<らい予防法廃止10年>新聞各紙の特集・連載

西日本新聞
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「壁」は消えたか・らい予防法廃止10年<3>
事件 偏見の連鎖断ち切れ-連載
2006.04.02 朝刊 38頁 0版38面1段 
 
 「もう、そっとしておいてくれんですか」

 「事件」に話が及ぶと、旅館を経営する男性の表情がサッと曇った。

 ハンセン病元患者に対する宿泊拒否事件の舞台となった熊本県南小国町。「加害者」のホテルは既に廃業。取り壊した跡地には立ち入りを禁じる鉄条網が張られる。事件後、地元の旅館組合はハンセン病療養所菊池恵楓園(同県合志市)を訪ね啓発に努めるなどしたが、あれから二年半。今は話題に上ることもない。

 「名誉な話でもないし、そりゃ触りたくないですよ」。別の旅館で働く女性は声を潜めた。

 だが、表には出なくとも忘れたわけではない。

 昨春も「事件」に引き戻された。福岡市・天神の繁華街。温泉のPRチラシを配っていると、初老の男性が小声で話しかけてきた。「あん人たち本当は治っとらんとよ」

 なお残る誤解と偏見。女性自身、当時を振り返ると、今も釈然としない思いにかられる。「確かにホテルの対応は間違い。でも、実の家族さえも受け入れないんですよ。それを根回しもせずに、ポンと一民間に丸投げした熊本県もおかしい」

 差別はいけない。頭では分かる。だが、「事件」を完全に消化できたわけではない。

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 「(後遺症の残る)わが身をさらして一般の人たちと一緒にお風呂に入るのが、恥ずかしいと思ってしまうんです」。菊池恵楓園で暮らす稲葉正彦さん(71)は、寂しげにうつむいた。

 療養所主催の旅行は宿泊を断られたことがない。トラブルがないよう事前に説明、協議をするからだ。「本当はそれでいいはずはないと思いますよ。でもね、そんな考え方に慣れてしまってるから」。正論などたやすく打ち負かす現実の厳しさ。“負い目”は、今も被害者の側にある。

 「そんな痛みを、あのころは想像すらできなかった」。ホテルの元従業員だった永野弘行さん(54)=熊本市=は明かす。

 宿泊拒否を決めた経営者に、反論できなかったし、しなかった。「患者が触った机は何年たっても菌が死なない」。幼いころに聞いた話が頭にこびり付いていた。

 ホテルから突きつけられた突然の解雇通告で、加害者から被害者へ立場が逆転した。失業保険が切れ山菜を売って食いつなぐ日々。意外にも、解雇不当の裁判闘争を支援してくれるのは入所者たちだった。「痛みを負わせた人たちなのに…。あのとき、本当に何かが変わったなあと思うんです」

 いま、呼ばれればどこへでも行く。反省と恩返しの思いを込めて「失敗談」を語る。

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 「差別の中でどんな思いで生きてきたか。そんな内面にまで思いを及ばせないと、いくら『感染はしません』と表面的なことばかり言っても偏見は乗り越えられない」

 熊本県健康づくり推進課の東明正課長は、パンフレットに頼った従来の啓発スタイルを改め、市民を対象に菊池恵楓園を訪ねる交流事業を続けている。

 コンクリート塀や監禁室、強制断種や偽名の話。「パンフではこの痛みは分からない」「私も弱い人間です。これを機に成長したい」。二年間で参加者は二百六十人。決して多くはないが、人々は「何か」をつかんでいく。入所者と家族ぐるみの付き合いが生まれた人もいる。「若い世代に働き掛け、偏見の連鎖を断ち切りたい」と思いを強くする。

 啓発の手が届かない現実は確かにある。少しずつ確実に。「事件」を機に、共感の輪を広げる試みが続く。 (社会部・吉良治)

    ×      ×

 ▼宿泊拒否事件 2003年11月、熊本県南小国町の民間ホテルが、県が申し入れた「菊池恵楓園」(熊本県合志市)入所者の宿泊を拒否したことが発覚。

 「他の宿泊客に迷惑がかかる」というホテル側に、県は「病気は完治し感染の恐れはない」と説明したが覆らなかった。県はホテルを3日間の営業停止処分に。ホテルは04年5月に廃業したが、入所者側への中傷、非難も相次いだ。
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「壁」は消えたか・らい予防法廃止10年<4>
将来構想 地域と共に存続模索-連載
2006.04.03 朝刊 30頁 0版30面1段 

 「あそこも、ここも。空き家のままです」

 入所者への事務連絡を担当する福祉室の男性職員が指さす先に、古びた一戸建て住家が並ぶ。

 三月二十日、鹿児島県名瀬市など奄美大島の三市町村が合併して誕生した奄美市の郊外。新緑が広がる山あいに、国立ハンセン病療養所「奄美和光園」はひっそりたたずんでいる。

 入所者は六十四人。全国に十三ある国立療養所の中で最少だ。入所者でつくる自治会は昨年四月から休止状態が続く。役員だった牧忠義さん(84)は「入所者が高齢化し、役員のなり手がおらんのです」と漏らした。

 設立は戦時中の一九四三年。戦後間もないピーク時には三百六十人がいたが、二〇〇一年に百人を割り込んだ。今、平均年齢は七九・八歳。

 新規入所者はなく、「らい予防法」廃止後に十四人が社会復帰を果たしたのも、結果的に入所者の減少に拍車をかけた。

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 「もうクリティカル(危機的)な状況なんです」。昨年四月に熊本市から赴任した前川嘉洋園長(63)は、園の現状をこう表現する。

 既に入所者より職員の数の方が多い。ここ数年、年に二、三人の死亡が続く。自治会どころか園の存続自体が危うい。

 それは、全国の療養所が五年先、十年先に直面する問題だ。全国の入所者が、和光園の「今後」に注目している。

 「療養所を統廃合することなく、現在地で、最後の一人まで医療と生活の保障をすべきだ」。全国ハンセン病療養所協議会は、厚生労働省に「終生在園保障」を強く求めている。厚労省は「統廃合はしない。強制退所も求めない」方針だが、「それぞれの事情が異なる」として各園の具体的な将来像は示していない。

 今年から三年計画で、入所者を一カ所に集める居住棟の建設が始まる和光園。

 「国が最後の一人まで面倒を見る気がないのなら、新しい居住棟の計画はないはずだ」。前川園長は統廃合の懸念をこうぬぐうが、牧さんは「六十年近く隔離され、もう社会復帰もできない。どういう形で最後の一人まで生活を保障するか、はっきり示してほしい」と、入所者たちの切なる思いを代弁する。

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 そんな和光園は今、「地域」の中で生き残る道を模索している。園がもつ医療機能を地域に開放し、無医地区の国立医療機関として存在感を高めようとする。

 地域住民からの強い要望を受け、一九八三年一般住民を対象にした外来診療を開始した。月曜-金曜日の午後に限られるが、皮膚科を中心に一日平均二十八人が受診する。前川園長は「地域医療機関として定着した」とこれまでの成果を語る。

 国立長寿検証センター(仮称)との併設-。旧名瀬市は〇四年、高齢者医療専門の研究機関設置を国に要望した。和光園の既存施設を活用しようとの構想だ。同省から明確な回答はないが、当時の担当者は「和光園は奄美大島で唯一の国立医療機関。奄美市になっても粘り強く国に存続を要望していく」と強調する。

 一般外来の受け入れは、「心」の問題も治療した。

 入所者と地域の親子が一年間、一緒に農作業を体験する「ふれあい和光塾」も今年で三年目。これまで十七家族、約七十人が参加し、園と地域との交流を深めている。

 昨年十二月には園横に「和光トンネル」が開通。車で市街地まで約二分と近くなり、周辺は住宅地として発展している。

 「自分はこれで終わっても、ほかのお年寄りのための国立診療機関として存続してほしい」。前自治会長の作田隆義さん(84)は園の将来をそう願った。 (奄美通信部・幸正昭)

    ×      ×

 ▼一時、米軍政下に

 奄美和光園がある奄美市は鹿児島から南へ約380キロ。敗戦後の8年間、米軍政府に統治された。同園入所者の間に子どもが多く、「奇跡に近い」といわれる。園に堕胎施設がなく、隣接するカトリック教会が入所者の子どもを引き取り養育したなど、本土の療養所にはない歴史もある。外来診療などを契機に住民が気軽に園を出入りするようになり、地域との関係は良好とされる。

第1回と第2回:
http://blog.goo.ne.jp/vinoblanco1999/e/c5d48ac52d7dd7bada4421a45a3de24a
http://blog.goo.ne.jp/vinoblanco1999/e/c89c434e509cc13c6e961fcabc13cf71

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信濃毎日新聞<2>
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[特集]続くハンセン病問題 県内の取り組み 元患者、交流一歩ずつ
2006.03.31 信濃毎日新聞朝刊 12頁 特集1 
 
 県内からも多くのハンセン病患者が県外各地の療養所へ送られた。回復し、らい予防法廃止から十年たった今も、故郷に戻って暮らしている人はいない。全国六療養所に入所している四十人近い県出身者の平均年齢は七十九歳。この十年で二十人余が亡くなった。ただ、この間、元患者と県民の出会いは、少しずつ、確実に生まれてもいる。

<“帰郷”者なく、進む高齢化 若い世代の理解願い…>

 「実を言うと、以前は黙っておりたいと思っていました。でも、今はできるだけ自分をさらけ出して、(ハンセン病問題を)もっと深く理解してもらえたらと願っています」

 二十七日、群馬県草津町の国立ハンセン病療養所栗生(くりゅう)楽泉園。同園長野県人会会長の丸山多嘉男さん(79)は、長野から訪れた十五人を前にした一時間余の話をこう締めくくった。二年ほど前から、依頼があれば体調の許す限り応じ、自分の体験を語っている。長野県内での講演も十回を数える。

 右手がまひしたのは十四歳の時。戦後間もない一九四九年、針で皮膚をつついて感覚の異常を確認されただけで強制収容された。予防法廃止後に元患者らが国を訴えた訴訟には参加しなかった。「失われた時間は、今さらどうにもならん」

 〇四年、そんな思いを変える出来事があった。自分の強制収容を報じた当時の新聞記事に「ライ患者一掃」との見出しを見た。「おれたちは掃き立てられたごみなのか」。故郷の飯田市から講演の依頼が来て、初めて受けた。「このまま黙っていてはいけない」

 手の障害のために軍役に就けず、悔しさから自殺を三回試みた。入所後に園内で知り合った女性との結婚は、断種手術が条件だった―。講演で語る話は重い。「少しでも分かってもらいたいから。あったこと、知っていることはすべて話す」

<心開かれた>

 丸山さんの行動は、県民がハンセン病問題と出合う機会を少しずつ、確実に広げている。

 この日、丸山さんの講演を聴いたのは浄土真宗本願寺派長野教区の人たち。隔離政策を側面から支えてきた宗教界の一員として、ハンセン病問題を三年ほど前から勉強している。ただ、「ずっと長く付き合う覚悟がないと、かえって失礼になる」と、これまで元患者との交流に踏み出せずにいた。

 昨年七月、教区相談員の中島清志さん(45)=須坂市=が思い切って一人で園を訪ねた。「乗鞍」「穂高」といった信州の地名がついた長屋式の園舎を目にし、入所者の望郷の思いが心に染みた。帰って、仲間に訪問を提案した。

 「なぜもっと早く動かなかったのだろう」。知り合ったばかりの丸山さんとうち解けて話す松島澄雄さん(55)=長野市=は後悔する。「同じ人間同士じゃないか、と私たちが(心を)開かれた思い。ようやく自分の心の垣根を跳び越えられた。これからは肩ひじ張らずに、お付き合いしていきたい」

 茅野高校(茅野市)の生徒たちも昨年十二月、丸山さんと出会った。一カ月ほど前に伊那市で丸山さんの講演を聴いた同校講師の菊地和法さん(50)が、「歴史の証人として、経験や思いをじかに高校生に伝えてほしい」と頼んだ。

 多くがハンセン病問題を知らない生徒たちに向かって、丸山さんは「もし自分だったらどうなのか、考えてほしい」と問い掛けた。生徒は講演後の感想文に率直な思いをつづっている。「差別や精神的に苦労した様子が分かった。とても悲しい」「病気よりも、周りの人の(心の)方が怖い」。菊地さんは「分からないなりに関心を持ってくれた。この気持ちを大人になってもどこかで持ち続けてほしい」と願う。

<命ある限り>

 入所者の“帰還”は進んでいない。国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)に暮らす県出身の八十代男性は「予防法廃止も、裁判も、遅すぎた。今さら差別や偏見が残る社会に放り出されても、暮らせない。最期は住み慣れた療養所で迎えたい」と話す。

 丸山さんは〇三年夏、一度故郷に戻ったことがある。だが、半世紀以上の歳月によって、自分と周囲の人々の間にできた「空白」は埋められないと感じ、自ら園へ戻った。隔離政策が一人一人の人生に与えた影は消せない。

 それでも、故郷とつながり、ハンセン病問題の歴史と事実を次の世代へ伝えたいという元患者たちの願いは強い。体調がよく、親族とも断絶していない丸山さんのように県内を講演に歩ける入所者はごく限られている。療養所で信州の人々との新しい出会いを待つ人もいる。丸山さんは「命ある限り、ハンセン病について語らせてもらいたい」と話している。   (畑谷 史代)
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1回目はhttp://blog.goo.ne.jp/vinoblanco1999/e/8f3bac318e449eb5249632e8c544d2ce

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朝日新聞
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社会人・青春、
実感 気ままな日々が特別 「らい予防法」廃止10年
2006.04.02 東京朝刊 37頁 3社会 写図有 

 ハンセン病患者の隔離などを規定した「らい予防法」が廃止されて、4月1日で10年になった。国の強制隔離政策の誤りを認めた熊本地裁判決からも5月で5年。この間に、元患者や家族の生活はどう変わってきたのだろう。4人に聞いた、それぞれの10年。
 「ぴかぴかの社会人1年生です」。山内きみ江さん(72)は、48年余り暮らした東京都東村山市の国立ハンセン病療養所「多磨全生園」を昨年4月に退所した。

 初めて健康保険証を手にして行った一般の病院で、待ち時間の長さを知った。郵便局では整理券を取る方式に感心する。そんな小さな一つ一つに「平等な社会人」となったうれしさを感じる。

 同園で結ばれた定さん(79)は体調がすぐれず、園に残った。「社会復帰して、幸せになれ。おまえの幸せは、オレの幸せだから」。夫が、背中を押してくれた。

 だが、らい予防法が廃止されても、社会の変化は鈍いようにも感じる。手の後遺症のためなのか、賃貸住宅の契約は幾度も門前払いされた。熊本地裁判決後に支給された補償金を思い切って投じ、同園近くに中古のマンションを買った。

 年末と年始、定さんと1週間をマンションで過ごした。園では3食も入浴も時間が決まっている。好きな時間に昼寝をし、風呂に入り、何もしない気ままな日々が「特別な正月」になった。

    □    ■

 岡山県瀬戸内市の療養所「長島愛生園」に住む金泰九(キムテグ)さん(79)は、日本植民地下の朝鮮半島出身だ。

 96年の法廃止の時には、「これで普通の病気になった、と感激したね」。ただ生活に大きな変化はなかった。

 ガラリと変わったのは01年の熊本地裁判決の後だ。ボランティア、弁護士、講演で会う各地の人々……。人のつながりが一挙に広がった。

 韓国のソウルも訪れ、韓国語で講演した。「在日1世の僕がやるしかない、と必死だった。発火点にはなれたかな」

 韓国でも立ち上がる元患者が出始めた。訴訟を経て、日本政府による補償の対象は、旧植民地時代に隔離された韓国や台湾の元患者に広がった。

 金さんは「日本のこの10年のように、韓国でも一般の人と元患者が連帯して人権回復を広げていってほしい」と願う。


 ●「孫たち」1000人に慕われ

 群馬県草津町の療養所「栗生楽泉園」で暮らす藤田三四郎さん(80)の元には学生らが「じいちゃん」と慕って集まってくる。「孫たちだよ」と藤田さん。ノートをめくって数えたら、「孫」は1003人になった。

 藤田さんは19歳の時に入所し、園内で結婚した。子どもはいない。妻は2年前に亡くなった。

 自治会長を務める藤田さんはこの10年、ハンセン病を生きた自らの経験やメッセージを子どもたちに伝えようと、各地の学校に出かけて講演してきた。園にボランティアを受け入れ、多くの人と触れ合った。

 孫たちとは、互いの手料理を食べながら、進学や恋愛、人生について語り合う。都内で開かれる大学の卒業式や結婚式に招かれる機会もあった。

 60年間を療養所で過ごし、今となっては故郷の実家へ戻ることも、療養所の外で自活して暮らすこともかなわない。

 しかし、藤田さんはにっこり笑ってこう話す。「今が青春だね。どこにいても、心はもう社会復帰しているよ」

    □    ■

 鹿児島県奄美市の赤塚興一さん(67)は、亡父がハンセン病だった。幼い頃から村八分にあった。親の話題が出ると、その場から自然に離れる習慣が身についた。「隠すことは、相当なストレスなんです」

 そんな家族の心の痛みをはき出す場をつくろうと03年、元患者の遺族らが集まる「れんげ草の会」を立ち上げ、実名で代表に就いた。4、5人だった会員も今では約40人に増えた。

 赤塚さんでも、講演以外では父のことを積極的には明かさない。「らい予防法が廃止されても周囲の理解はまだまだ。でも、本当に理解してもらうためには、私たちの生の声を伝えていくしかない」。そう自らに言い聞かせ続けている。


 【写真説明】

 (上)山内きみ江さん(右)は療養所に住む夫の定さんの部屋に毎日通う。夫婦にとって人形が子ども代わりだ=多磨全生園で

 (下)居間の柱や戸棚には、藤田三四郎さんの「孫」たちの背丈が刻まれている=群馬県草津町で

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他に熊本日日新聞(会員制)
特集ハンセン病
http://kumanichi.com/feature/hansen/

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