うんこのけむり

要点だけ言います。ただ、テストには出ません。

MFJ~2008年5月『本当の敵』~

2009-06-19 | Weblog

今日。ある方から。


  「きむまこさんは誰かに寄りかかりたくなったり。弱音を吐くことってあるんですか?」という旨の質問メールを頂戴しました。


  これ。以前も違う方数人に聞かれたことがありました。



  んまあ・・・結果的には結論だけ言えば「ない」ですよね。なんでしょう?弱音を吐くというよりは。「相談」はあるかもしれないですけどね。


 ちょっと小難しい話をしますけど。


 生きてく上で起こる事や。何かしらの物事。そういったものには必ずそうなるまでの「プロセス」ってものがあるわけで。


 つまり「何かの答えを導き出したり」「いかんともしがたいその精神状態」を解決するためにも「解決する」という答えにたどり着くまでの「プロセス」が必要なわけです。


 そのプロセス上「知らないことやわからないこと」が発生したときに「相談や質問」を人にはします。ただそっから先は「自分で何とかします」。


 極論。「人に寄りかかったとき」に「解決できなかったらすごく申し訳ない」と思ってる自分がいるってのもあります。


 もちろんそういう「プロセスを経ていく中」での「やすらぎ」とか「ぬくもり」とかは大好きだし。ものすごくありがたい。


 ただそこに「身を沈めてしまおう」とはちょっと思えないですよね。俗に言う「現実逃避」ってやつですかね。


 別に「現実逃避」を否定はしないし。それがうまくツボにはまると「いい意味でリセット」出来たりするのかもしれない。


 ただ俺の考え方は「逃避してる間」は「その問題」は「据え置き」なわけで。そうしてる間に「誰かが解決してくれてる」ってなら俺だってめっちゃ逃避するでしょうけどね。


 どうせ「自分がやらなきゃいけないならとっとと済ませてしまおう」って感じです。


 子供の頃。予防接種なんかで注射が嫌いなコ(まあ好むコもいないだろうけど)でね。先生の前から順番に列を成してね。やたら一番最後に並びたがって。んで後ろに陣取って注射が終ったコに「痛かった?ねえ痛かった?」って聞きまくるコ。いませんでした?


 あれと似てるんですよ。俺から見た「現実逃避」って。



 だからわかりやすいですよ。飯なんか食っていて。まあ多少その日の気分もありますけど。「大好きなもん」は躊躇なく真っ先に食いますからね。俺は。


        「いい事も悪いこともとっとと済ます」



  それは恐らく俺の中には結構根強く根付いているような気がします。


 もうなんでしょう?こう「ロスタイム」が嫌いなんですよ。とにかく。見方を変えたら冷めてるのかな~って自分で自分を思うときありますよね。


 とかく「どうせやるしかないんだから。どうせやるしかないんだから。」それの繰り返し。もうずっと。


 純粋に「借りを作りたくない」って思ってる部分もあるのかな~?とか思うときもあります。


 あとはすんごい傲慢ですけど。


 『俺に限って解決できないはずがない。このゾーンから抜け出せないはずがない』


 そう信じきっちゃってる自分がいるのも多分事実です。もうそう思ってないとね。申し訳なくてしゃ~ないんですよ。


     「今まで俺に関わってきてくれた人たちに」ね。


 だからどんな問題や疑問が起きても。俺の中には何百種類という「マニュアル」があると思っていますから。そのマニュアルって何よ?って話ですけどね。

 つまり「自分が認めてる人間の価値観や考え方」ですよね。


 例えば何か問題があった時。「この問題タツヒロだったらこうするだろうな~」とか「ジュンだったらこうだろうな」とか。もちろん実際会った事・セッションしたことない人でも「ヒロイワ君だったら・・・」「シィちゃんだったら・・・」とかも当然あるわけです。


 ブログなんかを読ませてもらっていて。おおよそのその方の「価値観」ってのはわかりますからね。それを「当てはめてみたりする」。


 するとね。おかげさんで相当数の「マニュアル」を持たせてもらうことが出来たから。必ず「誰かしらの考え方と方法」って当てはまるんですよ。


 それともうなんでしょう。もちろん俺なんかより辛い人はいっぱいいるってのが前提ですけどね。それでも俺なりに「もうあの時にだけは戻りたくない。そして俺はあの時を潜り抜けて今こうしてるんだ」って思ってるから。


 もう大概のことでは「折れない」ですよね。折れちゃいけないって思ってるし。



 極論「自分は一回死んでるから」ぐらいに思ってますから。投げやりとかカッコつけとかじゃないですよ。

 もうなんだろ。「なんとかなるべ~」の極地的な。。。


 もう帰る家があって。自分が食える「暖かい飯」があって。仕事があって。友達がいて。五体満足で。こうやってブログなんぞをのんきに更新できて。


 それだけで俺は「すごいこと」だと思っていますから。


 だからきっとすんごい「向上心」をもつ反面。それと同じくらい「俺も人並にやらせてもらえてるんだな~」という満足感。普通に考えたら「そこで満足しちゃいかんだろう?」ってとこにめっちゃ「満足感」を置いてますからね。マジで。


 だからいちいちいちいちね。「上見すぎ」なんですよ。俺から言わせりゃ。そういう人多いでしょう?


 死んだ人悪く言いたくないけどね。先日自殺したフリーアナの川田さんでしたっけ?そりゃ本人には「死にたいくらいの悩み」だったんだろうけどね。

 はたから見りゃ「何が気にいらんのだよ?」ですよ。才色兼美。仕事に困ってるようでもない。んでもって「疲れました」的な主旨であれだけの人が路上で練炭ですよ。


 もう「自分で自分の舵をどうとるか?」以外の何者でもないでしょう?


 上見るのも大切だけど。ちゃんと下も見とけよと。「上を行く人間」ってのにはね。「行きたくても行けない人の気持ちを背負う義務」ってのがあるんですよ。絶対に。


 ぶっちゃけしょ~もないアホで。めっちゃ不細工な女の子だっているわけですよ。そういう子が「夢を持って生きて」たりする。そういう子とかにね。もう「申し訳ない」って思うくらいのね「自負」ってのは必要ですよ。


 それが出来ないなら上に行くな。行こうとするな。そもそも小ばかにされて腹立ててるなっちゅう話であってね。


 プライドってのはね。大切だとは思います。だけどね。


 持ち方によっちゃ「誇り」だけど。それを間違えたら「足枷」ですからね。


 「俺は私は選ばれた人間だ」そういう気持ち嫌いじゃないです。でもねそういう人って意外に多いのが「挫折を知らない」んですよね。「穴に落ちたことがない」。だから挫折した時や落っこちた時の凹みようが半端じゃない。


 挙句それこそ「人に対する頼り方も知らない」。だからひどいもんです。



 よく書きますけどね。「恥ずかしいの定義」が根本的に違う。「負けるという意味の定義が違う」。



  偉そうな事言って文を締めますけどね。


 月並みですけど。


 『本当の敵。本当のライバル。本当の壁ってのは自分の中にいる自分自身』


  俺はそう思って日々生きてます。



  ね?そう考えたら普通「絶対に負けたくない」でしょ?

MFJ~2008年5月『バカばかりの世の中になればいい』~

2009-06-18 | Weblog

今日はものすごくそれこそ「自己中」で勝手な見解で。大いに「自分に溺れた感覚」で。思ったことをそのまんま書いてみようと思う。


 最近ものすごく思うのは。



 「なんで世の中こんなに馬鹿ばかりなのだろう?」ということ。


 例を挙げたらキリがない。とにもかくにも。なぜもっと「うまくやれないのか?」そういう風に感じる奴が年齢性別問わずに多すぎる気がする。


 一例を挙げるなら。こんな話。


 先日とあるスーパーでちょっとした買い物をして車に戻ると。となりで若いね~ちゃんとババアが何か口論をしている。


 聞き耳を立ててみると。どうやらババアが若いコの車をこすったらしい。しかしババアに全く反省の色がなく。終いには。


 「あんたの止め方が悪い」とすごんでいる。ね~ちゃんはね~ちゃんでよもや「車をこすられたこと」など二の次。要はババアに「非があること」を認めさせるためにヒートアップしている。


 大切な愛車が傷つくのは確かに誰だって嫌だ。それは当然だけれど。こすった方もこすられた方も。もう少し理知的な「考え方」というものはできないのだろか?

 「保険の路線」から話してみるとか。あるいは大概そういう理不尽なキレ方をする奴は「保険に入っていない」のが主だから。


 「もしかして保険に入っていないんですか?だったらだったでこちらも多少は譲歩しますから」とか。もっと簡単なのは警察を呼ぶとか。


 スーパーのレジでもそう。


 ほうれん草一つ持ったばあちゃんが。籠をいっぱいにした主婦たちの後ろに並んでいる。「誰が一番早いか」ではなく「どうするのが一番効率的か?」という考え方が出来ない奴ら。


 最近の世の中というのは。

 自分の知識や学のなさを棚に上げてやたらと「負けることだけを嫌う」奴が多い。

 「知らない」「わからない」それだけならただの逃げ文句。そのあとにとにかく「教えてください」と「すいません」が全く言えない。


 「本当の負けるという意味」を知らないから。


 馬鹿でアホな奴らはただただ「人に屈する」ということを以上に嫌う。「自分は学習能力はないですよ」と自分で言ってるのと一緒で。


 かつて書いたこともあるが。沢尻エリカのような「態度や口調が通るもんだと思ってる」アホなね~ちゃんと一緒だ。


 俺は人間という生き物は常に「裏づけ」で形成されてる物だと思っている。


 つまり裏を返せば。どんな態度や言動をとっても構いやしない。ただそれに見合うだけの「裏づけ」があるか否か。


 ただ生意気でただ強がりな奴は後を絶たない。


 しかし本当にそうできる奴ってのはやはりそれに見合う「何か」を持っている。そしてそれはいかんともしがたく「結果」であるのは「資本主義」である以上必然だ。


 仕事もろくにしてない奴がフリーターを憂いたりしても逆にそいつが馬鹿にされるのと似ている。


 「自分の立場」や「自分の能力」。判断力。決断力。行動力。そういうものがちゃんと「伴っていて」初めて人は「それに見合う行動や言動がとれるもの」だと思っている。


 何を思うのか最近の輩は「根拠のない上から目線」がやたら多い。俺は直接そういう奴の被害にあったことはないが。話を聞いていると本当にひどい。


 例えば「夢をもっている青年」。それは素晴らしい。そして続けるべきだ。しかしよく見かけるのが「夢を持ってることが裏づけ」だと思ってる奴。


 成り上がりの矢沢栄吉じゃあるまいし。


 夢を叶えてから「上から目線」ならわかるが「夢を持ってることが大義名分」という輩は多い。そういう奴は絶対に成功しない。


 どんな夢だろうが「叶えるためには学習が必要」だ。しかしそういう「勘違いした輩」には誰も何も「教えないし」また「教わろうともしない」。だから成功しない。


 そういう奴は大概「俺が認めた人間にしか何も教わらない」というが。そいつが認めてもこっちが「認めてない」となるのが関の山だ。


 最低限の常識(いただきます。ごちそうさまレベル)。礼節。そういったものをわきまえた上でそうなるのは構わないと思う。しかしそれを誤解してる輩は非常に多い。


 俺にもかつて経験がある。のぼせて有頂天になり「自分が一番正しい」。そう思い込んでしまったがゆえに結果「自分が一番正しくないことに気付けない」ということがあった。


 若かったからまだ救いようがあったが。俺ぐらいの歳になってもそれを続けてしまってる奴は多い。


    今日は俺の持論で文を締めよう。


 「本当の馬鹿は絶対にバカになれない。そして本物のバカは絶対に馬鹿ではない」


 この言葉の意味が解るなら。その人は十分「馬鹿ではない」と言えるだろう。

MFJ~2008年5月『きむらまことが語る「きむまこと自己中」』~

2009-06-17 | Weblog

 ジュン君が『イメージ』について書いてくれましたね。ありがたいことです。


 ただひとつだけ補足させてもらうとしたら。別段そんな「深刻ではないです」(笑)


 まあなんつうんでしょうね。「イメージの一人歩き」というのはちょっと大げさですよね。ただ謙遜も入っちゃうけど「そんな皆さんが思ってるほどではないです」ということですよね。


 それとね。最近・・・でもないな。前からですけど。この自己中ってのは確かに「話の展開」ってのも難しいトコあるかもしれないけど。一番そう見えるのって多分ですけど「難しい単語」を使ってる時が多いからだと思うんですよ。


 まあそれとまあメールなんかを頂く時にもね。「このメールを送信するのに1週間かかりました」とか(笑)「憧れのきむまこさんとメールが出来て幸せです」とか(汗)


 例えばこれがね。芸能人みたいに日に何万ヒットも集めるようなブログの管理人ならわかりますけどね。たかだか一日1000なんぼがいいとこでしょう?


 だから思うときありますよ。


 すごいとか。憧れとか尊敬とか。そういう念を持ってくれる人がありがたくも沢山いる反面。「は?なんで?」って思ってる人も沢山いると思います。もちろんそういう人は見ないだろうしね。俺は別にそういう人を「俺のすごさに気づかないのか?」と思ってるわけでもないしね(笑)


 ただ基本的に「自分に自信を持つことは決して悪いことじゃないんだよ」ということを唄っているところは多分にありますからね。

 そういう俺の「部分」を。図らずも「いい方」に取ってくれてる人が多いわけでね。それは再三言うようにいつも感謝してるし。


 だから実際俺とコンタクトを取ってくれた人たちは少しは気づいてくれたかもしれないけど。俺って男はそんなに「敷居は高くないです」よ。実際(笑)


 別に調子に乗ってるわけでもないし。見下してるわけでもないし。みんなと仲良くやりたいって思う気持ちなんかはもしかしたら人一倍強いかもしれない。

 基本的に「ブログ」も「リアル」も俺の場合そんなに「垣根」がないですから。



 「会ったことがないからこそいつの日か会うシーンを想定してる自分」も確実にいますしね。


 そういった意味では。逆にこのブログっちゅうもんは非常に便利だと思ってるし。確実に「距離を縮めますから」ね。



 俺が言わな過ぎるのかもしれないけど。俺なんかよりぜんぜんすごいと思う人たっくさんいるし。


 まあ初めてコンタクトとるためにね。メールなんかで「あなたのことすごいと思ってるんですよ~」って入り方はまあ子供じゃないからね。普通っちゃ普通なのかもしれないけどさ。


 にしても「持ち上げすぎ 笑」って思う時もそれなりにあったり。続いたり。



 まあこれだけ勝手にそれこそ「自己中」に書き続けてきたものだから。自分で言っておいてなんだけど「自己中ワールド」みたいなの出来上がっちゃってるのも納得はしてますけど(笑)


 正直俺なんかは「おまえ嫌い」って言われても俺もその人の事嫌いになるとは限らないですからね。その「はっきり嫌いといえる姿勢」が好きだったりしますから(笑)


 ホント。しつこいようだけど。俺は「自分が先に剥き出しに露出してる」だけであって。そこに興味や共感を持ってくれた人が。それこそ自分のブログやメールを通して「その人の価値観や思想」を俺に見せてくれるのが嬉しいのであってね。


 それは永遠のテーマだし。何より「自分の向上」にめっちゃ繋がるしね。


 昨日作った「リンク集」なんかもそうですよ。これからどんどん増えることを望むし。



 俺はいかんせんそういうのは「不器用」だから(笑)ボスみたいに「上手にファンとか応援してくれてる人を包んであげられてない」(笑)



 だから。


 俺とかこの「自己中」にどこか「敷居の高さ」を感じてるなら。



 それは間違いなく「錯覚」です(笑)


 これからも皆さんよろしくです・・・。

MFJ~2008年4月『私の営業術』~

2009-06-16 | Weblog

後輩が「今度営業にまわされたんだ。営業の上手なやり方を教えて欲しい」と連絡をよこしてきた。


 なぜか俺にはこの類の相談が多い。俺は別に「営業」で一旗上げたわけでもないし。実際俺が「営業してるとこ」見せたこともない。


 でも。いい機会だから。俺なりに学んだ事を書き連ねていきたいと思っている。

 先に言っておくが俺は「自営業の跡取り息子」であって。俺が今の職業に就いたときには親父とお袋と俺の3人で経営する「小さな店舗」だった。

 だから今から話すことが必ずしも「一般の会社の営業職の皆さん」に当てはまるとは限らない。


 まずは突然だが「嘘がうまくなくちゃいけない」


 営業というのは何パターンかがあると思ってる。「一流企業の看板で営業する人」。「まったく無名の零細企業の人」「会社は小さいがヒット商品を取り扱っている人」など様々だ。

 俺の場合「純粋に買ってくれる人」が欲しかったし。また「小売業」なので「嘘はつきやすかった」。


 じゃあ例えばどんな嘘か?


 俺は自分のうちの商品と名刺を持って行き。現在の店舗から少し離れたところに「飛び込み」で営業に行く。


 「口に入るもの」を取り扱ってるので。まずは「ごめんください」と入っていき。

 「お忙しいところ申し訳ありません。私こういうものです」と名刺を差し出す。

 ほとんどの確立でほとんどの人が「あ・・・売り込みか」と思う。そこで俺は間髪入れず「今日は売込みにではなく弊社にご協力いただきたくお邪魔いたしました」と言う。

 すると100発100中で特に事務員は「じゃあなんでしょう?」と聞いてくる。

 俺は待ってましたとばかりに「実は現在名刺にある住所で店舗を構えてるのですが」すると必ず名刺を見てもらえる。


 「そちらの場所でおかげさまで5000人のお客様に御来店いただいておりまして。そのお客様方から『お店の位置が遠い。だけどこの商品はお宅からしか買えない』というご要望の声が多いので。近々新店舗をオープンしようと考えております。そこで当店の商品を見たことも実際に味わったこともない市場のお客様方に『お試し』していただいて。そのご意見を参考に次の出店場所を決めようと思っているんです。


 私はこちらの自治体の担当の者でして。何とかこの近所にお店を出したいのです」


 と言ってやる。


 するとほとんどの人は。「あ・・そう。じゃあ味見して感想を言えばいいのね?」となる。

 第一回はそれで終わり。もちろんあの頃は「そんな計画」もなかったし。近所の各自治体を「同じ文句」で俺一人が回っていた。


 次に2回目は。「感想を聞きに行く」。営業が苦手だという人はほとんどが「売りたい。買って欲しいという理由」以外に「口実」がないからだと言われている。


 でもこの方法を取った場合。第一回目で「では機を見計らってまた感想を伺いにお邪魔いたします」と言い残していく。


 すると「きっかけと次回の口実」が同時に入手できるので次は堂々と入っていける。


 もし商品が「いい評価」を受ければ。「もし気に入って頂けたのなら。新店舗オープンまでには時間がありますので。それまではお電話にてご注文いただき配達で対応させていただきます」とやる。そこで初めてパンフレットや他の商品のサンプルの紹介となる。


 逆に「悪い評価」を受けた時には「何が嫌だったか」を聞く。純粋に「美味しくない」と言われれば「勉強し直してまいります」と。次回「違う商品サンプル」を持って行き最初からやり直せばいい。


 「嘘も方便」とはよく言ったもので。とにかく俺が考える「営業術」と言うのは。
「この方法が詰まったら行き先がない」という状況にしないことを第一に考えている。

 「どんなときでもあらゆる方向に逃げられる」そういう会話と方法を選んでいる。


 次に「見極め」。


 これはある程度上述したことを繰り返すとわかってくるのだが。「生きてる客」と「死んでる客」は確実に存在する。


 「死んでる客」にいくら売りこんでも「見返り」はない。仮にあったとしてもたかがしれていて。その数字は長続きしない。

 「買っていただきたい」という願望の元に希望をもつのは大切なことだが。持つ場所を間違えるといつまで経っても成長できない。


 「私が売ろうとしている商品は誰彼かまわず売るものではない」そういうプライドも大切だ。だがこのプライドを早く持ちすぎると「傲慢な営業マン」になってしまう。


 叩きに叩かれ「おおよそ数字が伴ってきた頃」にこの気持ちは持ってもらいたい。



 余談だが。主に「飛び込み営業」をしている人で。「結果を残せる人」というのは「ナンパがうまい」という説があるがこれは俺は本当だと思っている。


 見も知らぬ女性に声をかけ。その日のうちにベッドに誘い込むテクニックは非常に「営業」に似ている。仕事の「営業」は「商品」を売るが。「ナンパ」の「営業」は「自分を売る」。


 「自分を売れないやつ」に「商品は絶対に売れない」。


 学生時代や思春期に少しばかりのビジュアルのよさをいいことに「寄ってきた女だけに手をつける」そんな殺生なことをしてきた奴が営業に出ると大概は散々な目にあう。


 平気で馬鹿になれること。笑われること。そういったことに「抵抗感」を持ってるうちは「叩き上げ」で上には上れない。そういう奴は「まず自分を壊す」ことから始めなくてはならない。


 おかげさんでいい仲間に恵まれ「そういう経験」は嫌と言うほどしてきた俺には「そっちの抵抗感」は全くと言っていいほどなかった。


 それは本当にいいことだったと今でも思っている。


 若い頃「女のケツを必死で追いかける」という時間と作業と。そこで学んだ知識と経験は必ず生きてくる。ゆえにおおいに若いうちは「バカをやるべき」だと俺は思っている。



 最後に。「簡単にお客様になってくれた人には気をつけろ」


 言葉が悪いが「すぐにヤラセてくれる女」を思い浮かべればわかるだろう?「やりまん」を「自分の女」と思い「本気で愛してしまう」と「傷つくのは自分」だ。


 「すぐにお客様になってくれた人は他の業者に対してもそうである」ということ。


 「ものにしたから」と言って手を抜かず。新企画や新新商品の提案は抜かりなく続けるべきだと考えている。


 よく「釣った魚に餌をやらないような彼氏だった」と元彼女が憤慨してるシーンがあるが。あれと似ている。


 「簡単に連れた魚ほど大切にする」


 これは「営業」も「恋愛」も一緒だと思う。


 俺の場合は「大いに遊んだ自分の過去」を正当化したくて。それらの経験を「営業」に持ち込んだ所が多分にある。


 あくまで「飛び込み」の場合だが俺は9対1で「失敗」するもんだと思っていてちょうどいいと思っている。だからいちいちへこたれない「精神的タフさ」も必要だ。


 「駄目でもともと」その気持ちと「反省の気持ち」があれば。どんなシーンでも仕事で突破口が見えてくる。


 「人に『自分が』否定されてる」と思わないこと。


 自分自身にしっかりと「自信を持つこと」から始めるのがまずは最優先事項ではないかと思っている。


 「自信を持つためにはどうすればいいのか?」


 多くの人から学び。多くの人から否定され。多くの事柄を体験していく。


 つまり「売れない営業」を繰り返すことによって。最初はそれが「傷」になっても。やがて瘡蓋になり。それが剥がれその部分は「強く」なっていく。


 これでもかというほど。「自分をいじめる」。


 その連鎖がやがて「強靭な精神」を作り出し。やがて幾多の「逃げ道と突破口」を「作り出す源」となる。


 一石一朝で「ヒーローになった営業マン」など存在しない。皆「心に傷を持ちながら」それらを「経験と知識」に置き換え。やがて「結果」に繋げている。


 「負けることの重要さ」を覚えて初めて「勝ちにいける」そう俺は思っている。

MFJ~2008年4月『愛されて欲しいからこそ』~

2009-06-15 | Weblog
うちの近所のセブンイレブンでのとある夜の出来事。


 夜も9時過ぎだというのに。上の娘がどおうもへそを曲げてしまったので。そのコンビニでジュースを買ってやるからいい子にしてろ。という約束の下娘と一緒にコンビニに行った。


 ついでに明日の朝食べるからということで食パンを頼まれ。


 店の自動ドアを入っていった。


 娘は大はしゃぎ。お決まりのようにパックジュースの陳列ケースの前に一目散に走り出す。「桃ジュースがいい!」というのもお決まり。まあそれらしいもんを調達してレジへ。


 すると店員はそこのオーナーの奥さんらしき方。娘を見て。


 「あら~~。かわいいお子さんですね。」と言葉をかけてくれた。

 「いや。毎日うるさくてしゃ~ないですよ」と愛想笑いの俺。


 するとシーズン企画なのか。奥さんは「母の日にママの似顔絵」という用紙と一緒に。「これあげるからよかったらおね~ちゃん書いてね」と板チョコを一枚差し出してくれた。


 俺は「ああ。申し訳ありません。頂戴します」と言ったが娘は黙って下を向いてチョコだけ受け取っている。

 「あら?照れ屋さんね~」と奥さんは笑ってくれた。何度か「挨拶せい」とすごんだが。娘は何の反応もない。


 「すいません。じゃあ近日中にお持ちします」と言って。俺は娘をひきずり車に戻った。奥さんが仕事中というのと後ろに別のお客さんがいたので一旦退却したが。もちろん俺はこのまま家に帰るつもりなどない。


 車に戻った途端。まもなく3歳になる娘は「チョコ~」と騒いでる。


 「ふざけんな。おまえにはやらん」と俺が言うと。「なんでよ~?」とにやついている。


 「ありがとうも言えないようなやつにチョコ食う権利はない!」そういって俺は窓の外を見ていた。


 「今からもう一回おばちゃんのとこに言って『ありがとう』を言おう。ちゃんと言えたらチョコをやる。でも言えなかったらビンタだぞ」


 娘は「はい!」と元気よく答える。どちらに似たのかうちの上の子は「内弁慶」で。
とにかく俺やかみさん。じいやばあの前ではすこぶる調子がいい。(調子がいいのは俺譲りだろう・・・)

 しかしいかんせん「赤の他人」となると。あっというまに無口になり。とにかく「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えなくなる。


 正直2歳までは俺も目をつぶった。俺が変わりに礼を言ったり誤ったりした。しかし俺は「3歳というライン」にひとつの定義を持っていた。


 それは言うまでもなく「しつけ」だ。


 朝昼晩といただきます、ごちそうさま。それとありがとうとごめんなさい。


 お子さんのいる方ならわかるだろうが。3歳の子というのは「大人が思ってる以上」に「何かと理解している」。


 だから俺は今回の一件を機に「今までとは違うスタイル」を取った。


 奥さんお前に娘を連れて行き「ほれ!言え!」すると娘は黙ってる。奥さんは商品ケースにジュースの入れ替えをしていた。しかし娘は黙ってる。

 「俺は言わないとぶつぞ!」すごんだが黙ってる。

 間髪いれず俺のビンタがとぶ。娘は緊張と恐怖で完全にぶるってる。奥さんは奥さんで「もういいんですよパパさん」と微笑む。「すいません。もう少し待ってください。今言わせますから」

 奥さんはきっと「俺の教育方針」を理解してくれたのだろう。笑って娘に「言ってみようか」と言ってくれる。


 しかし娘はまだ言わない。俺のビンタが3発入ったところで。娘は「おばちゃんありがとう」と言った。奥さんは「よく言えたね~」と笑ってくれた。


 「すいません。お忙しいところにお手間を取らせてしまって・・・」と俺が謝ると。「いいんですよ。パパもパパで偉いですよ。たいしたもんです」と娘と俺にジュースをくれた。


 今度は娘もすぐに「ありがとう」と言い。俺はそんな娘を久しぶりに抱っこして車まで連れて行ってやった。


 店内では結構なでかい声を出してしまい。トラックの運ちゃんや「何かを間違えてるババア」は俺を俺たち親子を「いぶかしげな目」で見ていた。


 もしあのワンシーンで「虐待ですよ」と一言そのババアあたりに言われたとしても。俺はやめなかっただろう。


 「これをすると死ぬよ」ということと。「これができないと社会の人に迷惑がかかる」とういうことは「時期」に「絶対にできるようにさせる」。できないなら「痛みと一緒に体に刻み込ませる」。


 車道への飛び出しや店内から外に出るときなど。「子供の危険」というものは「大人にとっての当たり前の中」に潜んでいる。


 「取り返しつかないこと」だからこそ「多少乱暴」でも「絶対に言うことを聞かせる」。


 それが「虐待」だというなら俺はきっと「虐待をする親」だ。だがしかし俺は絶対に曲げない。


 「やらせない」のと「できない」のはまったく違く。そして双方とも幼少期は「親の責任」と俺は考えている。


 「時期に徹底的に教え込む」。


 これは俺の独断と偏見と指導者としての経験だが。「女の子にほうが一般的に見て早熟」だと思っている。


 楽しい学生生活。部活や恋愛。そういうものの「渦中」にいるときでは「もう遅い」そう思っている。


 スポーツやるにも。自分が好きになった人と楽しい時間を過ごすにも。「人間としての基本」があってこそであり。またそれがあれば、失礼な言い方かもしれないが女性は男性よりも「人に愛される」。俺はそう思っている。


 俺はゆくゆく「あの頃はクソ親父にひっぱたかれたからよ~」と悪態をつかれても絶対に手は上げない。そのタイミングで手を上げるほうが絶対に「虐待」だ。


 それはなぜか?


 「言われてカッきて殴ってるから」だと思う。


 しかし今現在の俺の「ビンタ」はいわば「基礎作り」。痛みと共にでもいい。嫌な気持ちと共にでもいい。


 「そうしなくちゃいけない」そう思わせることが「大切」なのだ。



 俺は娘がやさぐれようが勝手やろうが。「時期がきたら」ピタッと何も言わなくなる。

 「自分の意思」を持ってしまった特に「女性」は止まらない。そう思っている。


 だからこそ。恨みでも嫌味でも。幼少の「俺のビンタ」を覚えておいてほしい。そう願ってる。そして「その親の愛」は長い時間を経て。


 やがて「愛する男性の胸に飛び込んでいく頃」やっと伝わるものだと思っている。


 月並みだが。


 「愛してやまないからこそ。多くの人に愛されてほしい」


 娘を持つ親父なんてそんなもんだと思ってる。


 俺は先々の「娘の彼氏の面」を思い浮かべてはムカついてみたり。心配してみたりするより。


 「娘が愛した人に粗末にされないような女性」にするほうを選ぶ。


 自分の恋愛を思い出せば簡単だ。


 自分が心から愛した人が「幸せだ」と微笑む姿を見て。誰が「畜生」と思うだろうか?

 ヤキモチがてらにそう思うような「想い」も確かに俺にもあった。がしかし。

 それじゃ駄目だとやがて理解し。


 「人の幸せを喜べるからこそ自分も幸せになれる」


 そう気づける日をほとんどの人が迎えたはずだ。



 俺からしたらそれは「娘」も一緒なのだ。


 「愛する娘に幸せになってほしい」そう願うからこそ。「人に愛されるためには何が必要なのか?」をまずは「俺自身」に問いながら。己の経験と知識を駆使し。そしてその「基本となるもの」だけは「責任」として伝えていく。


 各々の家庭で各々の「教育方針」があるだろう。こういう時代だからこその悩みにぶつかっているお父さんやお母さんたちも多いだろう。

 でも俺はまだ「親としてそのシーズン」は迎えてないけど。


 「本当に人として大切なことってなんだろうな?」そう自分に。時には娘自身に問いながら。ゆっくりと進んでいきたいと思っている。

MFJ~2008年4月『自覚と責任。そして己の器量』~

2009-06-14 | Weblog

ここ数年。

 「塾に通わせるので退団します」という子供が増えている。

 俺が指導している少年サッカー団の話だ。


 現在コーチングスタッフは俺を含めて5人。


 俺が一番若く。一番上の総帥は60歳目前だ。


 親もその人には恐縮して物も言えないし。またその人も現在の父兄をあまり信用していない。指導方針の違いや思想の違いも当然あるからしょうがないが。それでもコーチ間はコーチ間なりにうまくやってきたつもりだ。


 まあ各々色んな地域で学校や子供を絡めた部分では様々な「親がいる」。


 俺は「子供に学歴をつけさせようとする」事自体には反対はしないし。むしろ学力はなよりはあったほうがいいとも思っている。勉強は大切だがもっと大切なのは「勉強もちゃんとしないと」という姿勢だと思っている。


 しかし最近みかける親たちの話を聞いていると。



 どこか。

 「自分の無努力した部分」や「自分の叶えられなかったこと」を子供にそのままスライドしてるように見える。

 熱心なのと管理するというのは全く違う。


 「向かわせてやる」のは親として大切なことだとは思うが「向かう方向を決め付ける」のはかえって子供の「自主性」を失う。

 更には指導者や教師に対する「謙遜する心」があまりにも欠け過ぎている。


 もちろん指導者・学校側にも大きな責任はあるだろう。


 昔は「志ある人」が「安月給にも関わらず」その道を選んだ。だから情熱や信念があった。

 しかし今は「己の人生を間違いないものにするため」にその道に進む人が多い。だから教師も「事なかれ主義」。自分が「出る杭」になって打たれたことがないから。


         「打たれることを異常に怖れる」


 だから行動も言動も人任せになる。そこに付け込んでくるのが「謙遜する姿勢」などとは無縁な「馬鹿な親たち」。


 要はいまや。教育も人間関係も。その「現場の問題ではなく」。人それぞれの「人間性」がそのまま反映してしまう場所に成り代わってしまった。


 本音など存在するわけがない。あるとしたら「誹謗中傷」あるいは「文句や小言」。悪いことばかりの「本音」が飛び交い。「真実を追究するための本音」が出てくることはない。


 そんな現場だからこそ。「我が子は親である自分が守る」。そっちに行ってしまうのもわからなくもない。


 しかし。それが犬や猫ならわかる。


 子供というのは「感情があり言葉がしゃべれる人間」なのだ。


 それを知っていて「親」というのは「我が子可愛さ」のあまりそういう「本当に大切なこと」が見えなくなってしまうケースが多い。


 そもそも「自分の言うことを聞いてればいいのだ」と子供に誇れる親たちが今日びどれくらいいるだろうか?

 俺の周りの父兄には数えるほどしかいない。


 それだけ語るのだからどれだけたいそうなものかと見てみれば。そういう親の子供に限って挨拶の一つも出来やしない。


 だから俺は今の世の中「よからぬ勘違い」と「救いようのない馬鹿な親」が多いと言ってるのだ。


 子供というのは「自分の分身」ではない。「その子の人生」なのだ。その後押しと責任を背負うのが親の役目なのだ。


 かつて落合宣彦氏がこう言っていた。


 「もし俺の子供が今日ニュースで流れてるような殺人事件を起こしたら。俺が自分の子供を殺し。そして自分も死ぬ。親というのはそれだけの責任と自覚が必要なのだ」と。


 果たして。こういう「志」を持って「親でい続けてる人間」が。今世の中にどれだけいるだろうか?


 仮にも「うちの子供はそんなことはない」とか「うちの子供は絶対に自分の言うことは聞く」と思ってるとしたら。抜粋ばかりで悪いが「村上 龍氏」のこの言葉を贈りたい。



     『誰が一番か。誰が権力者か。犬と子供はすぐに見抜く』


 己の薄汚れた勘違いと傲慢な心と面を。合わせ鏡でもして見直してみる必要がある「親という名の馬鹿者」は想像している以上に多い。

MFJ~2008年4月『命の重さの順番』~

2009-06-13 | Weblog

例えば。

 今にも死んでしまいそうな「身内」と。

 今にも死んでしまいそうな長らく「飼っていた犬」と。


 「どちらか一方だけ助けられる」という状況になった時に。


         「飼っていた犬」


 を選んだとしたら。その人はきっと残虐非道と言われるだろうし。頭がおかしいと言われるだろう。


 世の中は当然のように「ペットを大切にしよう」と叫び続けている。しかし。そこには多くの。えげつない矛盾が繰り返されている。


 例えば。あの満面の笑顔のペットショップ店員。

 「犬や猫だって人間と同じ命を持っています。だから大切にしてください」と。



          犬や猫を高値で売っている。


 買って行って飼う(その響きもどうかと思うが・・・)人たちはそりゃ大切にするだろう。「金払ってるんだから」。「ペットは癒しです。安らぎです」。俺から言わせればそこらの野良犬を拾って飼う以外はそんなものは「サウナに行ったり。漫画喫茶に言ったりするのと一緒」であって。

      「金を払って癒されてる以外のなにものでもない」


 はっきり言おう。


       「人間とペットたちとの命の重みは全く違う」


 先述のペットショップにしてもそう。この前テレビを見ていたら。とあるアイドルが番組冒頭で友達と焼肉を食べに行ったと笑って話していた。

 その番組のワンコーナーで「小さな動物を紹介する」みたいなことをやっていた。その日は「生まれたばかりの小さな子豚3匹」を紹介していた。

 確かに愛らしい。可愛い。

 しかしそのアイドルも「可愛い!!」と叫んでいた。


 大切なのは。「可愛い」と思ったその「子豚ちゃん」を貴方は先日食してるということを忘れないでくださいということであって。

 もっと現実を見るべきだと思う。


 人と犬が車にはねられたとき。自分だったらどう思うか?その事故が原因で死んでしまったらどう思うか?

 人をひき殺してしまったら。まがい也にも「故意にではなく」ても「刑期」が与えられるが犬をひき殺してしまったとしても「故意」じゃなければ「罪には問われない」。


 自分の「愛する人」が死んでしまって。ショックで長年立ち直れない人は。人によっては「その愛の深さに感動」し「よほどの心の傷」を背負ったのだろうと同情する。

 自分の「愛犬」が死んでしまって。ショックで長年立ち直れなかったとしたら。人は恐らく言わないだけで「その愛の深さ」を偏見し「よほどの傷を脳みそに負ってるのだろう」と心中侮辱するだろう。



  命が大切だということに間違いはない。「飼う」以上責任が発生するのも間違いない。それは正論だ。

 しかし「命の重み」には順番がある。何はなくとも「人間が一番」だ。そういうシステムに「世の中」はなっている。

 それはなぜか?


 「人」ってのは「生産できる生物」だからだと俺は思う。つまり「人が人でい続けるため」にはいかんともしがたく「人の力」が必要だということ。

 極端な話「犬や猫」がいなくても「人は生きていける」。しかし「人がいなくて」は「人は生きていけない」。


 重ねて言うが俺は「人以外の命を軽視しろ」と言ってるのではない。

 「順番と現実」を尊重しろと言ってるだけだ。


  人もその他の生物も。「寿命と運命」を背負って生きている。犬は20年生きたらきっとものすごい長生きの域に入るだろう。つまり人なら80~100歳まで生きたと思えばいい。

 ほとんどの人は「ペットの忠誠心」に心打たれるのだと思う。ハチ公もそうだ。

 でも「犬なのに人間のような忠誠心」というその姿に「心打たれてる」というのが俺から言わせればおかしい。

 曲芸と一緒で。すでにもう「○○なのに」という見方がおかしい。そのくせ。


          「人も○○も一緒です」

 というのは。ワンマン社長が「社員と同じ気持ちです」と言ってるのと一緒であって「現実に矛盾」がありすぎる。


 だから何かを変えるべきだ!と言ってるのではない。ただそういう「本当のこと」にもっと目を向けて「語るべきじゃないか」と思ってるだけだ。

追記。『犯人はNTT』。

2009-06-12 | Weblog


タツヒロから『ご苦労様』というメールをいただきとりあえずこれで『人様の便器でするうんこ』も一段落。



かと思いきや。


『引越しは無事終了したがNTTの不手際で開通は来週以降になりそうだ』とのこと。


更には『うんこはしばらく放置します』と付け加えられていた。



『うんこを放置しておく』てすごい嫌だな・・・・とか思ったので。



だって『うんこを放置されてしまう』んですよ・・・。





なのでせっかくあと一週間ほどここは空く訳だから。


もったいないので


『CGI』の皆が結構必死こいて頑張ってる『バックアップ』じゃないが。



俺個人が気に入ってるというか『残しておきたい』と思った『裏裏』の文章をここに写し残しておこうと思います。



倉庫代わりといっちゃ~なんだが。



どうせ使わないなら『うんこだらけの便器』なんだから(笑)


というわけで。



『MFJ』(まい ふぇいばりっと じこちゅー)再開です。

『終わりは始まり』というがもう『始まりよう』がないくらい今まで終らせてきた。

2009-06-11 | Weblog
はい。どうも!こんにちは。木村です。

さていよいよ最終日ですな。2~3日あけてしまいましたね。書こうと思っていたのだけれどなんやかんやと忙しくてね。ついつい遠のいてしまいました。

ほんっとなんでしょうね。もう実質2週間ですもんね。長いよな~(笑)


今となっては自分で自分が不思議っていうか。あの『裏裏』まあ『表』もそうですけどね。いや~俺よく書いていたな~って(笑)


んでもってまあ皆さんよく読んでくれていたなって。ホントすごいですよ。

ここでこうして代筆してもね。結構見に来てくれるんですよ。すごいですよね。

『きむまこファン』ですよね。『自己中ファン』ですよね~・・・。すごいな~・・。


今更ですけど何が一番多いのかな?『共感』かな?でもあのトーンに『共感』って正直結構難しいんじゃないかな?(笑)なんて思ってしまいますよね。

『怖いもの見たさ』でもないか(笑)

まあ色々な思いや考えが絡んで見てくれてるのでしょうからね。ありがたい事です。


さて。こうして最終日と言った所で別に何も変わらないんですけどね。俺とあいつが金輪際会わないとか。そういうわけでもないし(笑)

ファンと言ってくれている方々との交流がなくなるわけでもないし。


ただなんでしょうね~・・・。。

こうして『木村誠』としてここで『代筆』する事はもうないでしょうね~・・・。。

それは今回やってみて一番感じた事ですね。


面倒くさいとか。だるいからとか。ましてや書く事がないとか。そういう理由では一切ないですね。


いくらでもやれるし。いくらでも書ける。もちろん話は尽きないし。それを読んでる人がどう思うかは別としてね。


ただこうしてみて思うのは。どうしたってあいつ自身と向き合って酒でも飲みながら話をする事って今となってはもう皆無に近いんですよね。

会うならお互い家族があるし。

話も何かと日常的なことになってくる。

まあ言ってみれば普通のおっさんですよ。パパというか。


あいつなんかはそれに。そこに結構『幸せ』っていうか『これでよかったんだ』みたいなほんわかした空気持てるほうだけど。

そこは。そこだけは俺は違うからね(笑)


いまだに言うしね。あいつに。『眠たい事いってんじゃね~ぞ』とかね(笑)


まああいつは今地元から車で約一時間離れた所に住んでるのだけど。中学時代の仲間と集まってフットサルなんかたまにやるわけ。


もう個性派集団だから。うちは(笑)

キャプテンやってくれてる『けんちゃん』ってのは気持ちはものすごく熱いんだけどどうしたって言い過ぎちゃうやりすぎちゃうとこがある人で。

んであいつなんかは『気持ち』はあってもそれを『表に出さない』タイプだから。こうなんとも言えない空気になっちゃうわけ。

あいつもどっちかっていうと『ノリで合わせる事が出来ないタイプ』だから。


一人でぶすっとしてつまらなそうにしてるように見えたりするわけよ。


俺はけんちゃんの気持ちもやりたい事もわかる。でもタツヒロの気持ちもわかる。


『間』になっちゃうんですよ。


でも俺はそういう時には必ずタツヒロの方に比較的きつく当たるんだよね。

『おまえが変われよ』みたいな感じで。


タツヒロも『はいよ』って男じゃないから。あ~でもないこ~でもないはじまるけどさ。

それがあいつの悪い所でもありまた場合によってはいい所でもあるんだけどね。


こう『壁』を作っちゃうんだよな。どうしたって。


それはなんとなくわかるんだよ。『和』とか『チームワーク』とか。すごく尊重できる男だから。


でも『波風を立てない』のと『和を乱す』ってのは似てるようで違う。

そこをはきちがえてる人結構今多いでしょう?

『何かをよくするため』に言いにくい事やきつい事をはっきり口に出すのはそれは『乱してる』のではなく『治療』してるのであって。


そのうえでその『言い分』が違うと思うならそれはそれではっきりと『それは違う』って言えばいいんだよね。


子供じゃないんだから。そこから喧嘩になるとかそういうもんじゃないと思うんだよ。


皆大人で。普通に生きてりゃ人それぞれの『価値観』とか『考え』みたいなもんが30も越えれば持っている。

それをぶつけ合うってのは『仲間だからこそ出来る特権』であって。そこを『避けるような関係』だとしたら。それはきっと『偽者』だしね。


俺はそういう考えなんだよ。


それを踏まえていくとね。

この『代筆』ってのは。『ここ』を通してあいつに『伝えたい事』を伝えるようになってしまうんだよね。どうしたってさ。やっぱ昔みたいに、おいちょっと出ようぜなんてノリで行き会える距離じゃないからね。


わからないよ。もしかしたら今となったらあいつは俺とはこうして『通信機器』でも介していた方が何かと楽なのかもしれないし。


もしそうだったとしてもあいつが俺を『面倒くさい』と思ってる事は100%ないしね。


きっとね。あいつはなんやかんやで『プライドが高い』のかもしれないですよね。


そういった視点から見たらその『プライド』を維持できない所まで俺には知られてしまっているし見られてしまっているから。

だからなんだろう。もう俺とは歴史も人間性も思い出も。全てが絡んで『フェア』だから。


何回も書いてきたけど。あいつは俺にとっては『親友』とか『兄弟』とかそういう『カテゴリー』じゃないんだよね。もう『タツヒロ』っていう『肩書き』だから。


だから俺にとっての『タツヒロ』は『タツヒロ』にしか務まらないし。



あいつが今更俺をどう思ってるのかな?とか。どう見てるのかな?とか。そういうは考えた事もないしね。


まあ俺結婚式の友人代表もやってくれたし。そういう事になるでしょうね。うん。


死に水もとるんじないですかね(笑)わからないけど。


俺たちはずっと変わらないぜとか。そういうのもないですしね。


言ってみれば変わりようがないというか(笑)


酒でもお茶でも珈琲でも。しゃべってしゃべって乾いた喉を潤してくれる何かがあれば。


あとは何もいりませんしね。


他の人たちがよく言う若いコらがよく言うそれとは全く違う意味で。


『俺らが楽しけりゃそれでいい』って事ですから。



タツヒロ。今日でもう終りだから。もう書かないですよ~。


じゃ。また今度。『だいちゃんのね~ちゃんの話』で盛り上がりましょう。




嫁さんに『8』。それに実のかあちゃんに兄貴。嫁さんの家族たちと。不器用なりに皆を大切にするんだぞ。