奈良の山里にひっそりと佇む寺、これ五木寛之の百寺巡礼のナレーションである。室生寺は私の最も好きな寺の一つだ。小さな山里にこれほどの寺が今も生き続けているのは何故なんだろう。室生寺の五重の塔はその美しい姿を新緑の鬱蒼たる林の中にポツンと立っている。室生寺は人里離れた隠れ寺の雰囲気が私の好きなところである。五木寛之の感想を聞いていて、ふと私は思いついた。
日本の仏像が皆外人の顔をしていると昔書いた記憶がある。外人の顔をしている理由は、仏教が外国から渡来してきた時に一緒に輸入されたからである。仏の顔がインド風であった事と日本の仏教が今ひとつ日本人に溶け込んでいないと思われている原因は、仏が外人「すなわち遠い存在」であることと無縁ではない。これが日本人顔をした仏であったなら、仏教は間違いなくもっと親しみやすい身近で当たり前のような宗教として、学問に走らず、生活を支える柱となっていただろう。
もちろん今の仏教はお墓参りや仏壇に見られる先祖供養のひとつの形態として定着している。亡くなった人を焼いて弔う風習が日本に入ってきた持統天皇の時代から宗教の統合が行われ、神道と仏教の合体が始った。そもそも仏教は悩みから解脱するための学問でスタートしたのである。それがブッダのいわゆる小乗仏教で、大衆に広まるに従い大乗仏教すなわち万人救済の宗教として中国・韓国・日本と渡り、整備されて行ったのだ。だから日本に伝わった初めよりずっと、信者の多くは救いを得るために何が必要かを探し求め、現代に至っていると私は解釈している。
よって輸入したときの形態をより多く残している奈良の仏教は学問の府としての体裁を整え、世紀末の末法の世に生まれた法然上人以来の京都の仏教は宗教としての祈りの場を提供してきた。その後の仏教は親鸞や日蓮といった鎌倉仏教隆盛のあとを受けて今に至っているが、江戸時代の民衆管理方法とくっついた寺が檀家を持つようになって、先祖供養と現世の御利益を目的とする今の仏教のスタイルに落ち着いた。つまり仏教とは名ばかりの、先祖から面々とつながる「日本独自の御利益祈願」に変質しているのである。現代の仏教はお寺に組み込まれた祖先崇拝の部族的信仰が「仏教教義の理論だけを外側にまとった」もので、本質は神道または 自然崇拝なのである。
そういう目で奈良京都の古刹を眺めれば、開祖の遠大な意図とはまた違った「民衆の求めたもの=救いの本質」が見えてくる。宗教とは個人個人が煩悩に苦しんだ末にたどり着く境地を言うのではなく、悩みの何たるかを知るよりずっと幼い子供の頃から親達に刷り込まれた「生き方」である。キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教・その他なんであれ宗教と名がつくものは皆、「全員が信徒である」ことに疑問をもったりはしない。宗教とは選択するものではなく、すでに存在している空気のようなものなのだ。それが現代の日本の仏教や神道の奥に流れている「信仰の正体}ではないだろうか。大概の日本人はお盆や春秋のお彼岸にお墓に行き、正月は有名な神社仏閣で御利益を授かる。これはれっきとした宗教行事であるが、仏を信じているかと聞かれれば「いいや」と答える。つまり仏はなんとなく知っている程度なのである。だが父母兄弟の霊魂は、あの世に行っていると「信じている人が殆ど」ではないだろうか。
漠然と「あの世はある」と信じているのだ。そこでこの世とあの世をつなぐ施設としての「神社仏閣」が必要なものとして存在するのではないか。永遠のものであるべき極楽浄土、またはあの世とこの世をつなぐ施設が、「コロコロ変わって」しまっては困るのである。だから法隆寺を始めとして「遠い昔から今に続く永遠不滅の寺」が、各地に必要であり信仰を集め続けている理由なのだ。そこに行って仏の尊顔を仰ぎ見ることでようやく、あの世の存在を再確認するのだろう、私は今はそう見ている。自分のいる世界をその外側から見守ってくれている大きな存在としての「何か」を感じながら日々の生活を過ごしている一般大衆にとっては、それがキリストでも阿弥陀如来でも同じことなんだと思う。要は「守られていること」が大事なのだ。その施設が全国各地にいっぱいある。
五木寛之の百寺巡礼が「百寺を巡礼する」というのはそういうことじゃないのか、私は今日ブログを書いていてハタと膝を打った。日本人を見守っている大きな存在を各地の寺を巡りながら「感じてみる」のが、五木寛之のやろうとしている事ではないだろうか。だとすれば、五木寛之というのは日本人の「原点」を探す旅を続けている事になる。私の思っている事が当たっているなら、理屈でなく「長い長い風習の中」にこそ、その答えはあるように思える。やはり五木寛之、只者ではない。
〇
日本の仏像が皆外人の顔をしていると昔書いた記憶がある。外人の顔をしている理由は、仏教が外国から渡来してきた時に一緒に輸入されたからである。仏の顔がインド風であった事と日本の仏教が今ひとつ日本人に溶け込んでいないと思われている原因は、仏が外人「すなわち遠い存在」であることと無縁ではない。これが日本人顔をした仏であったなら、仏教は間違いなくもっと親しみやすい身近で当たり前のような宗教として、学問に走らず、生活を支える柱となっていただろう。
もちろん今の仏教はお墓参りや仏壇に見られる先祖供養のひとつの形態として定着している。亡くなった人を焼いて弔う風習が日本に入ってきた持統天皇の時代から宗教の統合が行われ、神道と仏教の合体が始った。そもそも仏教は悩みから解脱するための学問でスタートしたのである。それがブッダのいわゆる小乗仏教で、大衆に広まるに従い大乗仏教すなわち万人救済の宗教として中国・韓国・日本と渡り、整備されて行ったのだ。だから日本に伝わった初めよりずっと、信者の多くは救いを得るために何が必要かを探し求め、現代に至っていると私は解釈している。
よって輸入したときの形態をより多く残している奈良の仏教は学問の府としての体裁を整え、世紀末の末法の世に生まれた法然上人以来の京都の仏教は宗教としての祈りの場を提供してきた。その後の仏教は親鸞や日蓮といった鎌倉仏教隆盛のあとを受けて今に至っているが、江戸時代の民衆管理方法とくっついた寺が檀家を持つようになって、先祖供養と現世の御利益を目的とする今の仏教のスタイルに落ち着いた。つまり仏教とは名ばかりの、先祖から面々とつながる「日本独自の御利益祈願」に変質しているのである。現代の仏教はお寺に組み込まれた祖先崇拝の部族的信仰が「仏教教義の理論だけを外側にまとった」もので、本質は神道または 自然崇拝なのである。
そういう目で奈良京都の古刹を眺めれば、開祖の遠大な意図とはまた違った「民衆の求めたもの=救いの本質」が見えてくる。宗教とは個人個人が煩悩に苦しんだ末にたどり着く境地を言うのではなく、悩みの何たるかを知るよりずっと幼い子供の頃から親達に刷り込まれた「生き方」である。キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教・その他なんであれ宗教と名がつくものは皆、「全員が信徒である」ことに疑問をもったりはしない。宗教とは選択するものではなく、すでに存在している空気のようなものなのだ。それが現代の日本の仏教や神道の奥に流れている「信仰の正体}ではないだろうか。大概の日本人はお盆や春秋のお彼岸にお墓に行き、正月は有名な神社仏閣で御利益を授かる。これはれっきとした宗教行事であるが、仏を信じているかと聞かれれば「いいや」と答える。つまり仏はなんとなく知っている程度なのである。だが父母兄弟の霊魂は、あの世に行っていると「信じている人が殆ど」ではないだろうか。
漠然と「あの世はある」と信じているのだ。そこでこの世とあの世をつなぐ施設としての「神社仏閣」が必要なものとして存在するのではないか。永遠のものであるべき極楽浄土、またはあの世とこの世をつなぐ施設が、「コロコロ変わって」しまっては困るのである。だから法隆寺を始めとして「遠い昔から今に続く永遠不滅の寺」が、各地に必要であり信仰を集め続けている理由なのだ。そこに行って仏の尊顔を仰ぎ見ることでようやく、あの世の存在を再確認するのだろう、私は今はそう見ている。自分のいる世界をその外側から見守ってくれている大きな存在としての「何か」を感じながら日々の生活を過ごしている一般大衆にとっては、それがキリストでも阿弥陀如来でも同じことなんだと思う。要は「守られていること」が大事なのだ。その施設が全国各地にいっぱいある。
五木寛之の百寺巡礼が「百寺を巡礼する」というのはそういうことじゃないのか、私は今日ブログを書いていてハタと膝を打った。日本人を見守っている大きな存在を各地の寺を巡りながら「感じてみる」のが、五木寛之のやろうとしている事ではないだろうか。だとすれば、五木寛之というのは日本人の「原点」を探す旅を続けている事になる。私の思っている事が当たっているなら、理屈でなく「長い長い風習の中」にこそ、その答えはあるように思える。やはり五木寛之、只者ではない。
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