十の想ひを一言でのべる

万斛の想い
・・・
語り盡せるものか

後顧の憂い (一) ・ 維新回天1 その瞬間 (とき)

2018年06月13日 | 後顧の憂い・千里の途

一、長い一日
一、深夜の電話
2011年 6月14日、午前 1時半
「 花田莞爾さんの御家の方でしょうか 」   ( オウチノカタ )
「 莞爾は私の息子です 」
国立大阪医療センターからの突然の電話である。

深夜、病院からの緊急電話と言えば過去二度、倅の交通事故での経験があった。
「 交通事故ですか 」
「 いいえ、ここ救急救命は、病気で 殊に命が危ない人が緊急搬送されるところです 」
「 ええっ!! 」
「 今すぐ、来てください 」 「 お車で来れますか 」
「 いえ・・タクシーとなりますが、直ぐに向います 」
病院の住所と電話番号を聞き、
私の携帯電話の番号を伝えると

妻と二人
取るも取りあえず、表の道路へ飛び出した。
運良くも ・・は、謂うも憚るが
流しのタクシーが待っていたかの如く、直に拾えたのである。
「 法円坂の国立医療センターへ 」


独立行政法人国立病院機構・大阪医療センター

二、病院へ急ぐ
「 病気で命が危ない ・・・? 」

一体、息子に何が起こったというのか。
気は逸る

・・と

谷町筋・谷町三丁目辺りで携帯電話が鳴った。
まさか・・・
・・・血の気が失せた

「 今、どの辺りでしょうか 」
「 今、阪神高速の下です 」
「 先生が待って居られます 」
「 病院の表玄関でなく、救急センターの方へ着けて下さい 」

と、夜間係員(シバタさん)

先生が待っている ?
此は、如何いう事なのだらう
もう・・・駄目なのか?

三、誰か?
病院入口を右に折れると救急センターの玄関

・・と、
誰かが玄関前に立っている。
白衣を着ている。
医師だ。
此方に向って、何か呼びかけている  ( コチラニ ムカッテ )
嗚呼・・・

タクシーから跳降り、案内され室内に駈込んだ。
見らば、
ストレッチャーに仰向けに横たわりたる倅の姿、

意識は無く、死の形相をしている。
・・・
言葉も出ない
只々、倅の顔を茫然と眺めた
茫然とは、斯くの如きを謂うのであらう
医師が、手術にあたり脳血管造影検査同意書にサインして呉れと、
サイン済み次第検査に入り手術すると云う
  
今迄、なにも施なかったのだらうか
手術するまでに死んでしまいやしないのか
兎にも角にも、速う 速う
・・・は、
妻共々の想いである

一刻も速う
一刻も速う

・・・後顧の憂い (二) ・長い一日 へ、つづく  


後顧の憂い (二) ・ 維新回天2 長い一日

2018年06月11日 | 後顧の憂い・千里の途

その瞬間 ( トキ )
「 ヤバッ 」
・・・と発し、突然倒れたる倅
それは、其の日の仕事を終え、会社の同僚と共に、食事中での出来事であった。

愉しい時間に居たであらうに ( ・・・その瞬間までは )
救急車の中での呼びかけに対し、一度は頷いたそうな。

而し、それっきり意識が無くなったという。

           倅にとっては、此が最後の 晩餐
薄暗いホールに倅の同僚三人が佇んでいた。
誰も皆、初対面ばかり
私等が駆け付けるまでの間、倅に付き添っていて呉れたのだ。
誰も皆、かんねんした表情をしていた。
彼等にとっても、真に青天の霹靂であったらう
辛い時間を過ごさせてしまった。
而し、奈落の底に落ちたは倅、
そして今 生死を彷徨っている。
倅は今、淀川の淵に佇んでいるのである。

三、主治医の説明
救急の処置室からMRI室へ
私等は案内され高層棟の無人の 2階ホールで待つことに為った。
まんじりともせず
『 今、一体何を如何しているというのか
  何時になったら、手術にかかるのであらうか 』
・・そんな想いが、頭の中を駆け巡っている
窓外の景色が白けて来た
「 滔々夜が明けた 」
午前4時過ぎ
検査の結果を説明すると謂う。
主治医の説明は
肺炎をおこしている
此は、発生時の食物が気管に入ったことが直接の原因であるけれど、
 肺が相当くもっているのは、喫煙の所為である
心臓も弱い、血液もドロドロの状態で、動脈硬化、年齢 ( 26才 ) のものではない
腎臓機能が弱っている
過去に大病の経験があるか、よっぽど生活習慣が悪いからのものであらう ・・と
病名は、
くも膜下出血、椎骨動脈解離、破裂性後下小脳動脈解離
症状は頭痛、意識障害、呼吸障害 ・・と
原因は、
特定する原因は判らない・・と
手術は、
脳動脈瘤コイル塞栓術を施す・・と
専門用語での説明を理解するは難解であった
要は
脳内の血管にできた大小二ケ所の動脈瘤が破れた故の
くも膜下出血 夫れも、最重度の症状
・・らしい

「 助かりますか 」 との問い掛けに
生存率は30% 程度と言う驚愕の応え
唯々、茫然とするのみであった。
手術は医師の登院を待って医局会議後直ちに施すと言う。

そんな悠長なことを
手術するまでに死んでしまおうが
兎にも角にも、
速くして呉れ

一刻も速く ・・・
吾々の、切々なる想いである


待つ身は辛い
医師からの説明後
2階エレベーターホールのベンチで妻と二人、再び待つ人となった。
互に話すこともなく、窓外の白けた景色を只茫然とながめている。
そんな景色なぞ、なんで目に入らうか
而し、状況に変化はない
夜が明けて、更に不安が募る
いつまでこんな状況がつづくのであらうか
午前6時頃、ようよう動きがあった。
手術は11時半頃から始まるとの知らせ
「 11時半!? 」
緊急の知らせがあった 1時半から 10時間も経過することになる
これまでの時間は なんだったのだ。
手術するまでに死んでしまうではないか
まさか、後になって 『 手遅れだった 』 ・・と、言うんじないだらうな。
而し、そんな吾々の想いを措いて、事は進んで行くのである。
あくまでも、吾々は待つ身なのだから

我家では安否を気遣っているだろう 娘 ( 妹 ) が孫娘と共に待っている。
本日
午前中 2時間程ではあるが欠かせない仕事がある
さらに午後からは、母親の大事もある  (ダイジ)
選りに選って、こんな日に ・・・
此れだけ波乱万丈の巡り合わせが他にあるものか
母親の大事は親父と妹に任せても、仕事を他人に頼ることは出来ない
仕事を済ませて、11時半までには必ず戻ってくるからと
妻を一人残して、一度帰宅する事にしたのである。

偶々の偶々

午前 7時半頃、帰宅の直前
我家のベランダ前の小路で、自転車で出勤する久田氏と遭遇した。
大阪に引越して来た1963年以来、私を弟のように可愛がって呉れている人である。
その久田氏に、偶然の偶々、選りに依って、こんなときに遭おうとは・・・
此も縁と謂うものであらう
久田氏の顔を見た瞬間、これまでの気丈が緩んでしまった。
「 こんな早う、どないしたん 」
・・との、問いかけに、
感極まった私、まともに返答ができなかった。
私は、緩んだ気持ちから逃げるように、2階の我家に駆け上がったのである。

五、手術
予定通り、仕事を済ませ
淀屋橋から法円坂へと急いだ。
病院に戻ると、妻は安堵の表情を浮かべた。
独りぽっちで、さぞや心細かったのであらう  ・・さもあらん
主治医はテレビに取上げられたこともある 敏腕のベテラン
偶々、当夜の宿直医だったのだ。
「 ついてますよ 」 ・・と、夜間係員 ( シバタさん) が言う。
こういう・・巡り合わせもある
手術は11時半頃に予定通り始まった。
そして、
塞栓コイル術で、施術時間は2時間から3時間とのこと
 
・・・
予定の時刻を過ぎても手術が終わらない
如何したものか・・・
不安ばかりが募る、
悪い事ばかりを考える
なんとも、待つ身は辛い
・・・
午後4時半、手術は終わった
身に着けていたものとして、
コンタクトレンズと奥歯の欠片、プラスチック製の小ビンケースに入れたものを手渡された。

長引いたのは小さい方も同時に施術したからだとのこと
而し、そんなことより なにより
手術が終って一番に聞きたい事は、
なんといっても
『 手術は成功して生命の危機を脱した 』 ・・である
此は、誰しも同じであらう
「 助かりますか 」
・・・との、問いに
「 判らない 」
・・・との、つれない応え
判らないは、なからう ・・そう想った。

手術したから・・と、謂って、それだけでは命が助かるとは謂えない、
その後の経過を見なければならぬ
殊に、合併症である多発性脳梗塞、水頭症が気がかりだと謂うのである。
一般的には、
術後の最初の二週間は合併症、殊に多発性脳梗塞により死亡する例が多いのだと言う。
さらに、
その後 四週間が一つの目安だと医師は言うのである。
だから
暫らく様子を見ないと判断できない・・と
吾々としては
「 もう、大丈夫ですよ 」
・・と、どれ程言って欲しかったことか
その期の覚悟など、誰がするものか
納得できないものの
入院の準備を済ませ、午後6時頃、妻共々帰宅した。

嗚呼
なんとも

長い一日であった


数日後のこと
同僚の彼等から手渡された紙袋から中身を取り出せば
倅が身に着けていた衣服と靴が入っていた
その中に有りし、ズタズタに切り裂かれたるスラックス 
なんとも、痛々しかった
つくづく
倅の身に何が起きたかを思い知らされた
・・・のである

・・・後顧の憂い (三)・憂いの中 へ、つづく


後顧の憂い (三) ・ 維新回天3 憂いの中

2018年06月10日 | 後顧の憂い・千里の途

憂いの中
一、ICU ( 集中治療室 )
2011年6月15日
術後、初めての対面
 
ICU室の面会要領
ICU室の面会は午前10時と午後6時の2回、30分程度
而も、家族のみに限定され、
勤務会社の者さえ許されない
個人情報保護が徹底されているのだ。
入室
前室に於いて、手洗い、アルコール消毒、マスクの装着を済ませ、
インターホンにて呼びかけると、入室オーケーのコールがある
つづいて、電気錠が解除され、片引きドアが開いた。
不安、心配、憂慮・・・等々、沈んだ暗い気持ちを心懐に、
斯くして感慨一入、
ICU なるものに初めて入ったのである。
ICU・・・さすがに、命に係るとあって、緊張したる空気が漂っている、

誰もが皆、ピリピリしている。
医師は当然ながら、
凛としたるナースにどれ程勇気づけられたことか

 

 

ベッドに横たわる倅
医療機器、
配線の数々、どこに立ってもそれらに触れそうで、居場所がない
ベッド傍を見らば、血液が溜まったタンク、
タンクへと延びたチューブ、
脳に溜まった血液や髄液を、脊髄から取り出しているのだ
「 なんと、むごたらしい・・ことか 」
さらに、
出血のダメージは大きく、自力で呼吸が出来ない
従って、機械にて酸素の供給をしてやらねばならないのである

気道確保の為にと、口から気管まで挿入されたチューブは、観るからに痛々しく
此の装備のみを以てしても、事の重大さを認識するに余りあらう
此は、テレビドラマの1シーンを見ているのではない
此が倅の現実なのである
そして、昨日の今日
覚醒はなく、意識など回復すべくもない
人相が別人の、倅に
「 死ぬなよ 」 ・・・そう、呟くしかなかった。
・・・・
そんな中
「 助かって欲しい 」 ・
・・との、妻の必死の想いに、
涙して応えて呉れたナースが居た。
彼女のその涙に、吾々の心が どれ程癒されたことであらうか
『 白衣の天使 』 ・・とは、能く謂ったものである。

「 あの、窓のむこうに倅はいる 」
面会に往う時、復える時、
いつもそう、呟いた
「 死ぬるなよ 」


二、意識は戻らぬが

意識が戻らない
それでも、ナースによれば
呼びかけに対して、僅かなれど反応するようになった。
声は聞こえている筈だから、声かけをして上げるように、そして其の際は手を握って上げて呉れと、
『 皆の話声が聞こえていた 』 ・・は、回復した人の多くが謂うそうである。

 更に
ホン微細 (ささやか) なれど、右の手の指が動いたと、
「 ほんとうですか 」
そう聞かば
握った手に少しなれども力を感じる ・・・そんな、気がした。
ホン微細なれど回復してきている
・・・そう想うと、
熱いものが込上げてきた。

三、瞼を閉じる
術後、目が開いた。
意識が戻ったのであらうか
而し、

「 莞爾 」 ・・との、吾々の呼びかけに、何の反応もしない
目は明いているのに・・・・
腦が覚醒したから、目を明けたのではないのか
喜びもつかの間
意識そのものが戻っていないことを想い知らされた
単に目は開いただけで、何も見えちゃいなかったのである。

「 そのうち、視力は戻りますよ 」
・・・と、ナースが言う。
ナースのその言葉を、素直に信じたい吾々であった。

ところが
2、3日して

眠りから覚めた状態でも、瞼を開けなくなった。
而し、こともあらうに
誰も、それに気付かなかったのである。
そして、やり過ごしてしまった。

四、気管切開

口からのチューブによる呼吸は限度があり、気管切開を行う必要があると謂う。
頸部に気管の穴を開け直接チューブを挿入し、此処から呼吸させるのだと
将来、開けた穴は塞がるし、ちゃんと話せるようにもなるから、
心配はいらないと、医師の説明
「 喉に穴をあけるのか 」
而し、誰が断ることなぞできようものか
妻は殊更、憂いていたが
不安を懐きつつも、7月15日 同意の捺印をしたのである。
施術後
気管切開した穴から 疸が溢れ出ている
ナースが気管の中に管を通して疸を吸引している
「 もう見ちゃ居れん
 肺の中には、こんなに疸があるものか 」

喫煙の弊害は、こうして大病の時に思い知らされる・・・そういう事の様である。

五、病室へ

ICUでの治療は、術後二週間まで
それが決まりだと、東棟11階の
病室へ移った。
ナーススティションの隣室・ガラス窓越しに患者が観える病室で、其は吾々を安堵させた。
くも膜下に充満していた血液や水分は、脊髄に管を通してほゞ出し切った。
心配したる、術後の合併症たる多発性脳梗塞も最小限で済んだ、水頭症の症状も出なかった。
いい事ずくめである

而し、それでも医師は
未だ未だ
予断は許されない・・と言う

憂いても、憂いても ・・きりは無い、
一つ一つ、
乗り越えて行くしかないのであらう



7月3日、我家のベランダに咲いたるアロエ花
斯のアロエ、株分けして更に殖えつづけている
然し、花が咲いたは此の時だけなのである


・・・
後顧の憂い (四) ・ 維新回天 一すじのひかり へ、つづく 


後顧の憂い (四) ・ 維新回天4 一すじのひかり

2018年06月08日 | 後顧の憂い・千里の途

一すじのひかり
一、 一般個室 ②
一日の殆んど眠っている。

而し乍、僅かなれど意識が戻ってきている様だ。
合間に行った問い掛けに、頷いて応えるようになった。
「 莞爾、聞こえるか 」
「  ・  」
「 お父さんや、判るか 」
「  ・  」
「 莞爾、お母さんや、判るか 」
「  ・ 」
頷いて応えている。
声が届いている、判るんや・・
危険状態の峠は越えたのか

ホッ・・と一安心
どれほど、安堵したことか

暗雲の隙間からの一すじの光
・・・感慨、表わしようがない

 国立大阪医療センターに 倅を見舞う日々の中
 2011年7月17日の帰り道
 偶々

 遭遇したる景色である       リンク→
希望の光さす


而し
いつまで経っても
倅の瞼は閉じた侭・・いっこうに開こうとしない。

妻がどれほど心配したか
開けないのではなく、開こうとしないのかも知れない
原因は脳の方に有って精神面からだと担当医 ( 脳神経外科 ) は謂う。
はたして、そう ・・だらうか
妻の必至の懇願で、レントゲンすると眼に出血しているのが判った。
出血が原因で瞼を開けることが出来なかったのだ。

硝子体出血・テルソン ( Terson ) 症候群
クモ膜下出血の合併症のひとつ
クモ膜下出血による急激な頭蓋内圧亢進に伴って生ずる硝子体出血のことを謂う
( 厳密には、頭蓋内圧の上昇により毛細管が破綻し、硝子体腔に血腫が拡散した状態 )
テルソン症候群はクモ膜下出血患者の数パーセントに発症が認められ合併する頻度は少ない
傾向にあるものの
テルソン症候群を合併したクモ膜下出血患者の死亡率は、
合併していない患者の2.5倍と高く、予後判定の根拠となる
その他の後遺症、意識障害や運動麻痺も重度と為り易い
硝子体出血は自然吸収される為、発症から少なくとも6ヶ月は経過観察した方が良いとされてきたが、
視力障害が著しいと、而後のリハビリに悪影響を及ぼすのみならず、
五感の八割を占める視覚が機能しないと日常生活に多大な介助を要する為、
早期の治療が予後を左右する
・・と、謂われている

東棟11階中央南側
病室③からの眺望

遠く上本町六丁目辺りが見える
而し、
倅は此の景色も
此の室に存たことすらも分らない

作業療法士によるリハビリ
ここ急性期の病院に於ては、1日45分が限度
麻痺している半身のみならず、全身動かせない
ほとんど一日眠っている状態で、リハビリなぞできようものか
このまま、動かないまま・・・なのか
不安が募ってゆく



二、退院、転院の準備

ここでの治療は終わったと言う。
 次は回復期の病院でリハビリせよと言う。
吾々からすると 命を取り留めたというだけ、治療はこれからではないのか
そう言うと
今の保健医療制度では、急性期の病院の入院期間は最長で2カ月

従って、8月13日までが入院の期限となると言う。
それまでに回復期の病院に移らねばならない
期限を越えてしまうと、回復期の病院にすら転院することが適わないと言うのだ。
急がねばならぬと・・

医師からの病状の説明を乞うた
説明に依ると
順調に回復している、水頭症の心配もないだらう
多発性脳梗塞は発生した、・・と、MRI画像を見せながら、
「 此のヤケドの痕のようなものがが脳梗塞の痕です 」 ・・・と、数えてみせた。
そして、
命が助かった理由をしいて言えば、
「 若かったから 」 
脳の半分が壊れてしまった、一旦死んだ脳細胞は再生しない
脳障害の回復は、全く分らない
ダメージを受けた右脳はその機能を果さず、
後遺症として、体の左半分に麻痺が残る
だからと謂って、リハビリせずんば寝たきり状態の侭となるから
兎に角も、リハビリで頑張るしかない
リハビリにより残った左脳を鍛え麻痺した部分の機能を補って行く
頑張れば車椅子に坐れるまでには成るだらう
「 リハビリ 頑張って下さい 」
・・と

もう、死ぬことはなからう

一つ
峠は越した

2011年8月11日 退院

・・・後顧の憂い (五) ・ 峠こへて 千里の途1 (心機一転)へ、つづく


後顧の憂い (五) ・ 千里の途 1 心機一転

2018年06月06日 | 後顧の憂い・千里の途

千里の途

千里の途も一歩から
いざ 本懐果たさん
決意固くも
而して
千里の途は、遙かなる哉
 

 
心機一転は吾が想い

維新回天は倅への願い  (オモイ)
 
負けてなるものか

挫けちゃならぬ

                                        一歩一歩踏みしめて
医師が言ふ
『 命が助かった理由は、「 若かったから 」 と
脳の半分が壊れてしまった、
一旦死んだ脳細胞は再生しない
ダメージを受けた脳はその機能を果さず、後遺症として、体の半分に麻痺が残る
脳障害の回復は、全く分らない
だからと謂って、リハビリせずんば寝たきり状態の侭となるから
兎に角も、リハビリで頑張るしかない
リハビリにより残った脳を鍛え麻痺した部分の機能を補って行く、
これしかない
頑張れば車椅子に坐れるまでには成るだらう
リハビリ 頑張って下さい。
これを以て、
国立大阪医療センターでの治療はこれで終わりです
・・と

「 これで終り ! ? 」
命を取り留めたばかりではないか
真の治療はこれからであらう
而し、吾々の願い悲しや、此が、保健医療制度
否応なし、回復期の病院に転院せねばならぬのである。


『 千里の途 』
心機一転
第一、千里の途

一 医療ソーシャルワーカー
落着かない毎日が続く
『 所謂、急性期を脱っした 』 ・・とは、ほど遠い
急性期、回復期・・斯の認識に疎い私、
そんな私が適切な医療機関を見つけることなぞ
出来るものか
而しそれでも、待ったなし
回復期の病院には移らねばならない

期限を越してしまうと、回復期の病院に転院することすら適わないのだから
急がねば・・

倅の場合、酸素ボンベを抱えたままでの移動が条件となる
斯の条件で受け入れる病院は少ないのだそうな
頼みは、医療相談室のソーシャルワーカー、
親切な対応をして呉れた
大阪府下の回復期病院から、受入れ可能の病院をリストアップして貰った、
技量、入院費用、通院アクセス、・・・等々、綜合的に考慮し、
その中から一つの病院を択ぶのである
洋々、二つの候補を絞り、7月26日、7月27日 各々との面談・見学も済ませた。
そして、
本人、家族、諸々、バランスを綜合的に鑑み
 箕面市の千里リハビリテーション病院と決めたのである。
「 己が択んだことに後悔はすまい 」

想えば
6月14日の緊急搬送から、
毎日が、波瀾のドラマであった。
日々、変化する病状
みおもの婚約者の出現
勤務会社の退職手続
独り住まいのアパート ( 八尾 ) の整理・清算、
及び、公共料金、日常の支払い等々の清算
まさに、怒涛の二ヶ月であった。
・・・と、そう想う


   ←アパートからの景色
「 天窓のある部屋なんやで 」
・・と、自慢していた
夢を懐いての一人暮らし
毎日見たであらう斯の景色
もう・・見ることはない

室のテレビ台には、
市販の頭痛薬が置いてあった
たかが、普段の頭痛・・と、
そう想っての飲み薬なのであらう
誰が、くも膜下出血の兆候と気づくであらうか
テレビ台の上、
箱から取りだされた錠剤を見るにつけ
「可哀そうに」
・・・そう、想った

 
二 退院
意識は回復したものの、依然として瞼が開かないまま
そのまま
で国立病院大阪医療センターを退院する。
そして
ついに、その日が来た。
8月11日 (木)、午前11時半 
転院先の、千里リハビリテーション病院のスタツフが、病棟・病室まで迎えにきた。
寝たきりの倅
車椅子など座れるべくもない
ストレツチャーからストレッチャーに
嗚呼、
此を、転院と謂うのであらうや
驚いたは
介護タクシーが待つ玄関キャノピーまでの道すがら
一瞬であるが
瞼が開いた
「 オーッ 」
タイムリーなこのこと
此は、兆しかも知れない
暗闇の中に一すじの光明を見た想いであった。

車への同乗者は一名限り
妻を乗せた
そして、明日への希望を抱いて
転院先の千里へ
千里の途についたのである




私は
単独、阪急電車天神橋六丁目駅へ向かう


千里の途

 
千里リハビリテーション病院  (大阪府箕面市)
 
腦や脊髄を損傷した人のための日常動作を改善するための、
『 回復期リハビリテーション 』 を集中的に行う専門病院
院内設備は日常生活に近い環境に整え、
365日、一日3時間のリハビリ、
身体機能や日常生活動作の改善にむけて集中的にリハビリを行う

一人の患者にセラピスト3人体制でリハビリに取り組む
理学療法士 ( PT ) は、
歩く、立ち上がる、起き上がる、バランスをとる等、主に運動機能の回復を目的に運動療法を行う

作業療法士 ( OT ) は、
トイレ動作や更衣、洗顔や家事等の日常動作を訓練指導する

言語聴覚士 ( ST ) は、
声を出す、話す、食べ物の咀嚼や飲込みが困難な人の摂食・嚥下機能の維持や向上を図る

人とのコミュニケーション力を取り戻す訓練や指導も言語聴覚士が行う
管理栄養士は、嚥下食などの食事を管理する

リハビリ時間以外は看護師、介護士が患者の日常の世話にあたる

三 千里リハビリテーション病院
2011年8月11日(木)、午後1時 
回復期の病院たる 千里リハビリテーション病院 に入院する
一般病棟の
S111(個室) 5病棟1111号室

病院到着後、直ちに医師の診察を行った
そして、
担当スタッフが集り、カンファリング・合同評価を行ったのである
スタッフの自己紹介、
 主治医、看護師、薬剤師、
担当セラピスト、介護士、栄養士、そしてソーシャルワーカー
現在の動作、身体状況の確認等々
・・・
合同評価を終えた頃、
 私は到着した

先ずは一般病棟 ( 病人扱い ) において
全身状態の管理をする医師が病状・症状を把握し、看護師が全体的なケアをする、
そして、3人のセラピストによるリハビリ訓練を行うと言う
それは、理に適っている
・・と、納得すると共に 
それは、不安の中に居る吾々を安心させ、安堵させたのである

 ・
心機一転
千里の途の一歩が
此より・・始る

・・・

・・・後顧の憂い (六) ・ 千里の途2 セラピスト へ、つづく


後顧の憂い (六) ・ 千里の途 2 セラピスト

2018年06月04日 | 後顧の憂い・千里の途

 なんで、一人ぽっちにしておられやう
 峠を越えると 斯の病院
 今日も
 背中に汗しながら  (セナ)
 峠を越える
                      峠を越える坂道から仰ぐ
 千里の途 2
 セラピスト

一日を通して、ほとんどが ベッドで寝たきりの状態は変らない
麻痺した腕や足は動かない、
筋が硬直し痩せ細って頼りない手足を目の当りにして、
 筋肉というものは、たった一ケ月で、こうも衰えるものなのか ・・そう想った。
さらに亦、
気管切開して装着されたカフ付カニューレから、痰の吸引はつづいている
経口から食物の摂取はできず、経鼻経管にて、食道まで直接栄養を送っている
依然、瞼は閉じたままである
「 目が見える様になれば 」
・・は、セラピストたちの共通の想いである。
リハビリ にあたって、
目から得る情報は重要不可欠なもので、
『 見えない 』 と、謂うことは、とてつもなく大きな障害なのである。


硝子体出血・テルソン ( Terson ) 症候群
クモ膜下出血の合併症のひとつ
クモ膜下出血による急激な頭蓋内圧亢進に伴って生ずる硝子体出血のことを謂う
( 厳密には、頭蓋内圧の上昇により毛細管が破綻し、硝子体腔に血腫が拡散した状態 )
テルソン症候群はクモ膜下出血患者の数パーセントに発症が認められ合併する頻度は少ない
傾向にあるものの
テルソン症候群を合併したクモ膜下出血患者の死亡率は、
合併していない患者の2.5倍と高く、予後判定の根拠となる
その他の後遺症、意識障害や運動麻痺も重度と為り易い
硝子体出血は自然吸収される為、発症から少なくとも6ヶ月は経過観察した方が良いとされてきたが、
視力障害が著しいと、而後のリハビリに悪影響を及ぼすのみならず、
五感の八割を占める視覚が機能しないと日常生活に多大な介助を要する為、
早期の治療が予後を左右する
・・と、謂われている。


体は動かない、声は出せない、眼は見えない・・・これで、どうすると謂うのか
そしてもうひとつ、
高次脳機能障害
脳の損傷が原因で、脳の内、言語、記憶、注意、情緒といった認知機能に起る障害を謂う。
・記憶障害
記憶には出来事を覚えておく『記銘力』、覚えたことを思い出す 『 想起力 』 がある。
前向性及び逆向性の健忘、全般的知的機能の低下が認められる。
前向健忘
所謂 受傷後の学習障害
受傷ないし原因疾患発症後では、新しい情報やエピソードを覚えることが出来なくなり、
健忘の開始以後に起った出来事の記憶は保持されない
・・全般的記憶検査 -- WMS-R ( クエクスラー記憶検査 )
・・言語性記憶検査 -- 三宅式記銘検査
・・視覚性記憶検査 -- ベントン視覚記銘検査
・・日常記憶検査 -- RBMT ( リバーミード行動記憶検査 )
逆向健忘
受傷あるいは発症以前の記憶の喪失、特にエピソードや体験に関する記憶が強く障害される
軽度
最近の記憶や複雑な記憶でも部分的に覚えている
意味的関連のない項目を結びつけるなど難度の高い検査で障害の程度を示す
中等度
古い記憶や体験的に習ったことなどは保たれている
最近の新しい記憶、複雑な事柄の記憶などは失われている
重度
前向健忘と逆向健忘を含む全健忘
ほとんど全ての記憶障害
・注意力障害
集中力が低下し、一つのことに注意を向けつづけることや、注意の対象を切り替えることが困難になる
全般性注意障害
集中困難・注意散漫・・ある刺激に焦点を当てることが困難となり、他の刺激に注意を奪われやすい状態
注意の持続・維持困難・・長時間注意を持続させることが困難な状態
時間の経過と共に課題の成績が低下する
半側空間無視
腦損傷の反対側の空間に於て刺激を見落とすことを始めとした半側無視行動が見られる
・・BIT(行動性無視検査)
・・図形模写検査
・遂行性機能障害
自分で手順を決めたり、段取りを考えたりすることが出来ない
一つ一つ指示されないと行動に移せない
・社会的行動障害
興奮する、暴力を振う、自己中心的になる、思い通りにならないと大声を出す

どう理解していいのか分らないこの難解な症状、
その、程度の度合いを、今は誰も把握できていないのである。
さもあらん、
それは、
腦 ( あたま ) の中のこと、
推測はすれど、誰が把握できようものか

そんな状態で、
如何に訓練を行うのだらう

 2011.09.15撮影
喉もとにカニューレ、と、鼻に経鼻経管
サングラスは、 9月8日から装着
直射日光を見ているくらいに眩しいらしく、
瞼を開くことが出来ない・・から
私が天神橋筋商店街のメガネスーパで購入したもの


第一、
始めの一歩
倅の維新回天
それは、リハビリから始まる
昨日、一瞬ではあるが瞼が開いた
而し、其れは只一瞬のみ
再び、元の目阿弥、瞼は貝の如く閉じてしまったのである
されど、どんな状態にあらうと、一日たりとも欠くわけにはゆかない
それがリハビリ・・なのだ
吾々にとっては未知の領域なれど
始めの一歩 イザゆかん
「頑張ってくれよ」

一 リハビリ初日
8月12日(金)

 
本日のスケジュール予定
07:30~08:30 OT  リクライニング座位
10:00~11:00 PT 
15:30~16:30 ST
嚥下、コミュニケーションを行った
併せて、CT撮影 ( 胸部CT、単純(肺野・縦隔) ) 尿検査 血液検査、・・各種検査を行う

待った無し
これから半年、一日3時間のリハビリを行い続けるのである
未だ、覚醒しない倅ではあるけれど、
前途多難の航海は嫌だ
希望を頼りにして、
前途洋々と進みたい
・・吾々の想いである

8月16日(火)
面会に訪れると、ちょうど作業療法のリハビリの時間に中った
そして、
洗面化粧台のカウンターに、スポンジ付きハブラシと、棒付きキャンディ、を認めた
これで歯磨きの訓練、及び口腔ケアをするのだと謂う
スボンジにより舌に刺戟する、
 そして、スポンジに含まれる水分と刺戟されて出た唾液をゴクンと飲込ませる練習するのだと
キャンデイを舐めさせることにより、出なくなっている唾液を出るようにするのだと
「なるほど、 リハビリとは、そういうものなのか」
 ・・そう想った

二 暗闇に光さすは、いつの日か
8月23日(火)
依然、瞼が開かない
リハビリテーション病院には眼科はない
 而も、往診は適わない
従って、本日は、午前9時~正午の予定で箕面市民病院眼科に外来として出向くのだ
医師から外出許可は取っている

練習はすれど 車椅子にも坐れない倅、ストレッチャーでの移動になる
従って、本日はスタッフが付添ってくれる
千里リハで用意して呉れた介護タクシーに乗込み、箕面市民病院へ
車の中で、倅は只ひたすら、眠っている
緊張の面持ちで診察室へ入った・・ものの
ところが然し、体調頗る悪いのか 眠ったまま覚醒しないのである
眼科医師の呼掛けにも、応える事さえできず
従って、診察ならず
「 診察出来ない・・、従って、( 瞼を閉じたままである) 原因も治療方法も分らない 」
「 仕方がない、次回にしやう 」 ・・と、眼科医の言
おまけに、失禁している様子
こういうことも起らう・・と、推ってはいたが
処置室を借りて、下処理をする始末であった
結局、
再診予約 ( 9月1日PM13:30 ) を済ませて帰院するしかなかったのである


第二 セラピスト
時代の進化は、新しい職種を創出す
『セラピスト』
初めて耳にする

理学療法士 (PT)、作業療法士 (OT)、言語聴覚士 (ST)
社会復帰のための療法を専門に行う者・・だとな

・・・
生涯に於いて、
彼等たちとは一期一会の出逢い
此も縁
  ( えにし)
そんな彼等に、運命を託すのである
人生とは斯様なもの・・・なのかも知れない


8月25日午後、リハビリ棟 B110 (個室) に転室

此れと同時に、
担当スタッフが全て入れ替った。

このスタッフ、
 殊に3名のセラピストが退院までめんどうを看て呉れるのである
彼等に替わってから、日記への記入が俄然多くなった
彼等の書込みからは、
 セラピストたちが如何にとりくんでいるか、
 亦、そこから 倅が一日一日を如何に過ごしているかが推測できた
不安な日々の中、
それでも、彼等に託すしかない吾々にとっては、心強いものである

一例を挙げると
 
8月29日(月)
07:30~70:50 PT・・起床、更衣の協力動作促し
09:00~09:20 PT・・寝返り、座る練習
10:10~10:50 特浴
14:00~15:00 OT
15:20~15:40 PT
パット交換、座る練習、立つ練習
本日は、午前だけでなく、午後もうなずきなどの表出がはっきりされており、
ニコッとされる様子もありました。

座位や立位では血圧降下がまだ安定しませんが、本日は、立ち上がりを2回実施し、
練習後も体調の乱れなく、頑張ってもらえました。
15:50~16:50 ST
午後にリハビリが集中してしまった為、15:50介入時は やや疲労ぎみでした。

でも、「○○なら出来る」 と 出来る範囲でのリハビリは積極的に実施して頂けました。
内容は口の体操と唾液を飲み込む練習です。
本日はムセもなく上手く唾液を飲み込めました。
近日中に飲み込みの検査を行う予定です。
日程は決まり次第、連絡させて頂きます
8月30日(火)

09:10~10:10 ST
うなづき、首振りでの反応はたくさんみられましたが、発声には非協力的でした

一方で嚥下訓練 ( 飲み込み ) には協力的で、唾液の飲み込み練習をしました
昨日の予定表に記載しました飲み込みの検査 ( VF検査 ) ですが、9/2(金)10:30に決まりました
基本的にはご家族様の立会いはご遠慮願います。
終了後に詳しい結果は報告させて頂きます
10:20~11
:00 OT ・・すわる リハビリ
14:00~14:40 PT ・・寝返りと立ち上がり
16:30~16:50 PT ・・立ち上がり
19:00~19:20 OT ・・着替え 整容練習
8月31
日(水)
08:30~09:10 OT ・・車椅子に30分乗りました 血圧低下無く安定してました
10:20~11:20 ST
嚥下訓練実施しました。ムセもなく安定しています

 (のみこみ)・・まだ食べ物は使用していません
14:00~14:20 OT
16:30~16:50 PT
ベッド、車椅子での座位 血圧安定しています。

関節可動城訓練、外気浴(外に車椅子で5分ほど行きました)

・・・といった具合である
彼等の真面目で誠実な態度が表れている

吾々も一案
連絡メモなるものを作成して、互いの想い・情報の交換を目論だ

瞼は開かず
呼びかけの声だけを頼りに
ただひたすら、リハビリをつづけている
只、言われるままに体を動かしているのである
「かわいそうに」・・は、禁句であるけれど
切ない吾が想いである。

・・・
リンク→後顧の憂い (七) ・ 千里の途3 本日のスケジュール予定 つづく


後顧の憂い (七) ・ 千里の途3 本日のスケジュール予定

2018年06月02日 | 後顧の憂い・千里の途

上り坂
下り坂
まさかの坂に転げても
明日はきっと
立ち上がらん

                             9月と雖も、まだまだ盛夏  僅かなりとも、日影を慕う
 千里の途 3
本日のスケジュール予定
第一、
 リハビリは辛い
2011年9月1日(木)

8月12日に行ったCTの検査結果は、
くも幕下出血術後の状態は安定している、現在腦疾患は無い
・・と、

日々のリハビリは、
寝たきりから、坐ったり、立ったり、移動は車椅子で、等々
 そんなリズムで進んでいる。

閉じたままの瞼
本日は前回 ( 8月23日 )
の仕切り直し
箕面市民病院眼科へ、病院が用意して呉れた介護タクシーは前回同様である。
而し、今回は車椅子での通院、想えば倅もずいぶんの回復ぶりである。
午後12:30 診察が始った。
ところが、
医師が、出血した硝子体をを覗こうとしても、
肝心要である瞼を閉じた侭、頑なまでに瞼を開こうとしないのだ。
「 瞳が裏返っている 」
「 これでは、診察にならない 」

瞳が裏返っている為、検査不能と医師、ヘラを使って眼球を回転させる・・と謂うのだ。
痛いのに決まっている。
それでも、倅は辛抱我慢すると言う
果してどれだけ理解した上で応えたかは分らないが、とにかく診察しなければならぬ
処置することになったのである。
気の小さい私、想像するだけでギブアップ
痛・・・みちゃ居れん
私は、いたたまれずに室から出てしまった。
・・・
医師が言う
「 瞼を閉じるのは、硝子体に出血したその痕が原因で、此が為、眩しいのだ
出血痕を取り除く為、全身麻酔を施しての手術が必要である
その場合、一ケ月の入院が必要である 」・・と
全身麻酔とは、一ケ月間の入院とは
冗談じゃない
リハビリは、最初の一歩を踏み出したばかりではないか
この重要な時期に、まさか リハビリを中断する訳にもゆくまい
事は、瞼だけの問題ではなからうに
「 今回は片目だけしか診察できなかった、(もう片方は拒んだ為である・・さもあらん)
 痕は自然に消えるやも知れない、次回に両目を診察して、判断しやう 」
此の日は、暫らく様子を観ようという結論になった
結局、目の状況に進展無く、瞼は閉じたまま
9月29日再度検診・・と、なったのである  

第二 リハビリ との、格闘
本日のスケジュール予定
セラピストの書込み
から、倅のリハビリの日々を推してみると
 

                       スピーチバルブ・・参考イメージ 
嚥下造影検査(VF)
摂食嚥下障害の者に対し、レントゲン室でX線を照射しながら行う 飲込みの検査
バリウムを混ぜた飲食物を食し、口から胃へ、食物が運ばれる様子を確認する
飲込んだ植物が気管に入る 『 誤嚥 』、食堂からの逆流がないか等を確認する
この検査の結果によって、安全に食することができる食事を検討する・・ST

9月3日(土)
車椅子に座ることが平気になってきた。
殊に感動させられたは、小声で 「おとうさん」・・と、声を発する様になったことである
そして、明日から口から食事する練習、も始る
とは雖もやはり、リハビリはしんどいらしく、間は殆んど眠っている状態が続いている
「 6月14日の出血からの状況からしたら、驚異的な回復です 」
・・と、医師が言う。
そう聞かば、
『 なおるかも知れない 』・・と、惟う親心である

9月6日(火)
あまりたくさんは食べられませんでしたが 「 もう少し頑張れますか? 」 と問うと
うなづいて下さり、デザートのみ完食できました・・ST
9月7日(水)
左上肢ストレッチ 寝返り 座り練習 立つ練習
立つ練習・・本日声かけての反応は小さかったのですが、血圧の変動少なく
立つ練習では左膝の支えをお手伝いするだけで踏んばって下さいました・・PT
摂取量はあまり増えてはいませんが、昨日まで全然食べなかったご飯 ( 軟食 ) を
少しだけ食べて頂けました・・ST

サングラスの効果の程
昼間の生活の為にと、サングラスを購入した
これで、眩しさも少しは緩和されるであらう 
9月8日(木)
ソファ上での整容動作(くし、顔ふき、手ふき 実施)
 サングラスをかけると少し目を開かれていました・・OT
昨日夜、お部屋にて真っ暗な環境で「目を開けて下さい。」と お声かけしたところ、
 お1人で、ゆっくり約3mm 目を開かれました。
サングラス ありがとうございます。
立つ練習等、明るいところで実施するトレーニングでは、ぜひ使わせて頂きたいです・・PT

9月11日(日)
午後2時15分頃、リハビリに立会う
ソファーに座る訓練をしている
車椅子よりきついようである
「どや、調子は 元気か? しんどいか? 痛いところは無いか?」・・との、問い掛けに
「しんどい」 と、小声で応える
やっとの想いでの訴えであらう
毎日のリハビリは相当しんどい様子である、而し、頑張るのみである
40分間の立位訓練では
「頭、顔をあげるんやで」 との
、私の声に素直に頷いてくれた
而し、会話したのは これだけで その後の1時間半 ずっとリハビリに立会ったものの

声をかけても それに一々返事 ( 頷き ) する余裕は無かった
午後4時、今日の最後のリハビリが終了した後直ぐに、眠りに着いた・・いつもの通り
挫けるなよ・・と、祈る想いであった
9月12日(月)
右手で手すりにつかまる練習

本日1回だけ、左膝右膝ともにお手伝いなく(体は支えています) 20秒立つことができました・・PT
9月13日(火)
15:30~ カンファレンス
 
覚醒状態に関しては依然として不安定であるも離床時間の延長と共に、
室外でも全身状態の変動がすくなくなってきています
以後も離床時間の延長と共に生活リズムの構築を図っていきます
全身性の筋力低下や筋緊張、痙性も徐々には改善を認めていますので、
継続して行い筋力アップ、持久力向上を図りながら介助量の軽減、
可能な動作の獲得を目指します
検査上は経口摂取可能であるので継続して訓練を行いながら、
機能の向上を図ります
発話などに関しても機能評価、練習を行っていきます

入院から1カ月、
スタッフ一同から現状の説明を受ける。
医師の説明によると
くも幕下出血術後は順調で、全身麻酔による眼の手術も可能な状態までになっている
痰も出なく成ってきた、
眼の治療経過をみて、鼻と気管の挿入チューブを取り外すことを準備する
29日眼科医師の判断待ち、実施するとのこと。

ようよう、チューブがとれる
まともに、口から食事がとれる、鼻から呼吸ができる
回復の度が目に見えてきたのである。

9月15日(木)
15:16                    
トイレにすわる練習しました 徐々に体がかたむいてきました・・PT
食事は200㎉程度 摂取できました
促しにて、発声、発信がありました・・ST

この三週間 ( 特に2週間 ) 本人と口を聞けてない
問いかけても返答 ( うなづき、横首振り等 ) が無い
一般病棟に居た頃よりその数は減少(激減)している
気がかりではある・・が、毎日3時間のリハビリがキツイようだ
しんどくて、体を休めるだけで精一杯なのであらう

9月16日(金) 

食事は350㎉摂取できました
生年月日や、お父さんの名前など促して教えてくれました・・ST

左手ストレッチ、ソファ座位での姿勢調整、立ち上がり 立位保持
車いすの上で着がえ(ズボンは立ち上がって行いました)
立ち上がり 立位保持
声かけに対して、お話やうなずきは、ほとんどありませんでした
立つ時に、すっと右手で介助者の肩をつかもうとされるなど、
声かけは、しっかり聞こえていると考えております

本日もお疲れの中、30秒立位保持を10回がんばってくださいました・・PT
9月17日(土) 
昼食 508㎉ 食べられました・・ST
 8:18
9月18日(日)
午前8:00頃 小声で 「腰がイタイ・・・」 と、言い出した
心配すらばきりがない
・・と、分っていても、やはり、心配である
立ち上がり練習 関節トレーニング 座る練習
 車椅子への乗り移り練習を実施しました・・OT
昼食
 初めて全量摂取出来ました。水分は250cc摂取
 (今日のメニューでは500㎉です)・・ST
座位、立位練習を行いました。立位時の脚の力がかなり認められるようになりました。
 また、立位練習後には、「疲れたから寝かせてもらってもいいかな?」
 という発言がありました・・PT

  10:52
9月19日(月)
昼食 全量摂取
 昨日までは70分かかっていましたが、今日は60分でした・・ST
9月20日(火)
イスに座る練習・・OT
昼食 全量摂取
 お茶が飲みたい時は手でコップをもつジェスチャーをしていました。
 (今までは何もうったえなし)
 発生で伝えるように促しましたが、食事中はうなずきと首振りのみでした・・ST
9月22日(木) 

① コミュニケーション(痛みにyes,noうなづき確認)
② 上下肢のマッサージ(左手温タオルで手良浴、緊張の緩和を行いました。)
③ 座位練習(ベッド上端座位で10分行いました。
   起き上がる時に自己にて体を起し 上肢で支える場面が見られました。)
④ 興味関心課題の提供(ギターなど
乗り気)
   食事全量摂取 水分もしっかり飲めています・・PT
9月23日(金)
  14:27
午後3時から1時間、リハビリに立会った
体のあちこちが痛い様で
 (問い掛け⇔頷き)
「痛いんか」・・「・」
「痛いけど我慢しているんか」・・「!」 
 午後4時 リハビリ後、
「おとうさん これで帰るからな」・・「!」
 と、頷いてくれたので
退室すべく室のドアを開けた
 と、そのとき
「ありがとう」
 と、大きな声を搾りだしたのである

9月24日(土)
摂取は8割程度でしたが、「うまい」 「まずい」 の表出がみられるようになりました
食事以外でも会話する場面がみられています
今日はたくさん話して下さいました・・ST
9月25日(日)
  8:38
多くの患者も居るリハビリ室は、コミュニケーションの場でもある
看護師、介護士が見守っている中、ソファーに坐る倅
座位の練習も兼ねている
この姿勢相当しんどいらしく、とてもコミュニケーションどころではない
従って、こうして眠っている
これで精一杯なのだ
・・とは雖も
まあ、なんやかんや謂っても、
よくぞここまで座れるようになったのである
9月26日(月)
最初の声掛けて「静かにして!!」 と表出確認

上下肢のリラクゼーション、座位練習 行いました。
「音楽つけて欲しい」 「背中がかゆい 起きるの助けて」という表出がありました・・OT
9月28日(水)
声かけには反応多く、発話もみられました。 昼食9割摂取です・・ST
トイレ・背中・肩をもんで欲しい・顔をふいて・・・etc
 多くの自己表出発話がありました
外気良浴、上下肢リラクゼーション、起居動作、etc 
行いました・・OT

われ等の祈りよ届け・・と、千羽鶴
中学の頃の友達による物

病気の事 周り回って知ったらしく 仲間の皆が折って呉れた
仲間とは、ありがたいものである


連絡メモに
「返答が無くってもできるだけ話しかけてやって下さい」
 ・・と、書込みをしたところ
夜はこちらの声かけに対して、「ばっちし」や「大丈夫」と返事してくださいました』
・・と、介護士の返答の書込んで呉れる
此のチームスタッフ共通の誠実に、心うたれた私である

9月29日(木)
箕面市民病院で眼科受診
病院が用意して呉れた介護タクシーは前回同様である
只、今回は女性の介護士のかたの付添いであった
診察は午後一時から始まった
前回 ( 9月1日 ) は、
「 ・・・片目だけしか診察できなかった、( もう一方は拒んだ為である・・さもあらん )
痕は自然に消えるやも知れないし、次回に両目を診察して、判断しやう
暫らく様子を観ようと・・・」 ・・と、
その続きとなる
今日こそは、両眼開眼といきたいものである
 医師が言う
「 眼球内の出血の痕が小さくなっている
 状態が良くなっている
 此れなら、手術をしなくても済むかもしれない
 眼が開いたら視力も戻る
 これまで同様、目薬による治療で、一か月間更に様子を見よう 」
 ・・と

9月30日(金)
昼食 本日は約6割くらいで満腹だったようです
続くようであれば主治医・栄養士と相談します・・ST
着がえの練習しました・・OT

 この坂を越えたなら
 幸せが待っている

「 久しぶりに来ました
まだ眠っているので会話が思うようにできませんでした

残念です」
午前9時25分 花田・母
連絡メモへの、妻の書込みである

・・・リンク→ 
後顧の憂い (八) ・ 千里の途4 コスモスは風に揺れていた に、つづく


後顧の憂い (八) ・ 千里の途 4 コスモスは風に揺れていた

2018年06月01日 | 後顧の憂い・千里の途


10月25日
「 目が開いた 」・・と、病院からの知らせ
実に134日振りのことである。

私の顔を見て
「 アッ、お父さん 」 ・・と
どれ程、安堵したことか
明日に希望が持てる・・・そんな想いを懐いての帰り途
千里北公園で観たるコスモス
風に・・・揺れていた



 千里の途 4
コスモスは風に揺れていた

第一、 食べること
口から食事を取る
健常者にとっては、当然のこと
而し、悲しいかな・・此の当然のことができない
言語聴覚士・ST は此を助けるのである
セラピスト達の 『 本日のスケジュール 』 への書込みによると
10月1日(土) 11:30~12:30 
昼食・・8割摂取しています・・ST  
10月2日(日) 11:30~12:30
昼食・・30分で全量摂取しました・・ST
10月3日(月) 11:30~12:30 
昼食・・30分で全量摂取しました
本日より夕食も開始です・・ST

一日の大半を眠って暮す生活
意識にせよ、無意識にせよ、装着した経鼻経管を抜かせない為に、
 両手にはめたミトン・・・8月31日~10月17日の経鼻経管を取り除くまで使用した
ナースコールする為のリング、手許に置いたものの、練習したにも係らず、
 一度も、自分で引張ることはできなかった
『聴かせる』・・此もリハビリの一貫 として購入しCDラジカセ、まだその時期に非ずで
 ダメージの大なる腦は、関心を示すまでに回復していなかったのである
高次腦機能障害とやら

 そもそも、己が境遇そのものを、まるで理解できないのだから・・・

10月5日(水)
17:30~18:30 夕食
日によっては少し残されることがありますが、順調に食べられています・・ST
10月6日(木)
  
A107室に移動
11:30~12:30 昼食
7割程度でした・・ST
10月7日(金)
17:30~18:30 夕食
本日は排便が出ていなかったこともあってか、食事がほとんど食べられませんでした
その後、排便あったと聞いています・・ST
10月8日(土)
11:40~13:00 昼食
昨日に続き、食事はすすみませんでした
なんとか説得して半量程度摂取・・ST
10月9日(日) 
11:30~12:30 昼食
全量たべられました

10月10日(月)
11:20~12:20 昼食
7割です 唐あげにチャレンジしました かたかった様で少したべられました
10月12日(水)
毎日辛いリハビリの中、
せめてもの楽しみは何かと聞くと、「2番が風呂に入る事で、食事が1番」 との応え
最近は喋ること多く、スタッフ一同も驚いているとの事
もうじき カニューレも取れる
10月13日(木)
17:30~18:30 夕食
40分で9割摂取しました 17日(月) より3食 開始します
10月17日(月)
経鼻経管がはずされ、此により全ての食事を口からとることになった

08:00~09:00 朝食
本日より朝食 ( 3食
) 開始です 全量摂取できました
10月18日(月)
カンファレンス
 
覚醒状態に関しては改善を認めており、リハビリに関しても意欲的に励まれる場面が増えてきています
以後は長下肢装具を使用した立位や、歩行訓練を行っていき、
介助量の軽減や自立動作の確認を行い、可能な動作の獲得を目指します
トイレ誘導やシャワー浴の評価を行いながら動作の獲得を目指します
食事に関しては経管栄養からの離脱を図ります
会話量の拡大を認めていますのでコミュニケーションの向上を図っていきます
10月19日(水)
07:30~08:30 朝食
常食評価 ( 焼き鳥、サラダ )

10月20日(木)
長下肢装具 届く
10月23日(日) 
疲れている様子
明日は、いよいよ ( 気管切開の ) カニューレがとれる
10月24日(月) 

滔々、カニューレがとれた
開いた穴はじきに塞がるという
そこから水や、ばい菌は入らないのか
それもこれも、取り越し苦労も喜びの中
そして次は、眼が開くこと


第二 目が明いた
10月25日(火)
くも膜下出血発生までは、主にコンタクトレンズを使用していた倅
目が空いたとしても、コンタクトレンズの使用は適うまい
そこで、八尾のアパートの整理品の中にあったフレームメガネを、
目が開いた時の為と、入院ベッドの枕元に措いていたものの、
多分、用を足さないものであらう 
而し、目を開くことも適わない状態で、メガネなど造れる筈もない
それならば・・と、推測で度を1つ増したものを注文したのである
そのメガネ、本日夕方、出来上がる
明日の面会に届けてやることができる・・と
そこへ
「目が明いた」
・・と、まさにタイムリーな病院からの知らせ

此の日をどれだけ待ったことであらうか
而し、喜んだは私や妻だけではなかった
「 目が見える様になれば 」
・・は、全てのスタッフたちの共通の想いであった。
リハビリにあたって、目から得る情報は重要不可欠なもので、
 『見えない』 と、謂うことが
、とてつもなく大きな障害であった。
だから、彼等は常々、口惜しい想いをしていたのである

だからこそ、全てのスタッフが喜んだ
そして、此れからのリハビリに希望を抱いたのである
10月26日(水)
私は、胸を躍らせ、新調のメガネを持って、千里の途を奔った
いつもより軽やかに、病棟への階段を上った
倅は談話室に居た
私を見るなり、 
「 アッ、おとうさん 」
此が、開眼第一声
胸のすく想いをしたのである。


『 おじちゃん 』
姪 ( 4才 ) からプレゼントされた似顔絵を観て涙ぐむ

一つ、
峠を越した
されど

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