江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ ずいぶんまえの動画ですが・・・

2020年10月28日 | 江利チエミ(続編)

高倉さんが亡くなられたときの動画

いまなお悲しいおはなしです。

義姉(Y子)の引き起こした事件... 
チエミの実母と幼くして生き別れになったY子は名古屋で家庭をもって暮らしていた。ある日「テネシーワルツでスターになった歌手/江利チエミ」が自分の妹であることを知る。(母のプロフィール:谷崎歳子の名でそれを知る。)経済的に困窮している、家庭がうまくいっていないと虚実を語り、家政婦・付き人といった形で江利チエミ一家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得てゆき、最終的にはチエミの「実印」を預かるまでになった。ここからY子の捻じ曲がった感情によるいわれのない「江利チエミへの復讐」が始まる。

高倉、チエミにはそれぞれの「誹謗中傷」を吹き込み、離婚への足がかりをつくり、チエミ名義の銀行預金を使い込み、あげくは高利に借金をし、不動産は抵当に... 事件発覚後も「チエミへの誹謗中傷を週刊誌で発言、容疑否定」をし、挙句は失踪、自殺未遂まで... チエミは自己破産をせず責任は自分でとると決意、断腸の思いで義姉を告訴。義姉には実刑判決が下る。2億とも4億ともいわれた動産の被害、不動産担保... チエミは一人で完済した。

義姉のことはここから「Y」と表現します。

Yは昭和8年4月に名古屋のN尋常小学校に入学します。
この学区は繁華街から程近く、東京で言えば麹町の番町小学校...といった裕福な商家の多い地域だった。しかし彼女の家は芸者置屋さんに出入りして着物のつくろいをして生計をたてる貧しい家庭だった。
しかし、Yは家業の手伝いもしながら決して卑屈なことろはみせない成績も優秀で1年~5年生まで級長を務めるような子供で、学芸会の演劇や、物語の読み聞かせが得意な少女だった。
彼女の育ての母はとても人柄のいい人間であったが、Yが6年生の時に早世します。
そして貧しいがゆえに女学校には進学できない...そんな事情から急に成績は落ちていった...と(級友の証言より)。
そして育ての母から亡くなる前に「あなたの本当のお母さんは旅芸人だった」と聞かされます。

チエミさんとYの実母、谷崎歳子さんは「東京少女歌劇」という大正末期から昭和初期に流行した「少女歌劇」という名のレビュー劇団のスターでした。
その劇団の座長格だったSという俳優と結ばれ巡業中にYを生みますが、谷崎歳子さんはS氏とは別れ、楽団長であった久保益雄さんと結婚し新たな家庭をつくります。
Yは養女に出されることに...

Yは小学校(高等科)を卒業後、当時は難関であった電話局に市外通話係として2年勤務した後に昭和18年に退社、鉄工所の女工に転職。
また、愛知県西春村の児童疎開の炊事婦に転職、終戦は養父母の弟の家で家事手伝いをしている時に迎えます。
名古屋も大きな戦争による被害をこうむったことがこの転職につながったのか...
あるいはより高い給料を求めてのことだったのか...
昭和21年11月、Yは腕のいい仕立て屋のY氏と結婚します。
「腕に職のあるひとは喰うに困らない」...と。

Yが「江利チエミ」に異常なまでの興味を持つようになったのは昭和28年7月のこと。
江利チエミの母が「東京少女歌劇」のスター「谷崎歳子」と知ったからです。『あの歌手が私と血のつながりのある人間かも知れない』...と。

(S氏の率いる東京少女歌劇は東京から名古屋に大正9年8月に本拠地を移しています。名古屋で養女に出されたというのは、こういった事情からだったかも知れません。)

Yはチエミさんの父に連絡をとり、面会に行きます。
姉とは名乗らずにYは父君のはからいでチエミさんとも面会します。
(当初2~3年の間、チエミさんはYを「ファンのひとり」と思っていたそうです。Yが義姉と知るのはマネージャーでもあった長兄のトオルさんから聞いてからだったとか...)
名古屋市N区の市営住宅に暮らすY子の暮らしは決して豊かではなかった。
夫は病弱で仕事がままならなくなっていた。

(※すべてこれらのことは、テレビ番組や林真理子の小説と事実が異なります!Yの旦那さんが足が不自由とか姑と折り合いが悪いとか...そして次に書き込みますが江利チエミ邸に入り込むのも、ずっとずっと後のことです。)

夫婦には3人の男の子が居た。
保険の外交員、ライトバンを運転して地方への干物の行商までして家計を支えます。

しかし、それから10年...生活苦に追われた昭和40年の春、彼女は幼馴染の女友達Aさんを頼って「単身」で上京します。
AさんにYは、「夫と別れて子供たちと東京に勤めたい」と相談します...
Aさんはご主人のツテでYの長男を臨床検査技師の見習いをしながら定時制高校に通うように計らってあげます。
そしてYは久保家・江利チエミさんを頼って、下の子供2人を伴って住み込みで家政婦として働かせてもらうことに...
チエミさんは、当時のご主人に相談し承諾を得ると瀬田の邸宅の敷地に彼女たちの住まう「離れ」をつくり迎えいれます。


この頃からYの態度に変化が起こります。
まぶしいほどの芸能人の生活が彼女の正気を奪ってしまったのかも知れません。
旧友たちに横柄な態度をとりだしたのだとか...
世話になったAさんには、「これが私の半生記よ!」と『江利チエミに復習したい』などとしたためた大学ノートをみせたり、「私はこれだけ尽くしているのに、チエミは冷たいのよ!私はあの夫婦の面倒を見なくっちゃいけないのに寝る暇もない...それなのに給料は3万円なのよ」...などと。

※様々な記述からYの虚言癖が見え隠れするのでこの3万円という金額は信憑性にかけますが...もし3万として、当時のサラリーマンの平均月収は7.5万円です。離れを建ててもらった=家賃は0。生活費・光熱費...これは全て瀬田の小田家の経費負担だったでしょうし。大卒初任給は22,553円ほど... つまりは今の約1/10と云えます。
これは相場としてどうだったのか...と考えると、非常によい!と考えるべきではないかと思われます。

「スター」と「住み込み家政婦」という「境遇の違い」。そして、息子が通ったであろう学校は「東京屈指の高級住宅街」にあった...
Yは自分の小学校時代を思い出さざるを得なかったのでしょう。
子供も自分と同じ境遇になってしまった...と。
Yの精神は完全に「破綻」してしまったのでしょう。

煙草ではゴールデンバット=30円、国電(現/JR)初乗り=10円、ラーメン一杯=75円相場...というのが昭和40年でした。
この年のヒット曲には、柔(美空ひばり)、赤坂の夜は更けて(西田佐知子)、さよならはダンスの後に(倍賞千恵子)、そして「網走番外地(高倉健)」などがあげられます。
高倉健さんはついに「ヤクザ路線」で東映の大スターに駆け上がっていく年でもあったのです。

このころ、江利チエミさんはパンパンに帆を張ってミュージカルにドラマにステージに舞台にと、マルチな大活躍をしていたまさに絶頂期でもありました。
しかし、張り詰めすぎた閉塞感もいがめなかった時期だったようにも思えます。
自分の「これ!」とい方向性をいまいち出せなくなってしまってきた...
まるで、ありとあらゆる「期待」に「応える」ことを「使命」と感じていたかのように...

昭和40年代初頭、チエミさん夫妻も人生の「分水嶺」に差し掛かった時、Yの感情はいびつに捻じ曲がったまま「笑顔の後ろで」確実に「膨張」していきました。
そして、そんなYに付け込む人間が現れるのです・・・

昭和44年3月下旬、Yは名古屋の知人から「特許がとれたら莫大な利益があがるから投資しないか」とそそのかされ、三回に分けて800万円をチエミさんに無断で投資してしまいます。ここからYの犯行ははじまります。最終的に現金の横領金額は1億8000万に及びます。うち本人が8000万を着服した形でしたが、残りの1億は金融業者に...つまりはブローカー相手に雪達磨式に膨れてしまったものになってしまいます。素人がまんまと「食い物」にされたのです。

しかし、この時点でもYはAさんに「同じ母親から生まれてどうしてチエミだけがチヤホヤされるのか...私は運命が恨めしい!耐えられない!」などと語っていたのだとか...

事件は動産だけでは留まりませんでした。
46年8月の初め...小田智恵美(離婚前のチエミさんの本名)名義の手形で1,700万の金を借り、利息に追われると今度はその利息分を金融業者に融資を依頼します。
その業者にYは、千駄ヶ谷の久保家(実家)の土地建物の登記簿を渡してしまうのです。

チエミさんが電撃離婚を発表するのは、9月3日のことです...
6月、梅田コマ・江利チエミ特別公演中に「江利チエミ名義の不当たり手形が出回っている」といった噂が清川虹子さんにも入ってきます。
当時はまだこの事件のことは世間に発覚していませんでした。
チエミさんはひとり「添っていけなかった私が悪い」と離婚会見に臨みます。

ゆえに...
 江利チエミが高倉健に離縁状!といった形の報道がされてしまったのです。

離婚会見までが「義姉の企み」という報道も事件発覚後にはありましたが...
6月には四方八方から「借金」の話は耳に入ってきたわけで、離婚記者会見前に「義姉の事件のこと」は発覚していたのでは...という見方の方が説得力があります。
自分の身内が引き起こしたこと... やはり彼女は自分ひとりでこの問題を背負う決意をしてしまったのでしょう。

しかし...もしこれが当初の週刊誌の報道のように「離婚会見まで義姉が仕組んだ」としたら...離婚という「結果」に導いた後に、事件を発覚させ失踪したのだとしたら...
Yという輩は、もはや人間とは呼べない生物だと云えます。

元々Yには「虚言癖」があったのでしょう...
彼女の境遇を考えればそれもある意味納得できる部分があります。
自分は本当はシンデレラなんだ...と。

Yは、事件が発覚後、失踪騒ぎや自殺未遂騒動を起こしたり、週刊誌に向けて「江利チエミを誹謗中傷する記事」を発信します。
司法にこの事件が委ねられたあとも...
チエミさんと共演者の仲が怪しかった...
 喉を診てもらっていた先生との仲が怪しかった...などなど、あることないことを供述したりしました。勿論これら虚言の全てが法廷に証拠として取り上げられたわけではありませんでしたが... Yはこの期に及んでまだ<復讐>を続けていたのです。
この復讐は、もちろん「いわれのないもの」であり、おのれの不満のすり替えに過ぎない行為であったのですが...

昭和49年3月11日、東京地方裁判所206号法廷で、斉藤昭裁判長がYに下した判決は懲役3年...執行猶予はつかなかったものの、有価証券偽造、同行使、有印私文書偽造、同行使の罪としては「軽い量刑」でした。
すでに未決囚として600日拘留されていたため刑期はあと「1年半」ほどという判決でした。

チエミさんは控訴せず、一人数億に膨れてしまった借財を返済して行きます。

思えば彼女の人生の歯車が狂いだしたのは、Yの同居から始まってしまったように思えます。
 同居したそばから夫婦仲に水を差し...
  精神的にも追い詰められたことも要因だと思われる「声帯ポリープ」の手術(43年)
   瀬田の邸宅の焼失(45年)...この火災の原因は食堂部分の漏電とマスコミに伝えられていますが、当時の消防署の発表では「放火の可能性もある」という記述も残っています。
広い敷地であったことが幸いし、延焼しなかった為に事件は「漏電の可能性」ということで終結しました。
そして46年離婚... と、まさに常人には耐えられない事態が5年余の短い期間にチエミさんの身に降りかかったのです。

事件はマスコミの知る処となり、Yの顔は週刊誌などでも大きく報道されてしまいました。
Yも拘束されるまでは自分から週刊誌の取材にも答えていました。

さて、話はY逮捕後になります・・・

Yの息子さん3人とご主人は、埼玉県のある市でこのYの出所を待っていた...のです。
Yのご主人は「私がここに出てきてから5年...仕事も軌道に乗ってきた。妻のことは世間様の下す判決が本当なんです。子供たちにもそう言い聞かせています・・・女房も獄中から家族と一緒に暮らしたいといってきてるし、出所してきたらここに迎えてやりたいんです。」と(昭和49年の段階で)インタビューにこう答えていました。

Yも、事件が明らかにされていくにつれ態度は改まった(?)のか...
>チエミさんへの憎しみや妬みは少しもなかったのです。悔やんでいます...
      ・・・と、後悔の情は述べてはいましたが...

Yの国選弁護士だった長瀬弁護士に宛てた手紙には次のような一節があります。
>人間はどんな苦しみも悲しみも耐え切れないことはない、今このひとときを過ぎれば、それは皆過去という名のもとに過ぎ去って行くものであることもさとりました、ただ耐えることの本質的なものを知った上での忍耐でなければならないと自分にいい聞かせて居ります・・・

私には「このひとときを過ぎれば」というYの手紙の内容・・・
                     身勝手すぎる!と思うのですが・・・
 ※もっとも自分の弁護士宛ての手紙ゆえのこと・・・と云われればそれまでですが。

チエミさんはこれで終わりではなかったのです。
民事の訴訟はまだまだ続いたのです。
一生懸命、たったひとり「仕事」で彼女は全ての借財を清算していくのです。
全てを失ったも同然の状況で...
    それは「たった1年半」では終わらなかった... のです。

女の復讐心の中には自分自身を刺す刃がある...
 しかし、そんな形容では済まされるような「ただ悲しい女の物語」ではないと思います。近親憎悪...と言葉で片付ければ簡単ですが。
社会的な地位の差、経済的な差... これは埋められなくても「憎しみ」や「恨み」などを持ってしまったら...自分が惨めになるだけです。
ましてやそれを実行に移したとしたら・・・
         そのとき人間は「鬼畜」に成り下がるのです。
しかし、そう云いながら未だに私はYというあの鬼が許せないで居るのです。私のなかにも「鬼畜」が住んでいる・・・ということになるのかもしれません...




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