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「私の映画人生」

1984年 新日本出版社 山本薩夫著
 
先日「戦争と人間」1~3部を見た。気になったのは、軍隊や警察での暴力シーンが執拗で多いことだ。なぜそうなのか、監督はどのような経歴の持ち主かを知りたくてネット検索したが、情報が少ない。ますます気になって、図書館のホームページ検索し、この本に行き当たった。さいわいにも、私の疑問に答える箇所が2つ見つかった。
 
1つは、「太陽のない街」(1954)のモスクワでの試写会で、一人のソ連女性が言ったことだ。「加代がお産で死ぬときに、洗面器に血が広がるシーンは嗜虐的だし、喧嘩するシーンは残虐だ。ソ連ではああいう描写はしない。あれはモンタージュで逃げるべきである」山本は「日本の映画では、アメリカもそうだが、格闘したり、ピストルを撃ったり、血を流したりするシーンがものすごく受けている。本当は私もきらいだが、喧嘩したり血を流したりするシーンは、ある程度リアルに撮らないと、日本の観客はなかなか見てくれないのだ』と答弁したが、理解できないようだった。」 まさに私の感じたことを、彼女が代弁してくれた。
 
もう一つは「真空地帯」(1952)で彼自身が語っていることである。
 「原作を読んだとき、これこそ私が映画化しなければならない作品だと思った。読みながら、私自身の経験がそこに重なっていくのである。内務班の初年兵教育でいやというほど思い知らされたみじめな体験が、憎悪となって再び心の底から煮えたぎってくるような思いであった。映画化が決定した時自分自身の受けた屈辱の恨みを晴らしたいという執念が、ファイトとして燃え上がって行ったのを私は今でも覚えている。・・・ 俳優たちには悪かったが、私は殴るシーンは芝居では駄目だということにした。殴るまねではすぐばれてしまう。『皆さん、痛いけれど我慢してくれ』と言って、本当に殴ってもらった。軍隊だから殴るシーンはたくさんある。それも本番だけではない。テストで殴り、NGが出ればまた殴る。殴る方も殴られるほうも、よくがまんしてくれたと思う。私は自分の自伝を撮っているような感じをいだきながら夢中になっていたのである。」
 
「日本人の男優が一番うまさを発揮するのは兵隊役、女優がうまさを発揮するのは娼婦役だとよく言われる」とある。兵隊役や娼婦役が日本人はいちばん得意、と聞くと言い知れぬ悲しさを感じるのは私だけだろうか。
 
さて元に戻って生立ちを見ると、かれは石川出身の両親のもと、姉3人兄2人のあとに、公務員の父の任地・鹿児島で1910年生まれ、2歳から15歳までは四国の松山だったが、末っ子の甘えん坊で10歳まで母親と一緒に寝ていた。松山中を経て、第一早稲田高等学院から早稲田大に入りそこで「軍事教練反対スト」を打ち、検束され、退学になる。父親も札幌農学校でストをしたそうで反権力は親譲り。ただし、彼の経歴を見る限り、けっこう柔軟に対応する能力があるようだ。
 
 松竹に入社後、成瀬巳喜男についたが、のちに成瀬と共にP・C・Lに移り、監督としてはじめに撮ったのが吉屋信子の「お嬢さん」「家庭日記」「母の曲」、戦時中は「熱風」「翼の凱歌」という国策映画も撮っている。戦後は戦争を拒否した唯一の党として日本共産党に入党し、東宝争議で首になってかき氷屋をやったり、独立プロを立ち上げたりしながら、観客動員数が多いのを買われて映画会社にも用いられている。「武器なき闘い」(山本宣治の伝記)「金環触」「松川事件」「忍びの者」「傷だらけの山河」「氷点」「ドレイ工場」「ベトナム」「華麗なる一族」「皇帝のいない八月」などは有名だが、受賞作としては「荷車の歌」「人間の壁」「にっぽん泥棒物語」「白い巨塔」「戦争と人間 第1部」「不毛地帯」「ああ野麦峠」がある。「太陽のない街」は、1954年チェコのカルロビバリ映画祭に行ったものの、フィルムが届かないうちに映画祭が終わり、折角来たのだからと?監督賞をくれたそうである。
 
この本の出版を待たず、彼は1983年8月11日、73歳の若さですい臓がんで亡くなった。奥さんのよ志江さんが原稿を整理、編集して出版にこぎつけた。
 
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