終わらせる」ことが、日本に残された「最後のチャンス」だと思うけど、そうじゃないの?。

2、まだ東京か札幌かでもめてるオリンピックって何なの?
そろそろオリンピックは「都市主催」で開催するという既成概念をやめて、「国全体」でやることにしたらいいのではないか。東京オリンピックで変更するのは「もう無理」としても、次回から「アメリカ」とか「フランス」とか国が主体となって「お金も運営自体も国家規模」で考える形式が望ましいと思う。そうすればその国の中で「競技に最適な環境」をもった都市で開催できるし、最初と最後の開会式と閉会式は「一箇所に集まる」ことで、オリンピックとしてのまとまりもつけられるのではないだろうか。利点は数え上げたら切りが無いが、とりあえず思いつくだけでもあげてみよう。

1、施設
北海道から沖縄まで分散して、ある程度の競技種目ごとに小さくまとめて開催する。そうすれば、各地域で「欲しかった競技場」をオリンピックを機に建てることが出来て、その競技を永続的に集中強化する拠点としての知名度もあがり、住民の理解も深まって言うことなしである。例えば体操は名古屋、バレーボールは福岡、柔道は会津、ボートは仙台、アーチェリーは札幌、なんて分散開催すれば、全国でオリンピックに参加することが可能になり、お祭りとしての「日本オリンピック」が全国規模に広がって、一層盛り上がること確実である。施設は将来的にも使える前提で「各市町村が名乗りを上げる」から、地域スポーツ振興とも Winwin の関係で「東京一箇所に全てが集中する」などの弊害もない。

2、観光
オリンピックが全国各地にやって来るのだから、観光という面で「これ以上の効果」は考えられないだろう。地元特産品なども宣伝できて地方活性化が一気に広がることは言うまでもない。全世界に「別府温泉や摩周湖や能登の朝市」など有名なところから小さな所まで、隈なく発信できるのだから日本の魅力を売り込む「一世一代のチャンス」となること請け合いである。1億総活躍政策などと口ばっかりなスローガンは早速やめて、このチャンスに「全国総活性化を図る」ってのはどうだろう。観光大国を目指すならそのくらいのことをしなければダメである。

3、地域振興
競技を行うには選手や競技委員や応援するファンからサポーターまで、びっくりする数の人が世界中からやって来る。ホテルや旅館や民泊やその他、宿泊客は当然のことながら、食事やレクリエーションやファッションや移動交通に至るまで「大量の人々を相手にする」ことになる。自然に地域のパワーを招集しなければ追いつかないであろう。これが地域振興につながらないはずはない。しかも世界各地からの色々な人が来るのである。明治維新も世界の圧倒的な力に目覚めて「追いつき追い越せ」と頑張ったから達成できた。そのことを思えば「地方が世界の力を知るキッカケ」になれば、もう目標の半分は達成したも同然である。後はその力をどう生かしていくか、ここで日本人の「学んで進化させる得意能力」が発揮されれば言うことはない。

4、観客動員
東京だけで集められる数は「限りがある」。チケットだって抽選に応募したけれどハズレた人がどんだけいることか。それが全国各地に分散されて「おらの町の近くに」例えばあの世界のサッカーチームが合宿するというだけで、恐ろしい数の観客動員が見込まれるではないか。例えば新国立競技場だけで10万を集めたとしても「人数を集めればいい」というものではない。同じ10万人でも東京の10万と青森の10万とは「桁も質も全然違う」のだ。もう東京をこれ以上活性化しても伸びしろはあまり期待でき無い。これからは分散都市型国家として広く浅く成長性ていかなければ、国家としての「更なる成長」は望めないのである。

以上、「いいことづくめ」の全国分散開催に賛成を一票である。オリンピックは都市で開催するものだなんてこと、誰が決めたか知らないけれど「つまらない既成事実に縛られない」柔軟な頭であって欲しいものである。まあ小池都知事や森大会組織委員長では、無理だろうけど。

3、日本は3種類の表記法が混在する珍しい国である。
日本では、イギリス人の名前を書くときは「ジェームス・ボンド」とカタカナを使う。小学校ではまだ漢字の読み書きが上手ではないので、自分の名前を書くときは「やまもと こうじ」とひらがなにする。これらは「発音を表す文字」である。読んだ通りに発音することで、意味が伝わる伝達方法だ。特殊な例として日本人の名前をパスポートに表記する場合は「AI MIYAZATO」とわざわざローマ字を併記している。これも発音記号と言っていい。最近クレジットカードの登録名なども「ふりがな」とは別に「ローマ字表記」を使用している。これは外国で使った時に不便がないように配慮していると思われる。これらのカタカナ・ひらがな・ローマ字などの表記方法は、そもそも最も使う頻度の多い「漢字」そのものが、「読み方が一定していない」ところに問題がある。何故一定していないのかと言うと、それは外国つまり「中国」から伝来した時期がそれぞれ違うので読み方も色々存在してしまった、と言うのが私の見解である。そもそも「漢字」と言う言葉は「漢王朝の言葉」である。漢字は作られた時から「目で見る伝達方式」を採用しているので、「発音する」ようには考えられていないのではないか、というのが今回のテーマである。

私は寡聞にして「自国の文字表記方法が3種類もある」なんて国を「日本以外には知らない」が、これはこれで相当変な国の部類に入るのではないだろうか。大体、「馬鹿」と「バカ」と「ばか」と、文字にすれば多少ニュアンスの違いがあるような気もするが、口頭で言われたら皆同じ意味になってしまうのである。識字率が「ほぼ100%」の日本であるから、発音を聞いて文字を思い浮かべる事は「普通に出来ている」ので違和感がないが、アメリカのような雑多な移民社会では、話すことと聞くことは出来ても「読み書きが出来ない」と言う人は、案外いるようである。もしかして文字に意味を持たない言語しか持って無いヨーロッパやアメリカなどの国は、同じ名詞や動詞の間で「同音異義の単語」などは余り無いのかも知れない。その代わりにニュアンスの違いは「単語の違い」で表現するようだ(これも専門家の意見ではない、個人の印象である)。日本でも、定番の「しんだいしゃたのむ」などという、「読み方で意味が全然違って取れるような文章」は実際にはそれほど無くて、口頭でのイントネーションや単語の区切りの仕方で「ちゃんと分かるようになっている」のは何処の言語でも同じである。言葉はそもそも伝達手段として「口頭で伝わる」のが基本だと考えたい。つまり「対象物 → 物の名前を音声(ひらがな)で言う」まででコミュニケーションは終了。それを記録したり後日読んで理解したりする為に、文字に書くのである。古くは伝令、後には電話や録音テープ、といった「音声での伝達」に頼っていた。しかし同時に「文字を発明して」書くことによって、場所や時間の制約を超えてコミュニケーションする方法を編み出したのである。つまり「 → 最後に文字」である。「史記」に連綿と始まる「記録大国」である中国(と言うよりは漢民族の特徴か)は、そう言う意味では「漢字と共に発展した民族」と言えよう。

さて中国での漢字の発達には、他の「音声文字の国のやり方」とは違う方法で、文字の種類を増やして来た。「山」と書いても「Mountain」と書いても、それぞれの国で意味は伝わる。では「峠」はどうかというと「Mountain Path」と言うのだそうだ。英語の方は「Mountain」の「Path」だから、「逐次説明型の単語生成方式」である(「Path」でも通じるらしい)。では漢字の方はと言うと、「山の細い道」と説明を続けるのではなく、「峠」という字を新しく作った。峠というピンポイントの「名前を付け」ている。英語で言うならば山にあるpathと表現していくのを漢字では特別に「峠」と言う名前を付けているわけである。これは「新規作成型の単語生成方式」と呼ぶことにするのだ。だが、その見事な体系を「日本で輸入した」ことによって、想像もつかない「新しい混乱」が生じてしまったのである。「やま」と「とうげ」には、音声上の共通点が「一切無い」。・・・ここまで書いて来てちょっと疑問が生まれてネットで調べてみた。そしたら何と峠は「国字」なのであった!。今までの推論が「水の泡」である、何と言う失態だろうか、お恥ずかしい。

まあ要するに中国でも、コミュニケーションは「音で伝達」している、と言いたかったのだ。偏と旁があって、どちらかが意味を表し、どちらかが発音を受け持つ「らしい」のである。これなら何万字と言う数の単語であっても、何とか読めるわけだ。中国では漢字1つに対して「読みは一音」である。最終的には、中国も「発音記号を複雑にした文字体系」だと言うことになった。同じ漢字は「同じ読み」になる。そうでないのは世界広しといえども「日本だけ」ではないだろうか。1つの漢字に「読み方が山のように出てくる」のだ。

日本の使用している「漢字」と、中国の文字体系は「読み」も違えば「意味」も異なる「別物」と考えなければいけない。その中にたまたま意味が通じる文字が結構あるからと言って「似たような文字」と思うと、「根本的に誤解」する。日本人が千年来使用している漢字が「意味だけでも少しは通用する」と思えるのは「唐・宋あたりまで」ではないだろうか。あの李白・杜甫・白楽天などの唐の詩人の傑作を見て「多少とも理解出来る」だけでも「日本人は漢字を習っていて良かった」と言えよう(私の感想である)。日本は、この「とんでもなく扱いが難しい」漢字という文字体系と、どうやって付き合っていくのか。今日、政府が日本人の名前の表記方法を、ローマ字で表記した場合に「苗字ー名前」という順番で表記することに決定した、とニュースにあった。

欧米が名前ー苗字に対して、日中韓は苗字ー名前の順である。これは人を呼ぶ時に「第一義的に優先される呼び名」を欧米は名前で呼び、東洋は「苗字」で呼んでいる、ということなのだ。家族主義と個人主義の違いである。今回政府が日本人の名前をローマ字表記する際には「苗字ー名前」とする、と決めたのには、漢字表記と読みを統一する為だ、と説明されているようだ。今までローマ字表記が漢字表記とは別に併記されているのは、「外国人に読みやすい」からと配慮してのことである。だったら日本だけ変な理屈をつけて変更したら「余計にめちゃくちゃになる」とは思わないのか。日本語の読み順に合わせて「読みを統一する」というのなら、何で日本人には「振り仮名」という便利な表記方法があるのにも拘らず、わざわざ「ローマ字」などという日本人に馴染みの薄い表記方法を併記する必要があるのか。それは外国人に読みやすくする為であろう。他に理由は考えられない。だったら外国人は「ファーストネームが名前」と何千年も慣れ親しんだ書き順では無く「、間違いやすい苗字ー名前」という順番にするのか「全く意味が分からない」決定である。日本人は「苗字から言うのが習慣である」と外国人にも分かってもらう、なんて「下らない日本文化の押し付け」を考えているとしたならば、私は百害あって一利なしと断ずる。政府に役人も少しは現実を見たほうがいいと思うよ、マジで。

ところでネットでこれに関連して、災害の連絡分が全部ひらがなで書かれていて話題になっていたようである。そもそも文章を読むには「漢字」を適当に混ぜたほうが、読むスピードは絶対的に上がる。つまり「読むための文字」として漢字は非常に有能なのである。漢字はパッパッと見ただけで「読まなくても」見るだけで意味がわかる効率的な文字である。同じ意味の文章をを伝えるなら、漢字は「最小文字数」の言語であることは間違いない。アルファベットはいつも見慣れている文字は大体の雰囲気で次に大体「こういう文字が来るな」と分かるが、正確に伝えるとなると、漢字には敵わない。しかし書くスピードはどうかと言うと、英語の方が「早いのではないか」と思う。良し悪しである。現在は手で書くというよりはキーボードで打つ方が多いだろうから、一字一音で文字数が少ない漢字は、最強の言語と言えそうだ。しかし「一音」だということは「恐ろしく同音異義語がめちゃめちゃ多い」ことにならないだろうか。私は中国歴史映画を見ていて分かったことだが、一定の文章をいうのに掛る時間は「日本語と対して変わらない」のではないかと想像している。人間同士のコミュニケーションには、そんなに違いは無いみたいだ。イギリスの推理ドラマなどを見ていると、単語1つで「結構、長い意味を持たせていること」に驚くことがある。民族と言語は、特別な関係があるといえそうだ。

色々書いたが、「輸入文字で日本語を表す」ことで起こる数々の混乱は、結局根本的な解決方法としては、「全部の漢字にフリガナをつける」ことを提案したい。全部振り仮名をつけるように法律で決めれば、名前を読み間違ったり「失礼な誤解」も無くなるし、何より言語コミュニケーションの基本である「音声の伝達」という仕組みが「確実になる」ので非常に良い方法であると自画自賛している。キーボードで打つんだから、振り仮名を付けることなど「何の問題もない」。そんなんじゃあ、「名前を書類に書くときに面倒くさいではないか」と仰る人には、名前など使わずに「マイナンバー」を使用することをお勧めしたい。何事も「1つを解決すれば、新たに1つぐらいの面倒が生まれてくるもの」である。多少の面倒は諦めて、ルビつき文章に慣れてくれば、漢字検定など「お茶の子さいさい」になること、火を見るより明らかであろう。

ついでにそろそろ日本人も、人を呼ぶ時には「苗字ではなく名前で呼ぶ」ことにしたらどうだろうか。石井さんとか川原さんではなく、信義さんや謙信さんとかにするのである。親近感が湧いて人間関係もよりスムーズになりそうだから名案ではないか。私は気に入っているが、皆さんはどう思う?

4、コーヒーは百薬の長
こないだNHKでコーヒーに含まれる成分が身体に非常に有用だという特集をやっていた。中でもナイアシンが良いらしい。今まで一日3、4杯を飲んでいたが、病気してから飲み込みが悪くなり、前立腺肥大症も発症してカフェインが悪いということになり、しばらく飲んでいなかった。最近飲み物もミルクティーからコーヒー飲料になり、時々はゴルフ練習場で自販機のコーヒーを飲んだりして身体を慣らしていて、ここに来てようやく「ドリップ式の本格的ホットコーヒー」を飲むまでに回復してきたというわけだ。若干飲み込みがいいという理由で「糖分のたっぷり入った甘い」ものを飲み続けたせいかどうか分からないが、体重が劇的に「異常に増えて」しまったのでダイエットも兼ねて、ついに王道の「ブラック」に挑戦である。少し家で試し飲みをしてから、近所のドトールへ行って「ホットコーヒー」を注文してみた。今まで注文していたのはアイスコーヒーであり、ミルクたっぷりのラテである。今回は重々しく「ドリップ」を頼んでみた。ドトールのコーヒーは、家で入れる「ドリップフィルター付き」のインスタントコーヒーと変わらない(結局インスタントと一緒か)。味は素っ気ない苦味のある、通常のブラックコーヒーであった。

一口飲んで「なんだ、飲めるじゃん」ということで、喫茶店再出発は大成功である。これで余り前立腺に影響が出なければ、「読書とコーヒーと音楽」という私の「三大好物」が揃ったことになる。ナイアシンというのは馴染みがあまりなかった栄養素だが、ビタミンB群の一種で「アンチエイジング効果」が期待されるそうだ。別にそんなモノなくったってコーヒーは飲むのだが、黙って付いてくるオマケみたいなもんで、素直に喜べばいいとは思っている。まあ食生活が正しい方向にいってる証拠だから、嬉しくないはずがないではないか。それに何かの記事で読んだ「ビタミンD」のほうがよっぽど凄そうである。年取ってきてビタミンDの摂取量が不足すると、色々とまずいことが起こるらしいのだ。主に私が注目したのは「癌に対する防御効果」で、一日何μgかなんか「規定量を超えて摂取」したグループはそうでないグループを比べて、「癌になる率が下がった」というから侮れない。何の癌に聞くのか失念したが(ばかやろう!そこが肝心だろうが!)、とにかく効果はあるらしい。それでネットで調べて一番手軽にビタミンDを取れるのが「しらす」だと分かった。ちなみに今日の夕食はマミーマートで買ってきた「しらすパック」を天ぷらご飯に豪快に乗せた「シラス丼」である。これから3日おきぐらいに夕食のおかずや酒のつまみに「しらす料理」が加わるのかと考えると、私の料理レパートリーも中々豪華になって来たようだ。

5、台風被害それも水害が酷かった
こないだの台風15号は「強風」という例のない被害だったが、次の台風は「越水・冠水・決壊」の河川氾濫だ。そして今回台風21号は「激烈な雨」である。日本は長らく火山噴火と地震の災害に苦しめられてきた。津波は地震によって引き起こされる二次被害である。台風は発生してから本土に到達するまでに何日か掛かるので、いままではそれほど逼迫した緊張感はなかったのだ。ところが多摩川・那珂川・千曲川と「でっかい川」が決壊して付近一帯が水没するに及んで、これは「只事では無い」という恐怖に気持ちが変わった。特に東京というハイテク首都とその周辺地域が被害に合うということで、いままで安全に生活できると思っていた考えに黄色信号が灯って来たのである。そこで大事なのが自分の住んでいる地域が「災害被害にあいやすい地域」かどうかをハザードマップで確かめることだ。地図ではっきりと明示されているから簡単である。私の住んでいる「柏駅西口近辺」は高台で、付近に川も山も林もなく、崖や切通で寸断される道路もない「完璧な安全区域」だと分かったから、ひとまずホッとしたのは良いニュースである。何かあれば高島屋やビックカメラなどに逃げ込めば何とかなるから、台風が来ると言っても安心してテレビを見てられる。同じ柏市でも、低いところや崖の下、川の近くの土地に住む人も大勢居て、アパートとはいえ偶然良い場所に住めたのは「神様の配慮」かも知れないと、柄にもなく神に感謝した次第。死ぬことは、いずれはやって来ることで自分ではどうすることも出来ないが、「溺れたり生き埋めになったり」は、嫌である。

翻って市町村の災害対策はどうなっているかと言えば、どうも「いま住んでいる所ありき」の対策のようで「効率」が悪い。地震・津波は地殻構造線や断層帯・土砂災害は地盤の緩い山際・水害は河川の水域、と大体「危ない所」は決まっている。だからハザードマップが配布されているのである。で、災害対策という「人間の生命を安全に守る」ことを効率的に行うには、単純に「人口密集地区」を優先的に行うべきなのだ(同じことをやっても、50人救うのと5万人救うのとの違いになる)。それも50年100年先まで見越した「人口動態・経済発展・生活変化」を計算して場所を選定し、そこを重点的に災害対策を行うのがベストである。これが一番災害を減らす「コスパの良い方法」ではないだろうか。

過疎地などは市町村の政策として予め住人の「都市部選定地」への移住を積極的に促進し、「インフラを効率よく整備」できるように考えるべきである。電気ガス水道など、人が少ないところに何か通すには、都市部の「何倍も費用がかかる」のは「小学生でも分かる」理屈だ。いい例が、病院がなくて先生が都市部から1時間も掛けてやって来るような過疎地に無理やり「新しく病院を作る」のではなく、逆に「病院のある所に全員引っ越すという発想」が必要になってくる。富山市の路面電車ライトレールの成功に見られるように、生活の場を集中させていくことで「サービスを効果的に高める努力」が、災害を防ぐ第一の方法である。要は「危ないところに住まない」ことを「全国民で徹底」すること。そして観光や農業その他で「危ないところで働く人」は、健康で頑健な若者壮年のみとし、ライフラインも「自前で賄うことを原則」としたらいいのではないだろうか。これから人口も減っていく訳だし、危ない場所の一軒家に「自分で動けない介護老人が住んでいる」状況では、避難するにしても「めちゃくちゃ難しい」事は子供でもわかる。それを「住み慣れた家が離れられない」という我が儘を大目に見ていては、災害対策は全然進まないのである。ましてや10軒しかない寒村で一つしか無い生活道路が「崩落して孤立」してしまったような住民のための復旧活動に「自衛隊が動員」されるなどというのは「国を他国の侵略から守る目的の自衛隊にしてみれば、本末転倒」ではないだろうか。もう少し「住むのも守るのも、便利な所で生活する」ことに知恵を使ったほうが、日本全体のためだと思うが如何だろう。

以上、今日の気付きでした。

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