江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

【227】 マイ・フェア・レディのこと

2006年03月13日 | 続・江利チエミ(初期記事・後編)

このところ反芻記事も多くなってしまいますが、
今日はマイ・フェア・レディの記事をアップします。

江利チエミ・雪村いづみ・・・どちらがイライザに?という話にも諸説ありますが、これまでもイロイロ調べてみて「商業演劇としてどっちが集客できるか」という部分でチエミさんに軍配が上がったと見るのが一番強い線のように思えます。
ショウ・マン・シップの塊のような「江利チエミ」に東宝が集客を託したといえると思います。
なにしろ当時の日本は「ミュージカル」がまだまだ不毛の地。
団体客というマーケットにこの「ミュージカル」の切符は売れなかった。
当時の東宝劇場の営業マンで後の演劇企画室長、渡辺邦夫氏は当時を振り返って、「団体客なしといういうのは、東宝の演劇営業面では画期的なことだった。一枚一枚切符をうるのがどんなにたいへんか、よくわかった。」と述懐しています。(朝日新聞社刊/戦後芸能史物語より引用)

伝統ある歌舞伎を有する「松竹」に対して、東宝は「劣等感を強くいだいていた」節が当時はあったそうです。
東宝には、歌舞伎の松竹に対してオーケストラを使った音楽劇の伝統があった。
宝塚歌劇、エノケン・ロッパ劇、そして菊田一夫が演劇担当重役になってから東宝ミュージカルの名で作り出された音楽入り喜劇。
しかし、ブロードウェイ・ミュージカルの素晴らしさが伝わってきだすと、本格的なミュージカルへの欲求が、俳優からも観客からも高まっていった・・・
アメリカ事情に通じていた当時の東宝副社長/森岩雄氏が菊田氏を昭和37年、アメリカに渡らせて「王様と私」など3本の上映権を買ってきた。
ホンモノへの挑戦がはじまったのです。
そして、その中から「マイ・フェア・レディ」はトップを切って上演されることになった・・・という流れがあったそうです。

そして、ヒギンズ教授には森繁久弥さん、フレディには高島忠夫さんが決まり、宣伝用の写真の準備もできた。
しかし、その段となって「森繁さんは持病の通風が悪化して突如降板」をすることになります。そこで、高島さんがヒギンズ、フレディには急遽「藤木孝さん」が抜擢されることに・・・
稽古初日、その配役変更を知らされていなかったチエミさんは怒って「私は出演するかどうかわからない」とスタッフとの間でひと悶着もあったそうです。

この「森繁降板」には、どうも「海のものとも山のものともわからない危ない橋は渡れない」という森繁さんの逃げであったのでは?というのが有力です。(のちに森繁さんは屋根の上のヴァイオリン弾きをライフ・ワークとします。)

しかし、この出航前から沈没寸前のような「マイ・フェア・レディ号」は、処女航海(昭和38年9月)から大ヒットとなり、初日のアンコールは5~6回も続いた・・・と云われるほどの大成功を収め、初演の公演期間中に4ケ月後の再演も決まります。
切符は団体客をひとつもとらずに完売したのです。

再演の幕があいたばかりの39年1月4日午前1時過ぎ、イライザの父/ドゥリットル役の八波むと志さんが交通事故を起こし重体に、そして9日の朝に亡くなってしまいます。
4日未明、事故の知らせをうけた佐藤勉プロデューサーは菊田氏と相談し、代役に小鹿番(当時の小鹿敦)氏を抜擢。小鹿さんの稽古は朝5時から始まってその日の舞台に間に合わせたのだそうです。

 


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