明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

火曜日は文化の日:孤独な夜に聞くクラシック(4)ベートーベンが好きな人は変わった人

2020-12-22 17:56:37 | 芸術・読書・外国語

1、大衆芸能の騎手
19世紀にベートーベンが登場して以来、今に至るまで、クラシック界を席巻したのは「芸術性」というキーワードである。新人ピアニストが演奏会翌日の批評欄で目にする言葉は、彼または彼女の演奏が「作曲家の芸術性をどれだけ再現したか」云々ということに終始することになる。この「芸術性」という意味不明の言葉が評価の1番目に君臨していて、演奏家の紡ぎ出す音だとか超人的な演奏技術だとかの評価は、2番目・3番目以下の要素になってしまった。音楽本来の「楽しさ、メロディの美しさ、躍動感」などと言った、わかり易い表現は傍らに押しやられて、芸術性こそが全てといった価値観が一般愛好家の間に広まっていったのである。果たして芸術性って、そんなに素晴らしいものなのか。それが私の永年疑問に感じていたことである。だって誰も正確には、芸術性が「どういうものか」をわかっていなかったのだから。

2、音楽史の変遷
音楽はもともと「歌」だったと私は思っている。それが、笛や太鼓で囃子をつけながら集団で歌う「民謡」のようなものに進化していき、同時に冠婚葬祭や神への奉納の時に歌われるようになったと考えられる(私の勝手な考え)。つまり元々は、大衆の文化だったのだ。つまり人々が何かをする時にサポートする役割を担っていた。それが西洋では教会音楽として発達し、ルネサンス後期にモンテベルディが出て音楽が娯楽としても広まり、ヘンデル・バッハ・ラモーなどバロックの大音楽家を輩出した。そして18世紀にフランス啓蒙主義と歩調を合わせた「古典派音楽」が登場するや、ハイドン・モーツァルトに代表される「宮廷サロン音楽」全盛時代を現出するのである。

3、音楽の変遷

ここまでは音楽は、一部の高貴な人々の上品な楽しみであった。ただ、資本主義の発達とともに新しい階層=資本家が生まれ、音楽の世界でも楽譜の出版とかピアノやバイオリンを教えるといった新しい収入方法が発明されて、それまでの王侯貴族や教会などの「雇われ音楽家」のくびきを脱して、大衆を相手に演奏会を開いミュージシャンがどんどん登場して、「音楽の市場開放」が一気に広まったのである。モーツァルトは、その職業音楽家の「走り」であり、彼の家計を支えるのは「彼の圧倒的人気」であった。彼の音楽も初期・中期は宮廷音楽の伝統を踏まえてロココ調の「装飾品」のようなものが多かったが、途中から大胆にそれまでの殻を破って、壮大で深みのある「至高の音楽」を続々と発表するまでに変化していったのである。言うならば彼の中期〜後期の大傑作群は、西洋音楽の一つの「到達点」だと言える。ただ惜しむらくは、1791年12月5日(=モーツァルトの命日)に35歳という若さでなくなっていることだ。1789年から激化したフランス革命の惨劇を見なくて済んだと言うのも、彼に取ってはせめてもの慰めだが、この大革命はその当時の世相に大変革を与え、大衆は既にベートーベンの登場を待っていたのだった。

4、歌は世に連れ、世は歌に連れる
少々前置きが長くなったが、要するにベートーベンの登場はざっくり言うと「身分社会から開放されたブルジョアジー」が、新しく社会を引っ張っていくイケイケの時代に、皆が待ち望んでいた「時代精神」だったと言える。このバブル期にも似た人間解放の精神的影響の中で、ベートーベンも大衆を焚きつける「アジテーション音楽」を連発した。交響曲「英雄」が発表されるまでは、作曲家個人の意思というものは、大して重要視されてはいなかった。それが「英雄」以降になると、ざっと数え上げるだけでも、交響曲「運命」や「田園」、ピアノコンチェルト「皇帝」にバイオリンコンチェルト、弦楽四重奏曲「ラズモフスキー」、ピアノソナタ「ワルトシュタイン」「熱情」、それに余り評価は高くないが歌劇「フィデリオ」など、中期の傑作が目白押しである。彼の音楽は「曲そのものよりも曲の持っているメッセージ力」が人気を博したと言えよう。ベートーベンは順風満帆、ノリにのっていた。耳が不自由になって来ている点は音楽家としては大問題だが、とにかく才能がそれを上回っていたのである。

5、戦争の世紀

こうして世は戦争の時代に突入していく。戦いが貴族同士の支配権の争いだった時代は去り、フランス大革命以後は人類初の「国民国家」が出現した。農民も承認も誰も彼もが戦いの場に否が応でも駆り出されていく。その世相を反映して、勝利という崇高な目的に自己を高めていこうとする「精神的に自分を鼓舞する音楽」が持て囃されたのだ。ベートーベンは特にそれが上手かったのである。「勝つ」ということに酔いしれるためには、「試練と苦難」と少しの「神の加護」を描くことだ。それには曲の最後に必ずオーケストラ全員が、フォルテッシモで奏でる「盛り上げ演奏」がお約束になっていた。つまり戦いの後の「勝利の美酒」が用意されていたのである。その時には個人的な「美しい甘美なメロディ」に酔うことなどは必要なくて、人々全員参加の騒々しい感情の大爆発が要求された。

5、ベートーベンの音楽
この間、NHKのテレビで諏訪内晶子が語っていたが、ベートーベンって「普通に弾いたらつまんない曲じゃないですか」とコメントしていた。その通り、見事にベートーベンの本質を突いている言葉だ。そもそもチャイコフスキーがブラームスを評して言った言葉が「彼にはメロディが無い」だったことを思い出す。音楽とは昔も今も「メロディ」が命なのである。勿論私はブラームスが大好きである。特にピアノコンチェルト2作とバイオリンコンチェルトには「ゾッコン」だ。確かにブラームスにはベートーベンのような「論理的なとか無機的なとか」の、一種人間離れした音のロジックはない。その点むしろ、「音による感情の揺さぶり」が一層心地よい。だからブラームスはメロディがなくとも「酔える」のである。ベートーベンには難解な音の洪水を受け止めるだけの根気が必要だが、だからといって何か「聴くものを天国に誘うような歌」を奏でてくれるわけではない。ひたすら巨大な迷路に連れ込むだけなのである。ブラームスはベートーベンを敬愛した。しかし一方で音楽家の本質である「歌」を忘れはしなかった。それがベートーベンを特異な存在に高めた理由である。人類史上初めてにして最後の「歌のない音楽」を作り続けた作曲家、それがベートーベンである。

6、音楽の到達点
個人的意見だが、音楽に「芸術」を持ち込むのは間違いではないかと思っている。楽しい音楽や悲しい音楽、激しい音楽や静かな音楽はあっても、それが「芸術」と言ってしまうと、何か一段高い境地に達したかのような錯覚に陥ってしまうのだ。バッハの芸術とかベートーベンの芸術とか言うと、何か音楽を超えて「新しいジャンルを開いた」かのように勘違いする。彼等はあくまで音楽家であり、「美しい音楽」を作曲した人、でいいのではないだろうか。良い音楽と普通の音楽との間には、格別な違いはない。ただ片方はもう片方に比べて、格段に「美しい」だけである。それを象徴するのが、そのような美しい音楽の中でもモーツァルトの音楽作品は、別格的に天国的に神のごとくに「美しい」、それが不動の真実のである(私の評価であるが)。ベートーベンはショパンやシューマンやバッハに比べて、とにかく「メロディを作る才能」に欠けていた。「エリーゼのために」にしても「悲愴の緩徐楽章」にしても、ましてや畢生の大作「第九の終楽章」にしても、彼のメロディは「どんくさい」の一言に尽きるではないか(私はこの評価を変えるつもりはない)。ベートーベンの音楽では、「ワインを飲みながら歌に酔いしれるクリスマス」は、とてもじゃないが送れない。それはモーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスの転調の神々しさを聴けば、一発で分ることである。

結論:ベートーベンの魅力

それは何か、と問われれば「果てしない音の迷路に敢然と立ち向かう巨人的意思の眩暈のする様な迫力」を感じること、だろう。むしろこれほどの「休息のない音楽」を聴く体験は、余りにも甘ったるい現代人には必要な事かもしれない。以上、生誕250年を迎えたベートーベンに対して私の考える超個人的なベートーベン像を書いてみました。音楽家必須のメロディメーカー落第の彼が、新しい道を目指して突き進んだ到達点が、超アスリートが出場する「難解晦渋の戦場」だったということでしょうか。今年も又年末には、クラシックファン恒例の「第九」を聴かない予定です、それでは。


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