行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

生命の守護者編

2008-10-14 00:57:32 | Weblog
 NHK番組『その時歴史が動いた』のコミック版で、時折、書店で目に付き購入する。
タイトルに付けた「生命の守護者編」は、伝染病予防・衛生立国を目指した北里柴三郎、弁護士達の活躍を描いたイタイイタイ病裁判、受胎期の発見と死ぬ直前まで村の医師として捧げた荻野久作、知的障害児教育の祖・石井筆子ら感動のストーリーが編纂されていた。この中で、特に感動したのが岩手県沢内村(現在の和賀郡西和賀町)の乳幼児死亡率ゼロへの軌跡である。乳幼児死亡率とは、赤ん坊千人のうち、1歳未満で死亡する率を示した指標で、1956(S31)年この沢内村では千人中69.6人、東京都27.5人、岩手県が全国最下位の66.4人で、これを上回っていた。満州から引き上げ、東京から帰郷した深沢晟雄は、この現状を見て打開策を見出すためまず、村のリーダーとなるべく、教育長を経て村長となった。豪雪地帯でもあるこの地域の除雪、保健士の配置と医師の確保、また、姑を子育てに協力しやすくなるようなアイデアを提示し、更に病院の協力で予防活動を積極的に行った。しかし、1959年から施行された国民健康保険法による負担金の支払いが家庭を圧迫し、赤ん坊の検診が少なくなりつつあった。これを打開して、村から1人の赤ん坊の死亡を出さない、と決意した深沢は、遂に医療費無料化を実施する。これには当然岩手県から「待った」がかかり、国保法違反とされた。しかし、深沢は不退転の決意で、国保法に違反するかもしれないが、憲法25条には違反せず、と予防を含めた村民の健康は村で責任を持つ。これは福祉国家の当然の帰結である、と無料化を断行した。この結果、一部負担を渋っていた赤ん坊の診療が活発になり、深沢村長自らが診療所を訪れ、村の子供のことはすっかりと覚えてしまったという。
 1962(S37)年大晦日、この日は村民一人ひとりが特別な思いを持って迎えていた。この年は、村内の乳児が1人も亡くなっていなかった。そして、1963(S38)年1月1日、新年を迎えたこの瞬間、全国に先駆けて乳幼児死亡率ゼロを成し遂げた。この影響は全国に波及し、多くの自治体が沢内村を訪れ、その成果を学び、持ち帰った。
 1965(S40)年、深沢はガンの身でありながら村の保険行政を続け、現職のまま59歳で死去した。
 以前の「プロジェクトX」のような、その道に信念を持って貫き通した人物に、マンガとは言え目頭が熱くなる思いだった。
 今日、真に貧困が理由ではなく医療費を支払わない者が後を絶たないが、こうした先人達の想いを確実に受け止め、現実の運用はともかく、国民皆保険の偉大さをもっと大切にせねばならない、と痛感した。アメリカでは国民皆保険ではないため、カゼに罹っても治療を受けられずに命を落とす者も多い。日本でも、医療費の踏み倒しや支払い拒否などの愚行を続けていれば、金の払えぬ者は診療お断り、となってしまうだろう。自分だけは支払わなくても良いという思い上がった考え方は結局、回り回って自分に戻ってくるだろうし、そうあるべきだ。真面目に支払う人間が損をする世の中では、国民皆保険の存続は不可能だろう。この国は経済的には豊かになったのかもしれないが、心はより貧困になった。金銭的豊かさは結局、心の豊かさをもたらさないのだ。
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