江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

44) うーーでぶ流・美空ひばり論  雪村いづみさんの受難のこと

2005年06月14日 | 江利チエミ(初期記事・本編)
私は美空ひばりというひとは、その人自身が 高慢 だったり 尊大 だったり... そういった風なことの無い人で、むしろ「純真無垢というか歌以外は無頓着」で「歌の事しか考えてない」...そんな人だった。少なくとも初期はそうだったと思うのです。
美空ひばりさんが済生会福岡病院に入院する直前、昭和62年3月31日に、肉親のこと(一卵性親子といわれたママ/喜美枝さんのこと。後を追うように早世した2人の弟のこと)を聞かれたインタビューでこう答えています。
>私は世間でいわれているほど、親孝行でもなければ、弟思いでもなかったんですよ。
美空ひばりであり続けたのは自分のためであって親孝行にはあたらない...と。
>おふくろはたいへんだなぁってことは感じていましたよ。逆に他の三人(妹弟)を放ってきちゃったんですからね。私ひとりの為に、だからね、かっこいい言葉になっちゃうけど、兄弟の事がすごく気になっちゃって、ある程度やったっていうことは、やっぱり自分が母親を独占しちゃったから、その分、何かきょうだいに少し分けてあげないと自分が納得できない、ということだったんですよ。・・・
しかしその思いは弟達への「甘さ」となり結果として美空ひばりの付録として最後の最後までひとり立ちすることなく逝ってしまった...と述懐しています。

とはいえ...美空ひばり を作り上げたプロデューサーはママ・喜美枝さんだったことは事実。
ママが ひばりのデコレーションを作り上げ、自分が病の床に伏すまで「ひばりの言葉=ママの言葉」であったと思われます。
ゆえに「美空ひばり」という人も、人間としてかなりの年齢になるまで「ひとりだちしていない未成年であった」ともいえると思うのです。
そのかわり...美空ひばりは歌の事だけを考え、自分がいかに美空ひばりであるべきかを考え、実践すればよかった...あとはみなママ(そして田岡組長とか...)が大きな傘になってくれる。
ゆえに歌謡界の女王に昇りつめることが出来たように思えるのです。
わずらわしいこと...9歳でデビューしてママが亡くなる昭和56年まで...きっと彼女は「ひとりで考え、対処する」そんな必要の無い生活を送っていた... そう思えるのです。
そのかわり ママ も偉大だった。
なにしろ「美空ひばり」を傷つけないことに関しては天下一品!

江利チエミさん、雪村いづみさんと「決定的に異なる点」は、美空ひばりは生涯「金のため」に歌わなくて済んだ...ということにあると思います。
チエミさんもいづみさんも「女手ひとつ」に家族の生活がかかっていた...最初からもコレは大きな差です。そしてチエミさんはあろうことか義姉による数億の借財の返済に奔走する10年を過ごします。
いづみさんも昭和30年頃から、母親による大事件に巻き込まれます。
いづみさんの母、恵子さんはかつて結核で入院していた主治医と再婚します。(30年6月)
2年後に1児をもうけます。その時、恵子ママは、ひばり・チエミと対抗するいづみが肩身の狭い思いをしないようにと尾山台に建坪330㎡の豪邸を建築、さらにアパートも建築し、夫が院長に納まるための病院まで建設します。
しかし「神武景気」というバブルが崩壊...予定していた銀行融資が白紙になり、あろうことか高利の金に手を出してしまう。ちょうどその前、渡米しテレビ番組への出演も果たし、その事件が泥沼化してしまうちょうどその時には「ベルリン映画祭」に招待をうけ、3ケ月に渡る「親善大使」としての渡欧でした。しかしこれはその間の「現金収入が途絶える」ということでもあり、高利の借金は雪達磨式に膨れ上がる...
皮肉なめぐり合わせです。世界に認められだした「ちょうどその時」だったのです。また、この泥沼へと向かっていってしまった時期はいづみさんが「ニッコリ笑って三人娘映画に出演していた時」ともリンクするのです。
しかし借金は行き詰まり...豪邸は売却!アパートも売却!そして再婚した相手とは別居...この事実は34年9月に夕刊紙がすっぱ抜きました。
膨大な当時7千数百万の借金は雪村いづみさんひとりにのしかかります。利息の支払いだけで月に数百万を支払う泥沼を経験するのです。
このときいづみさんはポリープの手前の「謡人結節」に侵されます。喉は「精神的ショックが一番よくない」のです。歌もメロディが平坦な「シェーン」と「ユーアーマイディステニィ」の2曲しか歌えない状態...彼女が凄い本数の映画をこの時期にこなしている本当のわけはこれです。歌を半ば「休業」したことでなんとか翌年の春に喉が回復します。
(初期のキィキィと響く声質はここでむしろマイルドになった...ともいえます。災い転じて福となす...声を失わなかったことはいづみさんの幸運でした。)
週刊誌はそれまで「雪村いづみの家庭で起こった事件」を騒ぎ立て、喉のことでは「再起不能」とまで書かれます。そしてちょうどその時期3年越しの交際をしていたミッキー・カーチス氏との仲ももやもやしていた... 彼女は半ばやけっぱちでアメリカからの仕事のオファー「ホリディ・イン・ジャパン」というショウへの6週間の出演契約をミッキーさん、そしてマネージャーの木倉氏にも相談せずにサインして渡米をします。この渡米...を知り、出発直前にそれまで優柔不断な態度をとっていたミッキーさんが婚約指輪を送ったとか。この「ホリディ・イン・ジャパン」の公演先、フィラデルフィアの劇場でテンプル大学に通う20歳の青年が掃除のアルバイトをしていました...そう、このひとこそが雪村いづみさんの最初の夫/ジャック・セラー氏です。公演は好評を博し延長になっており、すでにその時渡米してから4ケ月の歳月が流れていたとか...その間、なんの連絡もミッキーさんからはなかったのだとか...
一方的婚約破棄、米国人青年と結婚と騒がれましたが...その報道もちょっと一方的でいづみさんに可哀想でもあります。
この公演のギャランティは1$=360円の頃...借財の返済に大きく貢献したのも事実だったでしょう。
雪村いづみさんも「修羅場を潜り抜けた経験」があるのです。
ひとり残った3人娘...80歳まで現役で歌う!と目標をかかげておられます。
いづみさんならできる!...いつまでも頑張って歌い続けて欲しいと願っています。

美空ひばりさんは、こういった事件に巻き込まれることはなかった。
弟さんの事件...とかはありましたけどね。勿論そのときは「ほとんどの日本人から石を投げられたも同然の辛酸をなめた」のですが...
なにが起こっても「美空ひばり」という「ブランド」を喜美枝ママは命をかけて守り抜いた...のです。
この点がなにより歌手「美空ひばり」にとって幸せなことだったと思います。
美空ひばりという歌手人生が今、多くの人から賞賛を受けるのは、なにより喜美枝ママの力が大きかったと思います。ドラマにもなる美空ひばりとママの人生...それはやはり「誰にも真似の出来ないもの」だったと思います。喜美枝ママは全身全霊をかけて「美空ひばり」を守りぬいたのです。
少々、手段を選ばない部分や、強引な部分はあった...ですが。


※ひばりvsチエミと初期に騒がれたことがありました。
イロイロ騒がれたことも要因は「ママのチエミさんへのけんせい」が一番大きかったようです。
最初に「平凡」で対談が実現するときも、喜美枝ママは1つの条件を出しています。
「チエミちゃんははきはきしていて、お口もお上手のようですから、うちのお嬢が負けてしまう。だからお嬢を引き立てるような司会者にしてもらいたい」...と。
喜美枝ママ...ちゃんとチエミさんというひとの情報を収集していたことが手にとれます。
この司会者は、高田浩吉さんが選ばれます。
このblogでも過去の記事などを引用して紹介したとおり、チエミさんは「しっかり自分の足で立った芸人」のスタンスを最初から持っていましたから...
ゆえに喜美枝ママの「けんせい」も納得がいくような気がします。
この「平凡」の対談のことは、またあとでふれてみたいと思います。


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