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猿橋勝子と吉岡弥生

猿橋勝子(地球化学者 1920‐2007)の自伝に出てくるエピソードである

彼女は1941年、21歳の時、医者を目指して女子医専の入試を受けたが、口頭試問で吉岡弥生校長が言った。

「本学を受けたのは何故ですか?」「一生懸命勉強して、先生のような立派な女医になりたいのです」
と言うと、カラカラと笑われ
「あなた、何を考えているんですか、私のようになんて、いくら頑張っても無理ですよ」
と答えたそうだ。憧れていた女史の言動に心を傷つけられ、合格通知が来たが、入学を辞退したという。

その結果、今見る猿橋勝子が誕生したのだから、結果としては良かったと思う。

これだけ聞くと、いかにも吉岡弥生がいやな女のようであり、私もそれ以来ずっと女子医大に良いイメージを持たなかった。実際に、たまたま近所の耳鼻科女医が、女子医大卒だったが、傲慢で感じが悪かったのも、その偏見を強めるのに役立ったのである。

しかし吉岡についてはもう一つ別のエピソードがある。教師の経歴を持ち、離婚後上京した羽仁もと子が、女中として彼女の家に住みこんだが、不器用で家事が出来ず、読書ばかりしている。それを見た吉岡は、別の仕事につくようにアドバイスしてやったとのことである。お蔭で「自由学園」や「婦人之友」が生まれたわけである。吉岡弥生は人間の資質を見抜くことにたけていたと言われる。

一つには人間の相性ということがある。写真を見ると、吉岡弥生と羽仁もと子は下膨れの丸顔がどことなく似ている。猿橋勝子の細長い顔とは明らかに対照的である。つまりは現実主義と理想主義の肌合いの違いであろうか。また、「一生懸命勉強し」たからと言って、良い医者になれるとは限らない。それは必要条件ではあるが、十分条件ではないからだ。

もう一つは年齢。羽仁もと子と吉岡の出会いは、互いに20代という若さである。吉岡は医学教育から締め出された女性のために教育機関を作ろうとしていた、新婚のころである。一方、猿橋の会った吉岡は人生の苦労を通り過ぎ、功成り名遂げた70歳である。

なぜこのエピソードに惹かれるかというと、70歳に近い私も、ひとに似たようなことを言われたことがあるので、吉岡弥生の気持がわかる気がするからだ。私は彼女のように名声と地位はないが、浮世の苦労とは無縁そうにのんびり暮らしている姿がこれから世の中に出る若い人にはさも素晴らしい境地に思われたのか、「そんな風になりたい」と言われたとき、私がその人の年齢から今日までに通り過ぎた様々な経験が脳裏をよぎり、その言葉を素直に喜び感謝することが出来ず、励ましの言葉を与えるどころか、一瞬怒りの気持ちさえわいたからである。無邪気な者へのこの思いは一体何だろうか?

→「終りよければすべてよし」7-9-25
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