キングのオーディションに合格。会社は当初デビュー曲を「ダイナ」「私の青空」でチエミ側に打診しています。しかし少女歌手江利チエミは「仕事には一切の妥協をしない」...アンファンテリブルでもあったようです。「いまごろそんな古臭い歌を歌ったら私の損になる」と...
この事実もあまり語られていませんが、30周年記念のLP「チエミグラフィティ-」のライナイノーツの中のインタビューでもこう応えています。(資料提供/J・Yさま)
>キングレコードが「ダイナ」と「ブルーヘブン」でデビューさせるというのに、私は半年程ほっといていたんですよ。これはだいたいディックさん(ディック・ミネ)が歌って物凄くヒットして、「ダイナ」といったらディックさん...。
※にっぽんの歌(現/テレ朝)という歌番組...これにディックさんが準レギュラーで出演していた時期がありました。たしか前半は三橋美智也さんと「新相馬節」などを披露したあと、後半ドレスチェンジをしてディックさんと「私の青空(マイブルーヘブン)」を全編英語で共演したことがあったと思います。
>そうじゃなくって、私は「テネシーワルツ」と「カモンナマイハウス」がいいんだと心に決めていたんです。そしたら和田寿三さん(ディレクターで初代/音羽たかし...として訳詩を担当。以後、チエミさんのディレクターが2代目、3代目とそのペンネームを引き継ぎます。)からぶ厚いとても丁寧な手紙を貰ったんです。だから「テネシーワルツ」と「カモンナマイハウス」ならってお返事して、決まったわけなんです。
コロムビア(ここは初めから美空ひばりが居るからムリと思っていたとか...)/ビクター/ポリドール/テイチクと軒並み断られていた...最後の望みをかけてようやく合格したキングレコード...しかし少女は妥協はしなかったのです。
※テイチクでは、チエミさんと「白鳥みずえさん」とのテストが一緒になり、文芸部長は最終的に白鳥を採用し、チエミさんを落としました。彼は後になって「後悔先に立たず」を痛感したとか...
彼女の希望は和田ディレクターの尽力で実現します。そして歌詞は「日本語と英語のチャンポン」で行くことに...
しかし、レコーディング前日。彼女は和田さんに電話を入れるのです。
>ワルツにあの詩は乗らないの。あの詩では歌えない...
ここでレコーディング前日、いわば即興で歌詞を書き換えて...ようやくレコーディングとなったのです。
>去りにし夢 あのテネシーワルツ 懐かし愛の歌
面影偲んで 今宵も歌う(うとう) 美し(うるわし)テネシーワルツ
...この部分の歌詞はレコーディング直前に完成した歌詞なのです。
ここで、「あの詩はワルツに乗らない」と涙ながらに少女歌手・江利チエミが訴えたもとの歌詞をご紹介します。
>涙で聴く あのテネシーワルツ 儚い恋のうた
一人で帰った あの夜も聴いた 美し(うるわし)テネシーワルツ
日本語は全て「母音で終わる」ことばです。しかし確かに Namidade kiku より Sarinishi Yume のほうが耳障りがよく、 Omokage shinonnde koyoimo utou の方が流れがよく、
Hitoride kaetta anoyomo kiita...これではせっかくのメロディが寸断されてしまってスムースに歌えない...と私も思います。
(ためしにこのフレーズを歌ってみると判ります。)
私生活では、どんな苦労も災難も困難もじっと我慢して、他人にはそんな辛さを見せないで、放り投げることなく最後まで自分一人で責任をとる...古い義理堅い日本人の典型だったと思います。
しかし、仕事に対してのスタンスは、嫌なものは嫌!出来ないものは出来ない!なにより自分の仕事にプライドを持ち、プロとしての責任感が強い...誰に教わるわけでもなく彼女はこのアメリカナイズした感覚を身に付けていた。それはきっと彼女の五感が、針を落としたレコードから感じ取ったものだったような気がします。
江利チエミはまぎれもなく昭和27年という時代に呼ばれてデビューした歌手といえると思います。
ここから戦後は形をかえていったのだと思います。
まぎれもなく、時代を代表する歌手...なのです。
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