4月29日ヤマツツジをUPした道の近く、ウツボグサが咲いています。
子どもの頃、花を抜いて蜜を吸ったことを思いだしました。
ウツボクサとハナアブ 一番ピントが合った一枚
子どもの頃、花を抜いて蜜を吸ったことを思いだしました。
ウツボクサとハナアブ 一番ピントが合った一枚
吉川氏について調べ次の事がわかりました。
① 天正7年、毛利氏美作国へ出発 『陰徳太平記』
毛利輝元・吉川元春・吉川元長・吉川経信・小早川隆景
② 岩尾城・神楽尾城・荒神山城などの軍記 『陰徳太平記』
③ 吉川氏は美作入国時、吉川経信(つねのぶ)と名乗り、後に廣
家と改名し蔵人廣家を名乗った。
④ 吉川廣家は左衛門尉を名乗ったことはない。 『吉川資料館』
⑤ 吉川経信(廣家)には当時家臣がいた。
『織豊大名の研究4 吉川広家 -吉川広家をめぐる三つの転機 P8 光成準治』
⑥ 天神山城跡縄張において虎口の特徴は織豊時代である。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第Ⅲ美作編』
⑦ 吉川経信(廣家)が某(『新鳥取県史』は彦右衛門)に送った書状がある。
『同上史料 一次史料一覧表 表番号158 P485』
⑧ 打穴の地の口伝による次のキーワードを得た。
「毛利の吉川氏(名まではわからない)」
「来た」、「帰った」
以上①から⑧により吉川蔵人廣家と整合性がある。
表Ⅱ 略年表
① 天正7年、毛利氏美作国へ出発 『陰徳太平記』
毛利輝元・吉川元春・吉川元長・吉川経信・小早川隆景
② 岩尾城・神楽尾城・荒神山城などの軍記 『陰徳太平記』
③ 吉川氏は美作入国時、吉川経信(つねのぶ)と名乗り、後に廣
家と改名し蔵人廣家を名乗った。
④ 吉川廣家は左衛門尉を名乗ったことはない。 『吉川資料館』
⑤ 吉川経信(廣家)には当時家臣がいた。
『織豊大名の研究4 吉川広家 -吉川広家をめぐる三つの転機 P8 光成準治』
⑥ 天神山城跡縄張において虎口の特徴は織豊時代である。
『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第Ⅲ美作編』
⑦ 吉川経信(廣家)が某(『新鳥取県史』は彦右衛門)に送った書状がある。
『同上史料 一次史料一覧表 表番号158 P485』
⑧ 打穴の地の口伝による次のキーワードを得た。
「毛利の吉川氏(名まではわからない)」
「来た」、「帰った」
以上①から⑧により吉川蔵人廣家と整合性がある。
表Ⅱ 略年表
天神山城跡(下打穴)のイメージを掴む為に次の方法で俯瞰図を作成しました (今後修正があります)
1 国土地理院地図(電子国土Web)から
単色地図→地図の種類(標高・土地の凹凸)→識別標高図と選択
ツールから「3D」を選択「大」を指定し表示、「形式」を選択してダウンロード
ダウンロードしたファイルを開き3Dビューアを編集、名前を付けて保存
このファイルをモノクロ印刷しました
2 岡山県古代吉備文化センター
「岡山県中世城館跡総合調査報告書」第3冊 美作編
縄張図を見ながら上記1により印刷した3D図に鉛筆でスケッチ
更に色鉛筆で着色後PDF保存した後、画像処理ソフト「Photoshop」
により画像加工しました
(上記3Dビューアから「プリント3Dを開く」を選択する方法で画像加工もできます)
縄張りは高さ方向の数値データが無くケバ書き及び現地目視によりイメージ作図をしました
溜池の堤嵩上げは昭和14年頃行われていることから池の表現はしませんでした
「わが故郷 打穴西のあゆみ」より
1 国土地理院地図(電子国土Web)から
単色地図→地図の種類(標高・土地の凹凸)→識別標高図と選択
ツールから「3D」を選択「大」を指定し表示、「形式」を選択してダウンロード
ダウンロードしたファイルを開き3Dビューアを編集、名前を付けて保存
このファイルをモノクロ印刷しました
2 岡山県古代吉備文化センター
「岡山県中世城館跡総合調査報告書」第3冊 美作編
縄張図を見ながら上記1により印刷した3D図に鉛筆でスケッチ
更に色鉛筆で着色後PDF保存した後、画像処理ソフト「Photoshop」
により画像加工しました
(上記3Dビューアから「プリント3Dを開く」を選択する方法で画像加工もできます)
縄張りは高さ方向の数値データが無くケバ書き及び現地目視によりイメージ作図をしました
溜池の堤嵩上げは昭和14年頃行われていることから池の表現はしませんでした
「わが故郷 打穴西のあゆみ」より
久米南町弓削、国道53号線誕生寺川沿
手入れをされている方とお話をしました。
フジバカマを植えているので秋にはアサギマダラがやって来るとのとのこと。
写真を見せて頂きました。
手入れをされている方とお話をしました。
フジバカマを植えているので秋にはアサギマダラがやって来るとのとのこと。
写真を見せて頂きました。
美作古城史Ⅱ 寺坂五夫著 記述 「同名の武人(吉川廣家)があって・・・」
について調べています。
上打穴 鳥越山城跡
『古城の覚え』『美作鬢鏡』『美作鏡』によると城主を「吉川一族」とする。
『作陽誌』では「昔、打穴肥後前司菅原家次居城」とされる。
について調べています。
上打穴 鳥越山城跡
『古城の覚え』『美作鬢鏡』『美作鏡』によると城主を「吉川一族」とする。
『作陽誌』では「昔、打穴肥後前司菅原家次居城」とされる。
建部町文化センターで開かれた「岡山歴史のまちしるべ」講演会に行ってきました。
「鶴田城跡について」
美作地域で最大級の規模
縄張り構造に古(南北朝期)新(室町中期)二つの時代相が存在
「中世の建部と神社」について
中世の地域のまとまり(荘(庄)園・郷)との関係に興味がありました。
鶴田城趾
「鶴田城跡について」
美作地域で最大級の規模
縄張り構造に古(南北朝期)新(室町中期)二つの時代相が存在
「中世の建部と神社」について
中世の地域のまとまり(荘(庄)園・郷)との関係に興味がありました。
鶴田城趾
前回UPしてからもう一カ月経ってしまいました。
車で久米南の辺りを走ると花梅が咲いています。
天神山城跡(打穴)の記事はその後,「美作古城史Ⅱ」にある別人の吉川広家がいたのか?。
それについて調べていたところ,この打穴の地が小早川氏の領地であったことがわかりました。
このことをきっかけにいろんなことが知りたくなり,気が付けば今日になってしまいました。
早く記事の続きをUPしたいと思っています。
車で久米南の辺りを走ると花梅が咲いています。
天神山城跡(打穴)の記事はその後,「美作古城史Ⅱ」にある別人の吉川広家がいたのか?。
それについて調べていたところ,この打穴の地が小早川氏の領地であったことがわかりました。
このことをきっかけにいろんなことが知りたくなり,気が付けば今日になってしまいました。
早く記事の続きをUPしたいと思っています。