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歴史かくれ話と今日は何の日

2011-06-05 10:14:15 | 仰天二ユース

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!






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2006年07月17日




承和の変で、橘逸勢と伴健岑が捕らえられる 承和9年(842)

承和の変とは平安時代前期に発生した皇室の関わってくるクーデター未遂事件(謀反計画)である。

事件が起きたのは、54代仁明天皇の御世である。この変には、多くの皇室の人物が関わってくるので、まずは左の系図でその関係を把握していただきたい。
まず、52代嵯峨天皇は、異母兄弟の大伴親王を皇太子とし、やがて皇位を譲って、大伴親王は淳和天皇となった。嵯峨天皇は、そのまま上皇となったわけだが、政治に介入しようとするようなことはなく、むしろ自分の好きな詩文にふけって悠々自適な生活を送ったとされている。

一方、皇位についた淳和は淳和で、自分を皇位につけてもらった見返りに、嵯峨の子である正良親王を皇太子とした。淳和天皇は、自分の子である恒世親王の立太子を望んでいたと言われているが、残念ながら恒世親王は早逝してしまったため、結局、正良親王が皇太子となったのである。

やがて、淳和は正良親王に譲位し、正良が天皇となった。これが仁明天皇である。そして、仁明天皇はまた、淳和のもう一人の子・恒貞親王を皇太子としたのである。

ここまでは、嵯峨が淳和を皇太子に、淳和は嵯峨の子である仁明を皇太子に、仁明は淳和の子である恒貞を皇太子に、と円滑に周っているようにも見える。しかし、この仁明天皇の時に、重大な報告がもたらされた。それこそが承和の変につながってくるのである。

840年5月8日、淳和上皇が崩御、842年7月15日には嵯峨上皇が崩御した。そして、承和の変につながる重大な報告は、嵯峨上皇崩御のわずか二日後にもたらされた。報は、嵯峨の妃であった太皇太后・橘嘉智子に密書の形でもたらされた。密書を送ったのは、平城の子である阿保親王。密書には、次のような計画が書かれていた。

「東宮帯刀舎人伴健岑と但馬権守橘逸勢、皇太子・恒貞親王を奉じて東国で挙兵し、仁明天皇を廃そうとする計画あり」

太皇太后は、ただちに中納言藤原良房にこれを伝え、良房は仁明天皇に報告した。報告を受けた天皇は怒って、計画に名を連ねていた伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)を捕らえるよう命じた。2人はすぐに捕らえられ、拷問にかけられたが、何も語らずひたすらに無罪を主張し続けた。しかし、結局2人は流罪となってしまう。

続いて、祭り上げられた皇太子・恒貞親王も23日に廃位となった。代わりに皇太子となったのは、仁明の長子・道康親王だったが、この道康親王を産んだのは、良房の妹・順子であるので、道康親王は、良房の甥ということにもなるのである。

この事件は、計画の首謀者とされた2人にはあまりうまみがなく、むしろ藤原良房にうまみがあることから、良房の陰謀とみる説が有力とされている。事実、良房はこの後すぐに大納言に昇進。この後も藤原一族の栄耀栄華は続いていくのである。

※画像は、承和の変関係の皇室系図(見にくい場合は、画像をクリックすると原寸大表示になります)。

※承和の変についての詳解本はいい本がないので、平安時代の面白そうな本をご紹介。『平安京の仰天逸話』です。平安時代の人物や同時代の説話集などから、好色医者・間男・美女怪盗・怪力女・鬼女などの面白い話をセレクトし、さらに平易な文に書き直したものだそうです。実に興味深い。本屋で見かけたらぜひ一度読んでみたいですね~。


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(キーワード)

●藤原良房(ふじわらのよしふさ)

平安時代前期の公卿。藤原北家5代目。冬嗣の次男。
嵯峨天皇に気に入られて、天皇の娘である源潔姫と結婚した。

その後も順調に出世を重ね、835年に従三位権中納言となる。承和9年(842)の承和の変の際には、仁明天皇に、皇太子・恒貞親王の廃位と、仁明天皇の長子で、良房にとっては甥にあたる(良房の妹・順子は仁明天皇の妃)道康親王の立太子を進言して、これを実現させた。続いて848年には右大臣。その後、即位した文徳天皇の皇太子には、娘である明子の産んだ惟仁親王を立てるなど、天皇家の即位問題に介入していく。

そして、ついに857年、人臣としてはじめて太政大臣の位につく。
やがて惟仁親王の即位(即位して清和天皇)に伴い、摂政に任じられたとされるが、実際に職務として正式に摂政に任じられたかははっきりしないらしい。

冬嗣に続き、藤原家興隆の礎を築いたといえる重要な人物。


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嵯峨天皇といえば、博学で知られる小野篁に、「『子子子子子子子子子子子子』はなんて読むか?」…なーんていうクイズを出したとかいう話があります。「おまえ、なんでも読めるんなら、これはどうだ」という感じで出したそうですが、篁さん、何のことはなく読んじゃったそうです。まさに天才。

どうでしょう?読めますか?もし初見なのに読めたならあなたはもしかしたら天才かもしれませんので、すぐに関係各所に連絡したほうがいいですよ(笑)。

答えは

「猫の子の子猫獅子の子の子獅子」です。

…え…?わからないって?
いや、ほら「子」は「ね」とも読むんですよ。十二支の「ねずみ」は「子」という字を当てるでしょ。だから、「子子の子の子子子(猫の子の子猫)子子の子の子子子(獅子の子の子獅子)」。はい、ばっちり「子」の字を12回使ってます。オーケー。文章的には意味わかんねぇけどな。

…。

…承和の変についてのコメントじゃなくなっちゃった…。

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