江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

【228】 ほかにもあった 実写版「サザエさん」 その1

2006年03月15日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)
◆昭和23年と25年に2作「実写版サザエさん映画」が東屋トン子さんなる女優さんの主演で撮られていたことが先般報道されていました。


キネマ旬報増刊号 作品全集よりには...
「サザエさん」マキノ映画=松竹 1948年 荒井良平監督 東屋トン子主演
「サザエさん・のど自慢歌合戦」大映 1950年 荒井良平監督 東屋トン子主演 宮城千賀子助演
※サザエさんの映画化の最初は実は東宝ではなく48年と50年に各1本作られている。 前者はマキノあやめ池作品、松竹配給。後者は東洋スタジオ作品、大映配給。いずれも荒井良平監督、劇団なでしこ映画初出演の東屋トン子主演だが余り成功せず、江利チエミ主演となって、彼女の性格が適役となリ、プログラム・ピクチャーとして水準線を示した。(福田) ・・・とあります。

東屋トン子さんを調べていきますと「劇団なでしこ所属」ということが判りました。
この劇団は宮城千賀子の主宰した劇団で戦時中、華美な格好で芝居はケシカラン!とのお達しで(宮城さんは宝塚出身で狸御殿の男役で一世を風靡した)、宮城さんが普通のおんなの格好で各地を回った劇団。そこの劇団員が東屋トン子さんでした。
映画に「マキノ製作」とあるので宮城さんは一時マキノ眞三の奥さんだったので、そんな関係での製作や出演だろう、と思われます。

※同じく男装の麗人と歌われた水ノ江滝子(SKD)も戦時中は「劇団タンポポ」を主宰。高峰秀子さん著「わたしの渡世日記」にも「似合わないスカートをはいて慰問
して歩いた」と書かれた劇団を率いていた時期があるのです。
このターキーさんの「タンポポ」のファンだったのが、まだ「年端も行かない女の子・・・幼年期の江利チエミさん」でした。父君、母君の出演する劇場の楽屋から「ひとりで観劇にでかけるオシャマさん」だったのだとか・・・

この「サザエさんビギンズ映画」では、服部良一が作曲した軽快なレビューシーンがふんだんに盛り込まれているそうです。
「マキノ映画」はマキノ眞三と宮城千賀子夫婦が1948年に設立した会社ですが、『桜御殿』(1948年)とこの「サザエさん」を世に出すとすぐに解散しました。
チエミ版サザエさんの監督の青柳信雄氏は、坂東三津五郎の兄で朝鮮古陶磁のコレクターとしても有名。プロデューサーも兼ねたが、高峰秀子新東宝専属時代に、彼女のギャラや他社出演の契約金で不正があったとして、彼女の著書「わたしの渡世日記」で実名を上げで書かれている人です。

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◆そして「二代目が江利チエミさん」...と思いきや、31年の映画化前にもう2人のサザエさんが居ることが判りました。

ひとりは「市川寿美礼さん」...  これは昭和30年舞台で演じられ、波平:伊志井寛さん フネ:市川紅梅さん...であったとか。
「市川少女歌舞伎」のスターだった人の筈です。早くに亡くなられたのだそうです。ラジオ劇でもこの人が同30年に演じています。(この市川少女歌舞伎については下段を参照してください。)

そしてもうひとりは、(これも同じ昭和30年にテレビで放送されたのだとか... )「高杉妙子さん」...二葉あき子さんの「フランチェスカの鐘」の台詞部分をレコーディングしたことでも有名な女優さんです。

江利チエミ=サザエさん第一号のようなイメージですが、今のところは4代目...ということになるようです。今後も調査を続けますが、江利チエミのサザエさん誕生までには紆余曲折があったようです。

※現在調査中ですので、また「情報をつかみ次第」続編を掲載します。

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市川少女歌舞伎・・・とは?
 東三河ほの国HPさんより引用します。
>かつて豊川市に、素人歌舞伎から始まって一世を風靡した一座があった。『市川少女歌舞伎』である。戦後、様々な文化活動が再開しつつある頃、豊川稲荷門前あたりの花柳界の子女が歌舞伎を習い、公演を行ったのがきっかけ。その愛らしさが興行主の目にとまり、静岡県『浜松座』で常打ちするようになった。 「10歳から12歳くらいの女の子ばかり。皆豊川元町あたりの子でしたね。市川升十郎師匠の指導の下、スパルタで仕込んでいただきました。」と振り返るのは、当時の立女形・市川梅香さん。現在、歌舞伎舞踊さつき流をはじめ、豊川をとめ歌舞伎、歌舞伎集団おくにさん座などを主宰している。
「そのうち、少女歌舞伎が十代目市川團十郎先生の目にとまり、昭和二十五年、團十郎監修、升十郎指導の『市川少女歌舞伎』となりました。
東京三越劇場、明治座、名古屋の御園座など大劇場で公演を打つようになって……。年間三百五十日も舞台に立つ、忙しいけど華やかな暮らし。有頂天になって舞台に立っていたことを、今でも覚えています。」 しかし、昭和三十年代にはいるとテレビの普及、少女達が結婚適齢期にさしかかったことなど、様々な事柄が重なり合い、市川少女歌舞伎は徐々に衰退し、消滅していった。
「市川少女歌舞伎は無くなってしまったけれど、今でも歌舞伎は私のすべて。日本古来の美しさや、愛情の細やかさ、礼儀作法など、歌舞伎によって教えられることはたくさんあります。歌舞伎や踊りの指導を通じて、たくさんの子ども達、女性達に『日本の心』を伝えていきたい。」 ●お話/市川梅香さん

そしてこの「市川少女歌舞伎」は、「娘歌舞伎」に発展します。
昭和58年6月、元市川少女歌舞伎座員を講師として発足。
昭和60年4月、現名称制定し、名古屋むすめ歌舞伎旗揚げ公演開催。
昭和62年より明治村呉服座にて秋季公演定例化。その間、名古屋市民会館、愛知県芸術劇場等の要請による公演も数回に及び、平成4年には東京三越劇場主催公演を機に3名が市川宗家より市川性を許される。
市川團十郎丈、市川猿之助丈、藤間藤子、藤間蘭景両師らの監修・指導を得ての公演も多く、平成7年11月には文化庁芸術祭主催により国立劇場で公演を行うに至る。・・・ということです。


◆このところ「江利チエミさん」をきっかけに「日本大衆演劇史」や「映画史」を勉強させていただいているような毎日であります。
目指すは「雑学王」です(笑)。
画像は「サザエさんの赤ちゃん誕生」のひとこま・・・
よ---くヘアをご覧ください。サザエさんのヘアスタイルの前髪部分はずいぶんとオリジナルとは違っています。
これはチエミさんの希望だったのかも??なんて、先般の川崎市民ミュージアムで一挙公開されたときに思いました。
ヘアデザインは、中洲通信にも登場するチエミさんが大いに信頼を置いていた「中塚愛子先生」かも知れませんね?! とってもキュートです!!
ちなみにこの映画は1960(昭和35)年の作品です。
私も35年生まれ・・・ このタラちゃんと私は同い年だったりもします。

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1 コメント

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より漫画に近い (ゆり)
2019-01-18 23:46:12
サザエさんは戦後女子の流行語沢山江利チエミさんが映画ドラマでその前東屋さんのはフイルムのこっていないより漫画に近い最古のサザエさん私の父母が0代も8歳の頃は映画は最高のご楽立ち見のあたり前私の幼児の頃は映画は名画座そのまたデパートや下町の横浜橋に中古も封切りから1年たったの5本立はあたり前東屋さんのは噂で聞き江利チエミさんのは私がタラちゃんくらい49年前にモノクロ映画看板手描きので看板しょく人の見てサザエさんアニメ化は本当は2クール延長大阪万博夏休みまた放送延長翌年の3月までまた放送延長で終わらないこれからもサザエさん初代は宝塚ジエンヌ娘役が漫画の通り江利チエミさんはアニメの私サザエでございますは声はおそ松君の声にている江利チエミさんと初代はサザエさんで江利チエミさんもアニメはカツオくんからタラちゃんが今も多い見て見たい東屋さんの映画サザエさん幻マスターフイルムで 
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