うんこのけむり

要点だけ言います。ただ、テストには出ません。

MFJ~2008年4月『命の重さの順番』~

2009-06-13 | Weblog

例えば。

 今にも死んでしまいそうな「身内」と。

 今にも死んでしまいそうな長らく「飼っていた犬」と。


 「どちらか一方だけ助けられる」という状況になった時に。


         「飼っていた犬」


 を選んだとしたら。その人はきっと残虐非道と言われるだろうし。頭がおかしいと言われるだろう。


 世の中は当然のように「ペットを大切にしよう」と叫び続けている。しかし。そこには多くの。えげつない矛盾が繰り返されている。


 例えば。あの満面の笑顔のペットショップ店員。

 「犬や猫だって人間と同じ命を持っています。だから大切にしてください」と。



          犬や猫を高値で売っている。


 買って行って飼う(その響きもどうかと思うが・・・)人たちはそりゃ大切にするだろう。「金払ってるんだから」。「ペットは癒しです。安らぎです」。俺から言わせればそこらの野良犬を拾って飼う以外はそんなものは「サウナに行ったり。漫画喫茶に言ったりするのと一緒」であって。

      「金を払って癒されてる以外のなにものでもない」


 はっきり言おう。


       「人間とペットたちとの命の重みは全く違う」


 先述のペットショップにしてもそう。この前テレビを見ていたら。とあるアイドルが番組冒頭で友達と焼肉を食べに行ったと笑って話していた。

 その番組のワンコーナーで「小さな動物を紹介する」みたいなことをやっていた。その日は「生まれたばかりの小さな子豚3匹」を紹介していた。

 確かに愛らしい。可愛い。

 しかしそのアイドルも「可愛い!!」と叫んでいた。


 大切なのは。「可愛い」と思ったその「子豚ちゃん」を貴方は先日食してるということを忘れないでくださいということであって。

 もっと現実を見るべきだと思う。


 人と犬が車にはねられたとき。自分だったらどう思うか?その事故が原因で死んでしまったらどう思うか?

 人をひき殺してしまったら。まがい也にも「故意にではなく」ても「刑期」が与えられるが犬をひき殺してしまったとしても「故意」じゃなければ「罪には問われない」。


 自分の「愛する人」が死んでしまって。ショックで長年立ち直れない人は。人によっては「その愛の深さに感動」し「よほどの心の傷」を背負ったのだろうと同情する。

 自分の「愛犬」が死んでしまって。ショックで長年立ち直れなかったとしたら。人は恐らく言わないだけで「その愛の深さ」を偏見し「よほどの傷を脳みそに負ってるのだろう」と心中侮辱するだろう。



  命が大切だということに間違いはない。「飼う」以上責任が発生するのも間違いない。それは正論だ。

 しかし「命の重み」には順番がある。何はなくとも「人間が一番」だ。そういうシステムに「世の中」はなっている。

 それはなぜか?


 「人」ってのは「生産できる生物」だからだと俺は思う。つまり「人が人でい続けるため」にはいかんともしがたく「人の力」が必要だということ。

 極端な話「犬や猫」がいなくても「人は生きていける」。しかし「人がいなくて」は「人は生きていけない」。


 重ねて言うが俺は「人以外の命を軽視しろ」と言ってるのではない。

 「順番と現実」を尊重しろと言ってるだけだ。


  人もその他の生物も。「寿命と運命」を背負って生きている。犬は20年生きたらきっとものすごい長生きの域に入るだろう。つまり人なら80~100歳まで生きたと思えばいい。

 ほとんどの人は「ペットの忠誠心」に心打たれるのだと思う。ハチ公もそうだ。

 でも「犬なのに人間のような忠誠心」というその姿に「心打たれてる」というのが俺から言わせればおかしい。

 曲芸と一緒で。すでにもう「○○なのに」という見方がおかしい。そのくせ。


          「人も○○も一緒です」

 というのは。ワンマン社長が「社員と同じ気持ちです」と言ってるのと一緒であって「現実に矛盾」がありすぎる。


 だから何かを変えるべきだ!と言ってるのではない。ただそういう「本当のこと」にもっと目を向けて「語るべきじゃないか」と思ってるだけだ。