明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

檀れいの番組を見て芸術の見方を発見した

2019-02-06 21:44:08 | 芸術・読書・外国語
「檀れいが出会う京女の雅」という番組を見てたら、伊東若冲が出てきた。そこではたと気付いたのが「西洋絵画と日本画の文化的違い」である。西洋絵画では神が描かれて、そののち人間が主題になり、風景画はようやく20世紀になって花開いたが、今でも主だった西洋名画の古典は「人物」だ。日本画は昔から絵巻などで残されているのを見ても、登場人物は皆「役割を示すだけ」の画一的な描かれ方をしている。襖絵や屏風絵で描かれる風景や動物もすべて、見るものがそれと分かる典型的な特徴を描いていて、「動き」を描くというよりも「これは〇〇だな」と分かることが重要であるかのように描いている。つまり「美しい記号」、別の言い方をすればデザインの一部である。西洋絵画は立体的で日本画は平面的、という特徴があると言われる。それは西洋人が彫りが深くて見た目に「陰影がついている」だけではない。元はと言えば、ギリシアでもエジプトでも昔は皆平面的に描いていた(エジプトなどは「皆、横顔」である)。男・女・貴族・奴隷、皆「記号」でしかない。これらの一見表面的な違いに隠されている真実は、実は西洋絵画はその絵画の目的が「対象の表面の内側にある魂」を描くことにあり、日本画は「対象をデザインとして描く」、の違いだと気付いたのである。

西洋では絵画における人間を「まるで生きているように描く」が、それは見た目をそっくりに描くと言うより「絵画は、実物を切り取ってそこに置く」という感覚なのではあるまいか。日本では全て「外見」のみを描いて、「内面」を描こうとはしなかった。日本ではどの絵も皆「意匠・記号・デザイン」として細部を克明に描くが、その絵は躍動感のある生き物ではなく「こういうものという説明」に終始してしまっている。それは日本では、絵画が掛け軸や屏風としてどれもみな「部屋の装飾の一部」として作られたからである。要するに、絵画は芸術というよりも「装飾品」である。だから伊東若冲のような細密な画風が「凄い」ともてはやされるのだ。確かに細かく描いていてデザイン的には優れているかも知れないが、「生命が感じられない」のである。これが果たして「いわゆる名画」なのだろうか。日本ではフェルメールの人気が異様に高まっているが、彼の画風にしてみても「登場人物の人となり」はそれほど前面に迫って描かれているわけではない。

西洋絵画の名品には、描かれた人物の心の葛藤や嘆きや感情が「まるで本人が目の前にいるようにリアルに」描かれている。例えばカラヴァッジョやプッサン、あるいはベラスケスやルーベンス、ルノワールやユトリロやゴッホなどの画家の作品を見ると、まさに描かれた人物や風景と「自分が対峙している」という錯覚に陥るほど見事に描かれているのに感心する。ベラスケスはその頂点に位置するほどの画家であるが、細部は(実際に上野で見てきたが)「若冲のように細密に描いてはいない」。だがちょっと離れてみてみると「実に生き生きとして、そこに存在している」ように描かれている。正に神技だ。対象を、本当に必要な部分だけしか描いていないのに、見る者にそれを感じさせない臨場感は「まさに絵画」と言うのに相応しい作品である。「人間の視覚」を知り尽くした、脳の神経の働きそのものの再現、それがベラスケスの(または西洋絵画の)絵画である。

それは、人間が「目で見る」と言うことの一番の目的が「対象物が何であるか」を知ることである、と言っているようだ。つまり肖像画で言えば「誰なのか」だが、その「誰か?」ということを「知識として描くのが日本画」であるなら、西洋画は「こういう人物である」と本質を描いて見せることで分からせる、ということになるのだろうか。威厳のある人、怒りっぽい人、すばしこい悪党、残忍な政治家、人それぞれに特徴があり、その特徴を「人物の内面(魂)で」描き分けるのだ。日本画の例として適切かどうかはわからないが、源頼朝の画像からはその「冷酷残忍なマキャベリスト」と言う印象は、全然伝わってはこない。長々と西洋画・日本画の違いを説明してきたが、ここで言いたかったことは日本画には「知っている題材を綺麗に描く」ということはあっても、「そこに生きている対象を実際にあるようには描かなかった」と言える。雪舟がネズミを「さも生きているかのごとく」描いてみせたと言っても、「そのネズミがエサを探し求めて走り回る」までには描けなかっただろう。知識としてのネズミを描くのと生きたネズミを描く違いが西洋画と日本画には存在する。ここに芸術と装飾品との違いがあるのではないだろうか。日本人にはその西洋的感覚がいまだに根付いていないようで、現代画家にも対象の本質に迫る迫力ある絵を描く作家はまだ出てきてはいないようである(私の私見です)。

あるいは日本人は、世の中を「物の溢れた世界」と認識しているのかも知れない。そうすると西洋人が「神と天国」をイメージして死後は魂の救済を求める教義に従い常に「自分の魂」を世の中の根本に置いているのに比して、日本人は六道輪廻の仏教的世界観からエンマ大王に十把ひとからげの「迷える衆生」として扱われる存在であり、「単なる人」という程度の自意識しかなかった、とも考えられる。とにかく私の結論としては、絵画は「その絵の中に魂がいる」から、その「魂」を見る、というのが西洋画の見方である、と理解した。ユトリロもモネもピカソも、必ず絵の中に「何らかの魂が描かれている」に違いないのだ。それを感じなければ西洋画を見たことにはならないのである。

というわけで今回私は西洋画の見方に「一つの視点」を持った。私のように画才のない一般人は、視点を持つことで「絵を鑑賞する」ことが楽になる。もしかしたら他の芸術でも同じではなかろうかと思って、音楽で考えてみた。例えば何かの曲を弾くのに「感情を込めて」弾くのはどうだろう?。しかし悲しみの表現として「泣く」というのは正しくない。その泣くという行為・感情は、「何らかのこと」の結果起きる生理現象である。表現するならその原因である「何らかのこと」を表現しなければならない。その「何らかのこと」は当然、泣く「前の出来事」であるはずだ。その「何らかのこと」を演奏者が表現することで、観衆は「泣く」のではないだろうか。私は最近モーツァルトのピアノソナタのアダージョ楽章を聴いていて、「その余りの透徹した一音一音の美しさ」に、音楽とはこうでなきゃ、と思った事を報告したい。人によっては「泣く」かもしれないほどの、繊細で優美で美しい。音楽は「音が多ければいい」というものではない、という見本である。いや、脱線した。

これから皆さんも西洋絵画を見る機会があれば、その絵の中に「いくつ魂が描かれているか」を見るのも楽しいのではないだろうか。私の絵の見方であるが。

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