シャープス&フラッツのリーダー...原信夫さんはチエミさんを評してこのような内容でインタビューに答えました。(NHK総合テレビ・あの人あの芸/江利チエミの回)
>チーちゃんとは本当に日本全国通津浦裏まで一緒に回りました。当時ジャズは若者に熱狂的な支持を受けていましたが、それは「都市部/都会の若者」に限られていた。それが「テネシーワルツ」がヒットしたことで「ジャズが広く日本中で受け入れられるようになった」のだ。
彼女は、たしかにルーツは外国の歌のコピーでした。しかし、それはただのコピーではなく、日本人のハートをそこに込めて歌った。だから日本国中で彼女の歌が支持された。今日、こうやってジャズが日本に定着したのは彼女のおかげです。
ナンシー梅木さん、雪村いづみさん、ペギー葉山さん...この皆さんの初期の歌唱に感じるものは「白人テイスト」と「外国人になりきって歌う」ということと「2の線で歌う」ということでしょうか?!
大して江利チエミさんは「クロッぽい」ということと「ありのままの作らない声で歌う」ということ(言い換えれば2枚目路線で歌っていないとも)、そしてなにより「日本人のテイスト」を強く感じます。
歌のテクニックは数段ナンシーさんのほうが上だったと思います。しかし、ナンシーさんの歌、笈田敏男さん...多くの先人ジャズ歌手の歌は「ジャズファン」だけからの指示という範疇を越えることができなかったと思います。「江利チエミ」の登場はその「結界...ダム」を一気に打ち砕いた...ともいえるかと思います。この江利チエミ登場もナンシー梅木さんが本場アメリカへの渡米を決心させた大きな要因だったとも言えると思います。また、江利チエミデビューによって「意識のダム」が決壊したことにより、白人テイストで2の線でアメリカ人テイストで歌う「いづみ/ペギー」という路線が世にでるきっかけともなったのだと私は考えています。
当時ジャズは、豊かなアメリカ...夢の国の象徴でもあったけれども、その音楽を指示することは「敗戦国民の軽薄な心理」の象徴である...という反面アンチなスタンスの人々からは蔑視されていた部分があったと思います。
「ヤンキーゴーホーム」...こんな言葉が巷で流行っていた時期でもあったのです。
その確かに難しい時期、サンフランシスコ講和条約締結...独立国ニッポンの再生...ちょうどその時が江利チエミのテネシーワルツなのです。
ゆえにただ「アメリカ人のごとく立派にアメリカの歌を歌う」というだけでは決して日本全国通津浦裏まで簡単に「アメリカのカバー曲」はヒットしなかった。(もちろんチエミさん以前に池真理子さんが「ボタンとリボン」などのヒットは飛ばしていましたが...池さんのジャズはかなり流行歌になっておりジャズテイストが薄かったことがセールスに繋がったと私は考えています。感覚的にはバタ臭い流行歌として捉えられていたのではないでしょうか?)
江利チエミが「西洋浪曲テイスト」を自然に織り交ぜて歌ったテネシーワルツだったからこそあの昭和27年に大ヒットに繋がったのだと思います。和田寿三ディレクターが「チャンポンで行こう!」と英語だけで歌わないというアイディアを出したこともヒットの大きな要因でしょう。
昭和27年のヒット曲をほかに列挙すると...
美空ひばり/りんご追分 渡辺はま子/あゝモンテンルパの夜は更けて ...フィリピン・モンテンルパでは日本兵が戦犯として捕虜となっていた... まだまだ戦争の傷は深く癒されていない時期だったのですから...
日本のワルツも負けてはおられんと神楽坂はん子さんの「芸者ワルツ」もテネシーワルツのある意味アンサーソングとして誕生し、ヒットを飛ばします。
江利チエミ・テネシーワルツは、他の流行歌と初めて肩を並べたカバー曲でもあったともいえると思います。
そしてこの昭和27年、この年は歌本で有名な「明星」が発刊された年。(27年10月)
社会における民衆の熱狂が、それまでの祖国とか愛国心とかいうのではなく「流行歌手」「スター」へと移動した...そんな時代だったのだと考えます。
大きな時代のうねり...江利チエミという歌手が果たした役割はまったくもって「膨大なもの」であったのです。
以下「テネシーワルツが聴こえる」から引用
>アメリカ講和特使、J・F・ダレス長官が任を終えて帰国する羽田空港のことである。日本を良く知る長官に敬意を持っている記者団の中から満を持した質問が飛び出した。
「日本の印象はいかがですか?」
するとダレスは笑顔で答えた。「素晴らしい文化のお土産が、このカバンの中に詰まっています。」
「大切なダレス・カバンですね。長官?それは、日本についての論文ですか?」
「ちがいます。これは君達がよく知っている天才ミュージシャンのレコードですよ。(中略)まだ幼い少女歌手ですが、日本にもこんなに素晴らしいシンガーがいる。名前は江利チエミ。彼女の歌っているテネシーワルツは私の母国で歌ったパティ・ペイジと同じくらいうまい」...
江利チエミのテネシーワルツは、昭和27年という時代への「アンサー・ソング」だったように思えます。
※原さんはともかくとっても元気です。チエミさんの分も元気で何時までも第一線で活躍して欲しい!...本当にそう願っています。
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