明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(4)皇極天皇

2019-02-08 22:23:30 | 歴史・旅行
皇極天皇の出自を追った記事を読んでいたら、皇極天皇は押坂彦人大兄皇子の子供で、舒明天皇と兄妹の「中津王」だという説が出てきた。同兄妹に「多良王」つまり孝徳天皇もいて三兄妹だったとする。この中津王というのが皇極天皇だという証拠が「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」にあって、百済大寺の再建を病床で中大兄皇子と約束するくだりである。そこに「仲天皇奏く、妾も我が妋(舒明天皇のこと)とともに炊女となって造り奉らむ」と書いてある、というので皇極天皇(斉明天皇)が中天皇(仲天皇)と呼ばれていた事が分かるそうだ。長いこと中天皇というのが誰なのか分からなかったが、色々な説が出ていて、なかでもこの三兄妹説は説得力がある。

元々は神代から続く直系継承システムが応神天皇の辺りで変わり、兄弟姉妹が相承する仕組みになったらしい。それで仁徳天皇から続いて欽明天皇の子供達が(敏達・用明・崇峻・推古)長く政権を担っていくわけだが、推古天皇の後、欽明の孫(長男の長男)ということで田村皇子(舒明天皇)が立った。要するに親子というよりも「家」を第一に考えると、兄弟姉妹が継承するシステムは非常に納得がいく。日本書紀ではこの時に用明天皇の孫の山背大兄皇子が皇位を争ったと書いているが、蘇我入鹿等に攻め滅ぼされたのは皇位争いの精算と見るのが妥当だろう。敏達天皇の孫が用明天皇の孫に勝ったわけだが、時代背景的には長男の孫の方が優先されるので多くの氏族が従ったらしい。天智天皇が病に臥せっている時、大皇弟の大海人皇子(天武天皇)に皇位を譲ろうとしたが天武天皇が答えるに「倭姫王に譲られてはどうでしょう」と言ったとあるのは、倭姫王は舒明天皇の第一皇子「古人大兄皇子の娘」だから、長男の娘で分かりやすい。天武天皇は大友皇子に対して敵対心を持っていなかった、とする記事もあるようで、壬申の乱は蘇我赤兄等に担がれた大友皇子が已む無く天武天皇と戦ったというのだが、これも「兄弟相承の流れ」から言えば「気の進まない戦い」だった可能性もある。が、これは今回の主題ではない。

日本書紀で皇極天皇の系列は父親の押坂彦人大兄皇子を皇祖(皇祖大兄)、母親の糠手姫皇女も皇祖(嶋皇祖母命)と呼び、皇極天皇は一段高い皇祖母皇の尊号が奉られている。また孫の大田皇女と建王は「皇孫」と呼ばれていた。この関係はイザナミ・イザナギから天照大神が生まれ、その息子の天忍穂耳尊が降臨せずに孫のニニギ尊が降り立ったというのと、押坂彦人大兄と糠手姫王との間に皇極天皇が生まれ、息子の中大兄皇子が天皇にならずにいた(建王は8歳で崩御)ことを考えると、ピッタリ符合する。天武天皇が削偽定実と言って歴史を正しく定める事業を始めたことになっているが、古事記は推古天皇で終わっていて肝心の「皇極天皇から天武天皇が抜けている」のは不審だ。むしろ皇極天皇が神代の物語のモデルになって建王が天下を治めるロマンを描いた、とするほうが納得はしやすい。これも古事記と日本書紀が多くの問題を抱えていることの1つであるが。

皇極天皇は色々な能力もあったようで、皇極元年7月の大旱魃には巫女的権能を発揮して雨乞いを大成功させ、民衆から至徳天皇と讃えられたという。崩御後にも「(中宮天皇」と呼ばれ、尊宗されていたと言うから、結構優れた女性だったのだろう。殆ど事績のない推古天皇とは違い、政治の面でも相当力を発揮したようである。兄妹相承というシステムは長らく天皇位を継ぐルールになっていたようで、推古天皇は敏達天皇の「皇后だったからではなく」欽明天皇の「皇女だったから」即位したし、同様に皇極天皇は舒明天皇の皇后だったからではなく「欽明天皇の皇女だった」から天皇になった。これが今回の新しい発見である。決して「中継ぎ」としてリリーフしたわけではなかった。こういう視点が歴史では物凄く大事になる。これを読んでからこの蘇我氏全盛の「後の歴史」を見てみると、皇極天皇が「キーマン」だったのではないかと思われて来て「ますます謎が深く」なってきたのである。

孝徳天皇が崩御した後に、中大兄皇子が天皇位を継ぐチャンスがあった。それを皇極天皇が重祚して斉明天皇になったのが異例のことであるが、考えてみれば不思議である。舒明天皇の皇子の古人大兄皇子に孝徳天皇の皇子の有間皇子と、ともに中大兄皇子に殺されていることを考えると、ライバルを謀反や陰謀で消しているのに「自分が天皇位に就かない」というのは解せないのだが、この謎は一先ず置いておこう。建王は皇極天皇の願いも虚しく夭折した。日本書紀に建王を懐かしむ歌を3首残しているが、余程悲しかったのだろう、自分の墓に合葬するよう言い残している。皇極天皇は建王を天皇にするつもりだったようだが、中大兄皇子がその間に天皇になっても別におかしくはない。これも皇極天皇が崩御した後に7年もの間称制を取っていた理由が見つからない。白村江の戦いがあったからだろうと思うが不明である。そもそも天皇位が空白というのは「有り得ない事」ではないだろうか。多分、その頃の日本統一王朝は「九州の倭」だったのではないか、と私は思っている。九州の話と大和王朝の話が「ごっちゃ」になっている、というのが日本書紀の問題点の1つだ。ここまで考えていると、日本書紀では中大兄皇子の行動が派手に描かれているが、ホントは皇極天皇をもっと調べる必要がありそうだと感じた。

これは番外編になるが、天智天皇と天武天皇はやっぱり兄弟だと考えるのもアリかも知れない。病床の天智天皇は天武天皇へ仕来り通りに兄弟相承を提案したが、天武天皇に逆に倭姫を推されて断念した。大友皇子が王位を継いだが壬申の乱で天武天皇に敗れて「天智家」は後退、天武天皇が代わりに王座に就いて、「その後は持統天皇ではなく」天武天皇の子の高市皇子が王位を継いだ、という可能性が高いと私は思っている。しかし程なく高市皇子は崩御。その時に次の天皇位を誰にするかで揉めていて、大友皇子の子の葛野王が「草壁皇子の子の文武を押した」ので持統天皇が大喜びした、という話が残っている。皇位継承の順番から言えば次の王位は本来は天武天皇の子の「大津皇子」だが、天智天皇に謀反の疑いを掛けられて、藤代の坂で絞首刑になっている。結局、草壁皇子の遺児「文武天皇」が天皇位を継いだが、「日本国の元祖」と言われて歴史を大転回させた張本人である。この件もまた歴史の謎として残されている課題だが、何しろ謎だらけだから面白い。草壁・文武の系統は孝謙(称徳)天皇で断絶するが、その直前に「天武天皇の子の舎人親王」の子で淳仁天皇が一度天皇位を譲られている。これも兄弟相承の流れであろうか、直系継承というのはまだまだ常識にはなっていないようだ。

今回の知識はネットで「皇極天皇と建王」と検索して出てくる中の、「はじめにー問題の所在 皇極(斉明)天皇の出自をめぐって」という記事を殆ど全部参考にして書いた。古代史は夜な夜なネットを見ていると、時々知識が「半端なく」深い人の記事に出食わす。まだまだ調べることがいっぱいあって時間が足りないが、この「天智と天武」くらい興味の湧く題材は無いのではないだろうか。私は声を大にして言いたい、古代史やるなら「天智から始めよ!」。

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