十の想ひを一言でのべる

万斛の想い
・・・
語り盡せるものか

人間の愛らしさ

2019年10月09日 | おんなの学校 佐藤愛子

タクシーを利用することが多い私は、亭主(かつてはいた) の機嫌なんて気にしたことはなかったが、
タクシーの運転手の機嫌は気にする。
何しろ命を預けている相手である。
しかも小さな箱の中に二人きりで数十分過さねばならぬ相手である。
べつにハンサムである必要はないが、機嫌だけはよくしていてもらいたいと思う。

ある日、私が乗ったタクシーの運転手は三十歳あまりの、むっつりと機嫌の悪そうな顔をしていた。
機嫌がわるくてむっつりした顔になっているのか、もともと機嫌の悪い顔の持主なのか、
と 私は考える。
そんなことどっちだっていいじゃないか、といわれるかもしれないが、
私は生活技術については全く考えたことはないが、こ
ういうつまらないことになると一生懸命に考えるタチの人間なのである。
ためしに、
「 今日はむすわねえ 」
と いってみた。
相手は機嫌の悪そうな声で生返事をしただけである。
ではこの顔は持前の顔でなくて、やはり彼は機嫌を悪くしているのだな、と 私は判断する。
どういうことがあったのか知らないが、自分が不機嫌だからといって、
その不機嫌に何の責任もない人間を不愉快にさせてもいいのか、
と 彼の不機嫌は私にも移って来た。
そのときである。
突然、彼はいった。
「 全く、この木はよく生きているよねえ。こんな少しの土しかないのに、枯れないで・・・」
丁度、信号が赤になって停車している時である。
そばの舗道にプラタナスの並木があった。
木の根元は一メートル四方の土の部分があるだけで、あとはぴったり舗装されている。
「 そうそう、ほんと・・・」
私は嬉しくなって思わず勢いよく答えた。
そのとき彼は不機嫌だったのか、あるいは元来、無愛想な人間だったのか私にはわからない。
だが人を容れないその狷介けんかいな心が、ふと こう思った。
・・・・全くこの木はえらいなあ、よく生きているなア・・・・と。
あの、人を寄せつけない不機嫌の奥の方で、この人は ふと、そんな風に感心した。
そしてそれを口に出さずにはいられなかった。
そこに人間の面白さがある。
ああ、人間っていいなあ、と 思うのはこんなときである。
人の機嫌や顔つきに いちいちかかずり合っているのが無駄なことだと思うのもこんなときである。
あの人はこういう人間だ、ああいう人間だと勝手に断定して、
憎んだり嫌ったりするのは性急すぎると思うのもまた こんな時である。

いつだったか、私は娘と二人でタクシーに乗っていた。
運転手は中年というよりは初老に近い、これまた機嫌の悪そうな人である。
行く先をいっても返事せず、
並んで走っている車が接触しかけたといって荒々しく舌打ちをしたりしている。
車の中は流行歌が流れている。
「 格子戸を  くぐりぬけ
 見上げる 夕やけの空に 」
と 小柳ルミ子が歌っている。
行く先の道順が違うので私は注意をした。
彼は注意通りに道を変えたが、終始無言である。
喧嘩に強そうな猪首。
薄くなって来た後頭部に名の傷か、数針縫った傷痕がある。
漸く目的地に着いて私と娘は下車した。
「 あの運転手、小柳ルミ子のファンなのね 」
と 歩きながら娘がいった。
「 どうして 」
「 だって 小柳ルミ子のカセットを聞いていたもの 」
「 へえ、あれはカセットだったの、カーラジオじゃなかったの 」
と 私は驚き、それから笑いがこみ上げて来た。
喧嘩っ早そうな猪首の中年男が小柳ルミ子のファンだからといって、
何もそうおかしがることもないようなものだけれども、
むくれながら小柳ルミ子のカセットを聞いているかと思うと何ともいえない親しみ、
可愛らしさがこみ上げて来る。
人は日々の暮しの中で自分でも気がつかないところで、
本当の姿、人間の愛らしさを表わしているものだ。
その愛らしさに触れたとき、
私の胸には しみじみと人間に対する愛情が湧いて来る。
愛想のいい人、礼儀正しいひと、人からいい人だと褒められる人、
そういう人とは気持よくつき合えるが、本当のところが見えそうで見えない。
そんな風に考えると、相手が粗暴だったり、意地悪だったり不機嫌だったりしても、
気にすることは全くないのである。

佐藤愛子著  女の学校 から


親切について

2019年10月08日 | おんなの学校 佐藤愛子

ある日、ある業界紙から電話がかかって来て、インタビューを申し込まれた。
私はこの頃、仕事をやめている。
健康上の理由もあって、新しい仕事は受けていないのである。
その時もその旨を述べて断わった。
相手は若い女性で、必死の声でねばる。
そのあまりに一生懸命ないい方を聞いているうちに、
私はだんだん会ってもいいという気持ちになって来た。
彼女の必死の気配に心動かされたのである。
そこで日時を指定した。
約束の日、彼女はやって来た。
インタビューが始まった。
そして私は呆気あっけにとられた。
彼女の質問に私が答えると、それに対して彼女はいちいち感想を述べるのである。
一言いうと十言、十言いうと百言という風に彼女はしゃべる。
ついに彼女の独演会のような形になり、話はいつか身の上話になって行っている。
私は沈黙がちになり、彼女の饒舌の合間に、
「 あ、そう、そういうことになりますかね 」
とか、
「 そう、そう、そうなんです 」
などというほかなくなり、だんだん腹が立って来た。
約束の三十分はとうに過ぎて、もう一時間半になっているではないか。
ついに押えていた怒りは爆発寸前まで膨張し、
「 あなたは私の意見を聞きに来たんですか。自分の意見をしゃべりに来たんですか・・・」
という声は震え、顔は仁王のごとく燃えていたことであろう。
私の見幕に彼女はびっくり仰天し、実は××先生、○○先生にもお願いしたのですが、
簡単に断られました。
快諾して下さった佐藤先生はヨイ方と思っていたのですけれど、
と蒼惶そうこうと帰って行ったが、玄関を出ようとして、
「 あ、いうのを忘れておりました。
私どものこの新聞は業界紙ですので、謝礼はさしあげられません。すみません 」
と いい残したのであった。

彼女が帰った後、呆然と机の前に坐ると思わず吐息が洩れた。
私はよく怒る人間として知られ、なぜかくも憤怒するのか、
と 友達の話題になることは始終だが、今、漸くその理由がわかった。
もし私が××先生や○○先生のように、インタビューを簡単に断っていれば、
カンカンに怒って彼女を脅かすこともなかったのである。
それを私は断らなかった。
必死の声音に打たれて、億劫なのに会う気になった。
そもそもそれがいけないのだ。
自分が腹が立ち易い人間だと思えば、そのような人づきあいを心がけるべきなのであろう。
私に怒られてトボトボと日盛りの道を行ったであろう彼女の心のうちを思うと、
私は腹を立てつつ暗澹あんたんとなるのである。

人から借金を申し込まれたときは、断乎として断るか、
さもなければ返してもらおうと思わずに 「 与える 」 つもりで金を渡せ、
と 私はよく友達から教えられる。
それが本当の親切というものだと、人はいう。
返してもらおうと思って貸すから、返ってこない時は腹を立て、相手を憎むということになるのだ、と。
しかし私は、相手が 「 必ず返します 」 といっているからには、その言葉を信じたいのだ。
返します、といっているのに、返さない場合のことを思って
「 このお金はあげます 」 とはいえない。
それは 「 返す 」 といっている相手に対して失礼ではないのか。
そんな風に考える私は、いわれるままに金を貸して、返って来ないと怒り狂う。
そして そうごらん、だからはじめから返してもらおうなんて思わなければいいのよ、
と 人から説教される。
誰も相手を信じた私に同情せずに、信じたことを幼稚だと笑い、愚かだと呆れるのである。

世間を見廻すと、人はみな怒らずにすむように、己が身を守るために、
上手に切り捨て作業を行っているようである。
その切り捨てを上手に行えば、私もかくも怒らずにすむのであろう。
人はいう。
「 本当の親切とは、切り捨てるところは、冷静に切ることよ 」
と。
私が人を脅かさぬためには、他人の切迫した音声や必死の表情や、
ふと垣間見せる人間のあわれから顔を背ければいのだ。
それにしても、 「 人を信じたい 」 という願望をまず切り捨てなければ、
親切というものが出来ないとは、つくづく世の中とはむつかしいものである。

佐藤愛子著  女の学校から


慈母

2019年10月08日 | おんなの学校 佐藤愛子

タクシーに乗っていると、初老の運転手が話しかけて来た。
「 日本人の暮しもよくなったもんですねえ、生活が苦しい苦しいって、みんな文句いってるけど、
戦争前の貧乏にくらべたら、貧乏のタチがちがうもんねえ 」
街を行く若い女性たちは一応流行にそったおしゃれをし、ブーツがはやればブーツを、
毛皮がはやれば毛皮を着ている。
子供だってみな小ざっぱりした服を着、ハナタレ小僧なんていうのは、
どんな山奥へ行っても見られなくなった。
眼帯をかけたり、耳に湿布をするための黒い耳アテをつけたりしている子供は、戦前は珍しくなかった。
「 わしらの子供の頃は、革靴はいている子供なんていなかったね。
みな、ゴム靴で、すっぽりと足が入るだけの、何の飾りもないものだったですよ 」
「 ああ、そうだったわねえ。私もあのゴム靴、はいていたわ 」
私は嬉しくなって声をはり上げた。
「 あのゴム靴は、冬はとても冷たかったのよ 」
「 わしらのところでは、冬は藁沓わらぐつでね。父親が夜なべ仕事に編んでくれたもんですよ。
雨や雪の日にカッパ着てくる子供なんて、組で二人しかいなかったからね。
あとは毛布を頭からかぶって、目だけ出して、毛布がずり落ちないように、母親が縫ってくれたもんです。
かばんなんかもなかったからね。
風呂敷に教科書を入れて、ほどけないように、風呂敷の端を母親が縫いつけてくれました 」
「 昔の母親は、ほんとうにたいへんだったわねえ 」
「 そうですよ。それで八人も九人も育てたんだからねえ 」
我ながら年をとったと思うのは、こういう話をしていると、何となく目頭が熱くなって来ることである。
いったい昔の母親の、あの頑強さはどこから出て来たものなのだろう。
それを考えていると、初老の運転手はこんなことをいった。
「 戦争のとき、兵隊は天皇陛下バンザイといって死んで行く、なんていったでしょう。
あんなことは嘘っパチで、わしの戦友は お母さん といって死んだからねえ。
あの頃の母親は、子供のために身を削っているからねえ。
削った分だけ、子供の心に残るんだろうねえ。
今思うと、貧乏で可哀想な母親だったと思うけれど、母親としてみれば、あれでよかったんだろうねえ。
こういうものだと思っていたんだろうねえ 」
運転手の声はふと涙声になり、その感傷をふり払おうとするようにいった。
「 それにくらべたら、うちの女房なんぞいい気なもんだよ!」

これからの親は、子供の心にどんな思い出を残せるのか、むつかしい世の中になった来た。
父親も母親も、子供のために身を削るのがいやになっているわけではないのだが、
削っている箇所が昔と違って見えにくくなって来ているのである。
大半の親が、雪の日のためにレインシューズもレインコートも手軽に買ってやれるのである。
自転車も買える。
人形も買える。行楽にも行ける。
父親のすることは、それらを買い与えるために、ラッシュの乗物にモミクチャになって働くことである。
藁沓を編んでやる代りに、月給袋の封を切らずに妻に渡す。
父親が囲炉裏端で背を丸くして藁沓を編んでくれた姿は、瞼の裏に残り易いが、
月給袋の封を切らずに渡す姿は、
いくらその後ろに疲労が滲んでいようとも、子供の瞼の裏には残りにくいのである。
「 親孝行というものは、むつかしいもんだねえ 」
と ある子供がいった。
「 だってさ、うちは貧乏じゃないんだもん 」
親が子供のために身を削りにくくなっているのと同じように、親孝行のしかたもむつかしくなっているのだ。
「 遠足の日、お母さんは暗いうちから起きて豆腐屋へアゲを買いにゆき、
いなりずしを作ってくれました。その時のお母さんの姿は忘れられません 」
そんな作文が小学校の古い文集にあった。
しかし今は、ご飯は電気が炊いてくれるし、朝早く起きてアゲを買いに行きたくとも、
豆腐屋は昼にならないとアゲを作らないのである。
かつては貧乏日本が、強くて働き者の慈母や孝行息子を作った。
幾つになっても子供の胸に懐かしくかなしい母の思い出が残った。
日本がゆたかになり我々の生活レベルが向上したおかげで、
子供の胸に残る思い出の形も変わってきた。
どんな風に変ったか?
現代の慈母の思い出は着飾って大学の入学式について来た姿であろうか?

佐藤愛子著  女の学校 1977年 から

昭和五十二年 ( 1977年 ) 頃、
毎日新聞の日曜日版に掲載されていた随筆
私は、なにかしらん気に入って、読んでいた
昭和で謂うと九十四年 ( 2019年 ) の 而今
私の懐かしい思い出として、記憶している