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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

モーツァルトの音楽と言葉

2017-04-29 23:00:14 | 芸術・読書・外国語
モーツァルトの音楽には言葉が溢れていると言ったのはチェロの名手カザルスである。他の作曲家でも多少はあると思うが、モーツァルトは抜きん出ている。むしろ音楽で会話をしている感じだ。それは幼少の頃より言葉を覚える以上に音楽を覚えたからではないだろうか。普通の人は年を取るごとに言葉を会話の伝達道具として熟練していくと同時に、音楽が何かを伝える道具である事には遠くなって行く。夜に生活するフクロウは、赤外線ビームを発射して目で見る以上の情報を得ているという。イルカは低周波の伝わりにくい海中で超音波を使って会話するし、犬は目よりも鼻の方が何十倍も周囲の動向を調べるのに有利であるそうだ。つまり言葉というものを重宝している我々にあっては会話は言葉なしでは成立しないと思い込んでいるが、果たしてその考えがいつも正しいとは限らないということである。もちろん言葉の代わりに音楽で表現できるものは限られている、というか「別の物」であるだろう。どこに何があるとか、いつ誰と会ったかというような情報は、言葉や「今で言えば映像の方」が断然優れている。だが心の中にある甘い感情とか苦しみ悩みといったものを表現するのは、言葉ではなく音楽の方が数段優れているのではないだろうか。モーツァルトはその「音を言葉の代わりに伝達手段として使用した」作曲家と言える。

今日電車の中で聞いたラジオから流れてきた3重唱(曲名はわからないが後期のオペラのものだと思う)は清らかな美しさに溢れていて、目をつぶりじっと聞いていると幸せな気分になる。聞きいる程にモーツァルトの世界に溶け入ってしまいそうなこの感覚は、他の作曲家では味わえない。この世のものとは思えないこの3重唱の美しいメロディに包まれていると、文字通りこのまま死んでもいいとすら思えて来るから不思議である。もちろんチャイコフスキーの6番「悲愴」を聞いた後自殺する人が大勢いたという逸話のような、「自殺願望」の話ではない。モーツァルトは楽曲構成が「人間同士の対話、あるいは擬人化した神または自然への語りかけと応答」という様に、すべてが会話形式で成り立っている。ピアノ曲であれバイオリン曲であれその他の楽器の曲であれ、すべて「何かを言っている」のである。そう思って彼の曲を丹念に聴き込んでいくと、楽器同士の掛け合いが非常に多い事に気が付く。ピアノが主題を奏でるとすぐオーケストラがそれに答える、それが第1楽章第二楽章と続いていくのだ。ベートーベンは、それぞれの楽器は曲の構成に必要な部分を担当する役目で、何かを語りかけているというのでは無いように思う。やはりバッハの対位法を研究したのが大きく影響しているのであろう。対位法から和声法を超える何かをつかんで、自分の作曲技法を磨いたのは間違いない。

モーツァルトの600を超える曲の中では、やはりオペラが美しい。ピアノコンチェルトも捨てがたいし、ピアノソナタも美しさという点では少し落ちるが、K457のファンタジーのように心の内面をさらけ出した楽曲などモーツァルトの明暗を映し出して興味深い。このファンタジーは神への彼の怒りをぶつけた珍しい作品である。「神よ、なぜあなたはこのような苦しみを与え給うのか?」との問いかけに対して、神は答えなかった。それは人間にとって知り得ることの限界であることを悟った彼は、事実を静かに受け入れるしかなかった。諦念である。多分母の死というものに向き合ってようやく彼が出した結論が、このファンタジーなのでは無いかと私は密かに考えている。もちろん時期は違うのだが、母の死という大きな運命の転機に対し、答えを見つけるまでには時間がかかったのだと思いたい。

そしてこの後、有名なK466のピアノコンチェルトが生まれる。このコンチェルトからモーツァルトの美しさに変化が現れるような気がするのである。私が個人的に考える「天上的な美しさ」とは、数ある作曲家の中でもモーツァルトだけに与えられる褒め言葉である。






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