uparupapapa 日記

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『シベリアの異邦人~ポーランド孤児と日本~』連載版 第31話 「国がソ連に飲み込まれる・・・」

2023-02-11 04:00:00 | 日記

 ここからは戦後ポーランドの歩みを紹介しながら展開していきます。

 場合により物語が時系列から事柄ことがら 別に外れる事、前回のストーリーからも少しながらさかのぼったりと、ややこしくて分かりにくい事をご容赦ください。

 

 

 

 ソ連進駐後のポーランドの歩み

 

 第二次世界大戦終結後の1945年、ロンドン亡命政府と共産主義会派のルブリン委員会が合同、国民統一臨時政府成立。

 しかしソ連赤軍が駐留、臨時政府を傀儡政権化した。

 亡命政府系要人は再び亡命するか、逮捕・処刑された。

 

 戦後まもない1945年当時、すでにソ連は西側連合国に対する表向きのポーズで「社会主義へのポーランドの道」の標語や「プロレタリア独裁はポーランドでは必要ない」との発言が強調され、柔軟路線を追求した印象を与える事に腐心した。

 

 表向きの民主主義。

 

 しかし戦後ポーランドは特に混乱を極めた国であった。

 

 国土の東側三分の一をソ連に不当にむしり取られ、ドイツ領の西側三分の一を宛がわれるという不条理なソ連の都合に苦しめられた。

 つまり国土の東の3分の1が削られ、西に移動したという事。

 

 ポーランドは農業国である。

 農民にとって土地が全て。代々受け継がれ大切に育ててきたその肥沃な土地をソ連が奪い取る。

 東の農民は土地を取り上げられ、西の新たな土地へ行けと命令された。

 

 でも西はドイツ人農民が既に入植している土地である。

 

 そのドイツ人農民を追い出し、自分たちが入植する?

 それにはあまりに諸問題が多すぎ、抵抗と軋轢あつれきと混乱と憎しみが交差した。

 

 どれだけの農民が血の涙を流し、どれだけの家族が飢えと死に瀕した事だろう?

 

 戦後すぐのポーランドは、ソ連及び西側各国からの引き上げ難民や兵士、生き残りのユダヤ人難民の帰還などで、人口爆発現象に見舞われていた。

 

 農地を奪い合い、生活不安から救いを求め、ルブリン農民党が支持を集めるなど、混乱の極致に達していた。

 

 ルブリン農民党?

 そんな政党が存在するのは西側世論対策で民主的と人権が表面上保障され、複数政党制が認められた事情があったから。

 

 その時西側同盟諸国はそんな欺瞞ぎまんに目をつむり、何もせず手をこまねいていたのか?

 

 何も考えず、何も感じていない訳ではなかった。

 

 スターリンはヤルタ会談にて大西洋憲章を認め、署名しているのだ。

 つまり赤軍占領下諸国に於ける民主的選挙の実施を約束し、解放欧州に関するヤルタ宣言にも署名している。

 

 それが例え嘘っぱちの署名でも、表向きだけのポーズでも、形だけは約束通りヤルタ宣言を遵守しているのだ。

 

 スターリンは実に狡猾に動き回り、西側を手玉に取った。

 何も手出しができない西側諸国は苦悩する。

 

 見せかけの民主主義、見せかけの自由だと分かっていながら、巧妙な偽の民主的選挙の実施を傍観し、着々と完成させるソ連の支配をみすみす認めていかざるを得なかった。

 

 そんな訳でポーランドには新しい政党が存在したのだった。

 国民の不満爆発を抑え従わせるには、不満の受け皿が必要。

『雨後の竹の子』のように誕生した政党たちに対し、ソ連当局は目を光らせながら、ソ連共産主義支配にとっての不穏分子を容赦なく切り捨てた。

 

 ポーランドには、自由も人権も尊厳も許されていない。

 あるのはソ連の影の支配だけ。

 1948年並いるそんな政党たちを抑え、ソ連が黒幕のポーランド労働者党、ポーランド社会党左派が合同し、ポーランド統一労働者党(PZPR)が成立し政権を掌握、一党独裁体制に移行した。

 

 1952年共産主義を基調とした憲法制定、国名をポーランド人民共和国に改め新たなマルクス・レーニン主義、共産主義国家が誕生した。

 見た目は民主主義を標榜するポーランド新国家を建設。

 

 それはソ連の衛星国に過ぎなかった。

 

 そんな国の国民に許される選択肢は極めて少ない。

 あるのは自己保身のために、『見ざる』『言わざる』『聞かざる』を徹底し、権力に対し従順に過ごす『ふり』を全うする知恵を活かす事だけである。

 その中で許されたお目溢おめこぼしが自分達に与えられた全て。

 それを工夫して生きてゆく。

 そこから少しでも逸脱し、反抗の炎の目を燃やしたら、あるのは収監か強制労働、処刑のいずれかが待っていた。

 

 事実、おびただしい人々が、その法則を身をもって経験している。

 

 息のつまる傀儡かいらい・独裁政治。

 しかし、そんな緊張した生活に人間どれだけ耐えられるのだろう?

 

 

 

  ワルシャワ~瓦礫からの復興~

 

 

 

 

 1945年ワルシャワの全建物の84%が瓦礫と化していた。

 そのうち住宅が7割超、場所にもよるが、中心部はほぼ壊滅状態だった。

 それに伴い、人口も戦前は100万都市だったのが、二度にわたるワルシャワ蜂起とソ連の進駐後、わずか数千人にまで減っている。

 

 ワルシャワの復興などは、誰の目にも不可能とみられていた。

 首都をウッチに移す計画さえ浮かんでいたほど。

 

 だが市民の熱意と不屈の闘志は不可能を可能にし、奇跡の復活を遂げるまで努力は続いた。

 1945年2月3日首都再建を決議、2月14日には首都復興局が編成された。

 この動きは異例であり、無謀とも思えた。 

 

 だってソ連軍がワルシャワに進駐したのは1月12日。

 それから僅かほぼ20日後に首都再建を決議?そして首都復興局を編成?

 西側諸国のソ連に対する目を、ソ連がどれだけ気にしていたのか?

 更にポーランド人のワルシャワ市街の復活に対する熱意が、如何に大きかったか?

 ソ連はポーランド人の自由を弾圧しておきながら、同時に瓦礫からの元通りの復興は承認したのだ。

 

 当時のヨーロッパはほぼ全域が戦場であり、破壊された都市は数え切れない。

 

 復興の動きが各国に見られたと云っても、それは限定的復活でしかない。

 歴史的な建造物の再建のみがその対象なのだ。

 街ごと蘇らす再建計画などは、人類が経験したことのない未知の世界である。

 

 しかし彼らはその偉業をやってのけた。

 

 『戦時中に破壊された歴史的建造物、しかもそれが我が祖国ポーランドの首都であるならば、街全体の再建が当然である。

 国家とその文化的建造物は一体なのだ』

と考えていた。

 

 それがポーランド人、とりわけワルシャワ市民の気概だった。

 そして当局により1949年の社会主義リアリズムが公認芸術とされるまで、自由な美的感覚の建築物の再建が許された。

 (逆の言い方をすれば、当局が推奨する社会主義リアリズムの登場即ち、それ以降の自由な美的建築物の建造は不許可になったという事。)

 破壊された中世などの歴史的建造物に施されていた壁の彫刻などの再現ができないなら、意味がないではないか!

 

 

 1952年、復興事業の第一段階終了、首都復興局は解散する。

 しかしその後も引き続き再建作業は継続され、その偉業は後にユネスコの世界遺産に登録されたほどである。

 

 だが社会主義に於ける土地・建物の個人所有権の矛盾などが絡み、元の所有者に返還されないなどの問題もはらんでいた。

 そうした諸問題を抱えながらも再建は続いていたのだった。

 

 そんな最中さなか、ワルシャワが再び国際舞台に登場する出来事が起きた。

 

 1955年のワルシャワ条約締結である。

 実はワルシャワ条約と銘打った条約は大まかに3つある。

 ひとつ目は1920年、ポーランド第二共和国とウクライナ人民共和国に結ばれた条約。(ポーランド・ソビエト戦争の戦後処理)

 ふたつ目がこの物語の1955年のワルシャワ条約機構を成立させた条約。

 三つ目が1970年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とポーランドが結んだ国境画定の条約である。

 

 1955年当時のワルシャワはまだ再建途中であるのに、何故条約締結の舞台に選ばれたのか?

 それはスターリンの考える演出だった。

 ワルシャワを首都とするポーランドの力強い復興の姿を西側に見せつけ披露する。

 それこそが国際舞台でのソ連を中心とした東側同盟の成立、その高らかな宣言の舞台として脚光を浴びる最適な場所と云えた。

 

 実は1953年スターリンは構想半ばで死亡している。

 でも死した後もその遺志は受け継がれ、西側自由主義諸国の北大西洋条約国に対抗したワルシャワ条約機構が成立、歴史に名を残したのだった。

 

 しかしそれは、ポーランドが政治・経済のみならず、軍事面でもソ連に完全支配されていた事を意味する。

 

 ワルシャワを破壊したのは、ドイツだけではない。

 ソ連も同じだけワルシャワを破壊した悪魔なのだ。

 (ソ連は直接手を下していないが、蜂起を呼びかけておきながらワルシャワ市民を裏切り、一切手を貸さず蜂起をわざと傍観した結果、ドイツの戦闘による破壊の増長を招いたことになり、市民の犠牲は増え、街は瓦礫の山が拡大した。)

 

 その事をワルシャワ市民たちはどう思っていたのか?

 もちろん愉快であろうはずはない。

 歴史に名を残した条約を誇りに思うはずもない。

 

 不満は常に燻っていた。

 

 

  

 一方ヨアンナとアダムはその間、どうしていたのか?

 

 ヨアンナとアダムのワルシャワ脱出の逃避行に、当然の如くエヴァとミロスワフ、エミリア一家もついてきた。

 今ではもう彼らはセット(?)なのだ。

 一行はポーランド北部のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)に移り住む。

 その地は亡き父フィリプが情報将校として赴任していた当時の拠点に近く、ヨアンナの第二のふるさとヴェイへローヴォ孤児院にも比較的近い自由産業都市であった。

 (ヴェイへローヴォ孤児院に近いと云う事は、そこに居る青年会の旧友たちからの支援も得られ易く、都合が良いと云う事。)

 だがここもドイツ・ポーランドの争いにより、旧市街を中心に廃墟が広がる爪痕を残していた。

 

 それでもさすがに中世からの求心力が残る中心地。

 復興の速さはワルシャワ同様、目を見張った。

 

 特に古くからある生産拠点ダンツィヒ造船所を修復、レーニン・グダニスク造船所として生まれ変わり、いち早く賑わいをみせていた。

 

 ヨアンナ達がそんな活気あふれる地を安住の地として選択するのは、ごく自然な事だった。

 

 

 

 

       つづく