底本にしたのは、『平賀元義歌集』(斎藤茂吉・杉鮫太郎編註、岩波書店、1938年)である。
この歌集から抜粋して「SDつきぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組み、大和綴(やまととじ)で製本してみた。
大和綴とは表紙の上から結んで綴じたもので、結び綴ともいわれる。料紙を折らずに一枚ずつ重ね、表紙の右側の端の上下から数センチのところに二つ穴をあけて、数本の糸で綴じた。
料紙の重ね方は、料紙の中央から折った料紙を重ねてもよく、左右どちらにきてもよいそうだ。また穴の数も四つ、八つの場合があり、紐などで綴じることもある。歌書などの装訂に見られる。外側に結び目が出ているので、房のように装飾的な感じにしてみた。
平賀元義(1800–1866)は江戸末期の歌人である。備前国岡山藩士の子として生まれたが家督を弟に譲り、中国地方を流浪したりもして奔放に生きた人物であった。賀茂真淵(1697–1769)に私淑し独得の万葉調の歌をつくった。その鮮烈な歌風は正岡子規(1867–1902))によって評価され脚光を浴びた。岡山県立和気閑谷高校の構内などに歌碑がある。
この歌集から抜粋して「SDつきぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組み、大和綴(やまととじ)で製本してみた。
大和綴とは表紙の上から結んで綴じたもので、結び綴ともいわれる。料紙を折らずに一枚ずつ重ね、表紙の右側の端の上下から数センチのところに二つ穴をあけて、数本の糸で綴じた。
料紙の重ね方は、料紙の中央から折った料紙を重ねてもよく、左右どちらにきてもよいそうだ。また穴の数も四つ、八つの場合があり、紐などで綴じることもある。歌書などの装訂に見られる。外側に結び目が出ているので、房のように装飾的な感じにしてみた。
平賀元義(1800–1866)は江戸末期の歌人である。備前国岡山藩士の子として生まれたが家督を弟に譲り、中国地方を流浪したりもして奔放に生きた人物であった。賀茂真淵(1697–1769)に私淑し独得の万葉調の歌をつくった。その鮮烈な歌風は正岡子規(1867–1902))によって評価され脚光を浴びた。岡山県立和気閑谷高校の構内などに歌碑がある。
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