uparupapapa 日記

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お山の紅白タヌキ物語 第16話 キスカ島撤退(1)

2024-02-15 05:49:27 | 日記

 1943年5月12日アメリカ軍がアッツ島に上陸を開始してから17日間におよぶ激しい戦闘の末、5月29日アッツ島守備隊(指揮官山崎)が残存兵力を率い最後のバンザイ突撃を敢行、玉砕した。

 

 雪江タヌキは目を反らさずその様子を記憶に焼き付ける。

 そして戦死者の御霊の成仏を心から祈った。

 皆様きっと無事成仏されるだろう。だが魂をこのままこの島に置き去りにして良いものか?

 否、皆祖国に英霊として帰りたいに決まってる。

 ご遺体まで運ぶことはできないが、せめて皆様の御霊だけでもお連れして帰りたい。

 

 雪江タヌキは霊験を授けてくれた四国のお地蔵さまに祈った。

「どうかこの私にもう一度神通力をお授けください。」と。

 この島での壮絶な戦いは雪江タヌキを消耗させ、力を失っている。

 でも何とかして戦没者の魂だけでも祖国にお連れしたい。そのためには再び神通力が必要なのだ。

 雪江タヌキにとって神や仏など知らない。

 すがる事の出来る相手は四国のお地蔵さまだけ。だから必死で祈った。

 

 すると眼前によく見慣れたお地蔵さまが姿を現した。相変わらず慈悲深いお顔で。

「雪絵タヌキよ、よくぞここまで頑張った。最後までのそちの尽力は多大なものであったぞ。」

「いいえ、お地蔵さま。私はいくさの途中、霊力を使い果たしてしまい、多くの兵士の皆様をお救いできませんでした。

 一番大切な時に消耗しきってしまうなど己の未熟さを痛感し、その後の悲惨な光景をただ傍観するしかなく、涙が止まりませんでした。

 玉砕とはかくも悲惨なものかと身もすくみ、立っていられない程だったことを痛感しております。

 未熟さ故の私の罪を今更償うすべはございませんが、せめて戦没された御霊だけでも故郷にお連れしたいと思います。

 そのためには今一度、お地蔵さまからお授けされた神通力が是非とも必要です。

 勝手だと承知しておりますが、どうか私の願いをお聞き届けいただき、私に再び神通力をお授けください。」

 

 少しの間の後お地蔵さまが口を開く。

「良く分かった。雪絵タヌキよ、今までの地獄の如き様を目撃し経験しても尚、お役に立ちたいと申すのだな?だが再び神通力をそちに授けると云う事は、英霊たちを帰還させるだけでは済まないのであるぞ。

 このいくさはまだまだ続く。各地に広がる戦地では多くの兵士たちが英霊となろう。

 そちはその様子を見続ける事になるが、それでも良いか?」

「それで良うございます。こんな未熟者ゆえ、力の及ばない場合も多々ありましょうが、全力を尽くしたいと存じます。」

「あい分かった。その覚悟に免じて、今まで以上の強い神通力を授けて進ぜよう。

 良いか?心して使うのじゃぞ。ワシはそなたの心が心配なのでな。

 この国の戦士が戦う相手の者どもは、深い憎しみに取り憑かれておる。

 国と国の争い以上の憎悪が心を支配し、憎悪が醜さを増し悪魔のごとき怨霊となり果てている。

 そちはやがてその巨大な憎しみの力を目撃する事になるであろう。

 だから心してかかるのじゃぞ。決して精神を病まないようにな。

 

 そしてこれから云う事は一番大事じゃ。こちらも心して聞くがよい。

 

 そなたに力を授ける意味をおのれに問うてみなさい。

 どう使えば一番効果があるか?多くの人々を助けられるか?を。

 良いな?良~く考えて使うのじゃぞ。」

「ありがとうございます、お地蔵さま。」そう言って手を合わせ感謝の祈りを捧げる。

 

 やがてお地蔵さまはすーっと姿を消し、霧の中に消えていった。

 

 雪江タヌキは一礼し、お地蔵さまを彼方の空へ見送る。

 

 

 雪江タヌキはおもむろに激戦の地を見据え、一心不乱に祈り続けた。

 御霊を安らかな境地へいざない、成仏されることを。

 

 またこの地に残る多くの兵士の残留思念を故郷に送るべく自分の身と心を開き、受け止めた。

 誰もこの悲しい地に置き去りにしてはいけない。

 愛しいご家族のもとへお返ししなければ。それが私の務めであるから。

 それ故の神通力である。

 

 やがて全ての残留思念と御霊を受け止め、雪江タヌキは鳥に姿を変えた。

 行き先は取敢とりあえず仲間の居るキスカ島。

 この島には日本の守備隊約5500名が駐屯し、アッツ島から撤退した20余名のタヌキが雪江タヌキの帰還を待っている。

 雪江タヌキは一心不乱に飛び続けた。

 無事キスカ島に辿り着いた雪江タヌキは、先に到着していた残存タヌキ部隊と再会、無事の帰還と戦闘の労を労い合った。

 そして息つく暇もなく、最後の突撃前に戦況報告のため外され離脱した第五艦隊江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉が乗船した潜水艦が一時キスカ島に停泊した一瞬の隙に同潜水艦に乗船、一路北部軍司令部のある札幌に向かう。

 樋口司令と謁見、戦況の詳細を説明・報告した。

 司令からは労いの言葉を貰ったが、力足りず玉砕の結果に「申し訳ございません」との言葉しか出ない。

 樋口司令は優しい眼差しで

「そんな事はない。よくやってくれたと、心から感謝している。

 聞けばそなた達タヌキ部隊にも多数の犠牲者がでたとの事。

 あれだけ無理はするなと申したのに。

 しかしあの戦況の中にあって、無理をせずにはいられなかったのであろう?よく頑張ってくれた。」

 その言葉に雪江タヌキの頬に涙が伝わった。

「暖かい労いのお言葉、ありがとうございます。

 でも私たちの戦いはこれが最後ではありません。

 キスカ島に残る守備隊の撤退もお手伝いさせてください。

 アッツ島で玉砕された皆様の想いを載せて、是非救出のお手伝いをさせて頂きたいのです。

 私がこの札幌に来たのは報告の為と、アッツ島の英霊の皆様を送り届けるためです。

 目的は達したので再びあの島に戻り、作戦に参加したいと切に願っています。だからどうかお願いします。私たちに参加する事をお命じください。

 今度こそ、必ずお役に立って見せます。」

 

 そうして樋口司令の了解を得、撤収部隊のいる幌筵に向かった。

 

 

 

 

 

  キスカ島撤退作戦

 

 

 

 

 キスカ島は玉砕したアッツ島より守備隊が多い。

 何故か?

 それはキスカ島の方がアッツ島よりアメリカ本土に近いから。

 常識的に考え、アメリカが奪還作戦を立てるとしたら、まず近い方の島を攻略すると考える筈。

 しかし実際にはアッツ島を先に攻め、玉砕に追い込んできた。

 その結果キスカ島はアッツ島とアメリカ軍が基地を持つアムチトカ島に挟まれてしまう。

 アムチトカ島にはすでに飛行場があり、制空権・制海権を握られてしまった。

 

 先の大本営の命令が北部軍から伝えられ、援軍も補給も無いと分かっている。

 キスカ島の日本守備隊5500名は完全に孤立、このままでは撤退かアッツ島同様玉砕による死しかない。

 

 だからと云って見捨てられては堪らない。

 すでに尊い犠牲となってしまったアッツ島守備隊には悪いが、これ以上の損害は出せないのだ。

 

 隣の島の悲劇に、救出も援軍も出せない自分たちの不甲斐なさに涙する兵士たち。

 でもそれは仕方ない。

 アッツ島守備隊は責任を以ってアッツ島を護るのが任務。

 同様にキスカ島守備隊はキスカ島を護るのが任務。

 となりの島に自分達が勝手に増援には行けないのだ。

 持ち場放棄は重要な軍紀違反である。

 

 

 大本営もアッツ島・キスカ島の深刻な事態は把握していた。

 しかしアッツ島にアメリカ軍が上陸してしまった時点で新たな増援を北部軍などから送ることは、制海権や制空権を握られてしまった以上、ほぼ不可能に近い。

 しかしキスカ島は見過ごせない。

 アッツ島の悲劇を繰り返さないために、何としてもキスカ島守備隊を救出しなければならない。同じ過ちは許されないのだ。

 かくしてアリューシャン方面を放棄し、孤立したキスカ島守備隊の撤退作戦を実行すると決した。

 

 

    第一期潜水艦作戦

 

 

 アッツ島玉砕・陥落の二日前(5月27日)、キスカ島撤退作戦実行。

 伊7潜水艦がキスカ港に入泊、60名を収容し帰途についていた。

 しかしこの潜水艦による撤退・救出作戦は非常に効率悪く、上手くいったとは言えない。

 何故ならこの潜水艦作戦では、米軍駆逐艦やパトロール艇が哨戒活動により、レーダーに捕捉され砲撃を受けことごとく撃沈されたから。

 救出に成功したのはこの時の伊7潜水艦の60名を含む累計872名のみ。

 伊7潜水艦、伊24潜水艦、伊9潜水艦の三隻が撃沈されている。(伊7潜水艦は5月27日以降の再度の出撃で撃沈)

 アメリカ軍の哨戒を掻い潜り、苦労してこれだけの犠牲を払いながら、救出できたのが872名のみでは割に合わない。

 6月23日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は潜水艦輸送作戦の中止を発令、ここに第一期「ケ」号作戦(潜水艦での救出作戦)は終わった。

 

 

  第二期水雷戦隊作戦

 

 

 潜水艦作戦の失敗は濃霧の中浮上航行中敵艦レーダーに探知・発見され、レーダー射撃を受け撃沈されたため。

 濃霧は敵航空機による空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、日本軍の強みである肉眼での索敵能力(見張り能力)を奪う。

 伊7潜水艦たちがやられた敵艦レーダーの探知を掻い潜るには、逆探と電探が必要。

 当時最新鋭装備である敵探知機である逆探と電探を装備した新鋭高速駆逐艦『島風』を配備する事が絶対条件である。

 そこで第二期作戦は潜水艦部隊11隻、水上部隊[巡洋艦・(島風を含む)駆逐艦・補給部隊・応急収容隊等]計16隻で編成された。

 

 木村少将 麾下きか水上部隊が7月7日19時30分幌筵を出撃。

 部隊の目的は『味方(キスカ島)守備隊の撤退を隠密裏に実行』。あくまでアメリカ軍部隊との接触・戦闘を極力避けるのが絶対条件である。だが敵と遭遇した「もしも」の場合に備え、夜戦の準備も怠らなかった。

 

 7月10日アムチトカ島500カイリ沖にて水上撤収部隊は潜水艦部隊と合流・集結し、キスカ島へ向かう。

 しかしキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため突入を断念。一旦決行予定日を13日に繰り下げとした。

 だが13日も霧が晴れ、翌14、15日に再度繰り延べしたが、両日とも霧が晴れてしまい突入を断念、15日午前8時20分 突入を諦め一旦幌筵へ帰投命令を発する。

 

 手ぶらで本拠地に帰ってきた木村少将に対し、待っていたのは非難轟々の嵐であった。直属の上官、第5艦隊司令部、連合艦隊司令部、更に大本営から「何故、突入しなかった」、「今すぐ作戦を再開し、キスカ湾へ突入せよ」など。

 貴重な燃料を費やしながら手ぶらでは、気持ちは分るが焦って作戦に失敗しては元も子もない。

「無茶を言うな!」と思う木村であった。

 

 7月22日、幌筵の気象台が「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を出す。

 同日夜、撤収部隊が幌筵から再出撃。

 

 

 この時第五艦隊司令長官河瀬四郎中将麾下第五艦隊司令部が多摩(艦長神重徳大佐)に座乗、実行部隊に同行する。

 どんだけあの時の木村少将の決断に不満を持ったか、不信に思ったかが上層部の行動に出ていた。

 

 艦隊はカムチャツカ半島先端、千島列島北端の占守島より北太平洋を南下、その後一路アッツ島沖まで進路を取る。そこで霧の天候を待ち、機を見てキスカ湾へ高速で突入。

 守備隊を迅速に収容し、再びアッツ島南方海域まで全速で離脱、幌筵に帰投する。というルートで計画、実行された。

 

 

 

 

 

    つづく