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ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代

 
ビアンカ・ランブラン著 阪口由美子訳
草思社 1995年刊
 
発売から25年の間に、3回手に取っている。初回はまだ東京にいたころ、発売早々に本屋で見かけ、ぱらぱらめくってそのまま置いてきた。そのつぎは10年後で、自分のハンドルネームBiancaを検索していたら、この本にぶつかり、読みたくなった。さいわい近くの大阪府茨木市立水尾図書館の書架にあり、その際ジョンソン「インテレクチュアルズ」ボーヴォワール「戦中日記」サルトルの書簡集も読んだ。意外な事実の続出に昂奮したけれど、ブログ開設以前で、断片的な感想しか残してない。そして現在、コロナ禍をさいわいに読書三昧の中、本はもっぱら図書館から借りて来るのだが、松江のように毎日何時間も館内で費やしたりはせず、月に1~2度、2駅離れた図書館に行き、15分くらいで出てくるので、感染防止上さほど危なくもないだろう。JR根岸線はたいてい空いているし。
 
★著者とサルトル、ボーヴォワールの関係
著者は16歳の時パリのモリエール女子高等中学校で美しい哲学教師ボーヴォワールと出会い、憧れと尊敬から手紙を出して近づきになり、やがて肉体関係へと発展し、ソルボンヌ進学後にはボーヴォワールの紹介でサルトルとも近づき、彼とも愛人になり、緊密な3人組(トリオ)を形成したものの、対独戦の勃発・サルトルの出征、独軍のパリ占領等の騒ぎのなか、ユダヤ人の彼女は、身に迫る危険から、当然ながら情緒的に不安定だったのだろう、まずサルトルから絶縁状をつきつけられ、そしてボーヴォワールにも振られてしまった。一時は人生に絶望したが、当時付き合っていた同級生の男の子と結婚して、戦時中のヴェルコールでの抵抗運動を経て戦後は2人の子と、仕事にも恵まれたが、夫を見送って、60代で平和な老後を迎えるはずであった。ところが1990年、ボーヴォワールの死後次々と発表された書簡や日記、評伝などに、少しも知らなかった本音を発見して、怒りと屈辱から黙ってはいられぬ思いでペンを執ったのである。もともと、ものを書く人ではないので、各部分はよくても構成がいびつなのか、ボーヴォワールのように気持ちよく読ませる技量はなく、なんとなく稚拙な印象を受けるが、本来あたまの良い人である(優秀な哲学教師だし「化け物じみた頭の良さ」とボーヴォワールも書いている)ので、鋭く2人の弱点をえぐっている。二人とも死んでいるので、今更とはいえ、自分を虐待した亡き親たちに子供が言うように、一度は恨みを言わずにいられないのだろう。
私には、双方の気持ちがわかるので複雑だけれど・・・・・・。ビアンカは次のように主張している。
 
1.ユダヤ人への差別意識
フランスには強い反ユダヤ主義の伝統があると私は聞いたことがある。
サルトルの「自由への道」では彼女の父親を思わせるユダヤ人が否定的に描かれている。ボーヴォワールは父親が反ユダヤ主義者であった。意識下にそういう偏見が染みついていて、時に噴出するのかもしれない。
 
2.フランス知識人の当時の視野の狭さ。
彼女はユダヤ人であり、迫害から身を守るためにも世界の情勢に敏感だったが、フランス人は大戦前はからにこもって外を見ようとしなかった。
 
3.ものを書く人間のこわさ。
サルトルとボーヴォワールは物を書くことに人生をかけている。その為には周囲を犠牲にしても仕方がないと思っている。
 
4.ビアンカはもともと女性として平凡な人生観をもち、「結婚して子供を持ちたい」などと言って渋面を作られたこともある。
 
5.つまりビアンカはサルトルやボーヴォワールと比べて良識的な面がある。それ以前にトリオを作っていたオルガはまるで違っていて、刹那的でボヘミアン的で、そこが魅力だったらしい。その点でも、計画的で理性的な、しっかりした彼女に、飽き足りなさを感じたのかもしれない。理不尽な話だが。
 
さて私も16歳でボーヴォワールの名を初めて聞き、18歳で「娘時代」「女ざかり」を読んで以来、ほとんど信者のようにボーヴォワールを読んでいたので、この本にはショックを受けた。一方ではボーヴォワール側に味方して、ビアンカがこうもひどく暴露したことへの怒り、、もう一方ではビアンカの立場に立つと生涯の終わり近くに信じていた相手が実は自分を嫌っていたことを本という形で知らされた絶望感。
 
女教師と生徒の愛は吉屋信子でもなじんでいるし、全く拒否感はない。ただしボーヴォワールの意識はどうかというと「第二の性」に「同性愛の女」という項目があるが、まるで自分と関係のない他人のことのような書きぶりである。また「女ざかり」のなかでも、マルセーユで同僚の女教師に迫られて一目散で逃げたというような喜劇めいたくだりがある。彼女が後年一緒に活動するようになったフェミニストの若い世代によると、彼女は自分をレズビアンとは思っていない。男性とも寝ているからというのだけど、これってちょっと変じゃない?と彼女らは言っていた。
 
矢張りこれは彼ら二人が、生きた時代や国、家庭という環境条件にある程度影響を受けたせいだとしか思えない。彼らも生身の人間であり思春期の読者はさておき、70年も生きてきたしかも次世代から見て無条件の崇拝には値するわけがない。特に私にとってサルトルの凋落ぶりはひどい。すでに映画「サルトルとボーヴォワール」でもそれを感じたが。そういうかれに執着したために、さまざまな不都合が生じたのではないか。それというのも、彼女が人生の初めに強力に支配された家族と階級(ブルジョワジー)をとことん否定しようとしたせいではなかろうか。
・・・というわけで、まとまりがないが、この辺で切り上げることにする。
 
→私のBianca  8-9-7
→ビアンカ・ランブラン  9-4-18
→映画「サルトルとボーヴォワール」12-11-18
→ある教育実習生 13-11-17
→「40年前の東京」12-1-9
→「別れの儀式」 21-2-21
→「招かれた女」 21-3-21 
→「パタゴニアの野兎」22-2-19
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