底本にしたのは、詩集『世界の民衆に』(正富汪洋著、新潮社、1925年)である。この詩集では、前半の世界改造の志を訴えた詩と後半の叙情的な詩とが同居している。
この詩集の前半部分を「SDゆきぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組み、線装で製本してみた。
線装とは明代の万暦期以後に流行した装丁法で、二つ折りにした紙の折り目を左側にして重ね、右側に穴をあけて糸や紐で綴じる方式である。綴じた糸や紐が装丁の一部になる。中国では線装というが、日本では唐綴もしくは明朝綴と呼ばれている。袋綴の一種で、康熙綴・亀甲綴・麻葉綴・五目綴(朝鮮綴)などのバリエーションがあるが、一般的な四目綴(四針眼訂法)を採用した。
はじめての体験なので綴じ方がゆるく、ちょっと不細工になった。
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正富汪洋(1881–1967)の詩は、膨大な数にのぼる。五七調から、短い詩、長編の詩、散文詩、民謡調の詩まで、まことに多彩だ。幼馴染の竹久夢二(1884–1934)ほどには知られていないが、その実績は夢二にひけをとらない。夢二と遊んだ岡山県瀬戸内市の国司ヶ丘には詩碑がたてられている。
正富汪洋の晩年の著作に、『明治の青春 与謝野鉄幹をめぐる女性群』(北辰堂、1955年)と『 晶子の恋と死——実説『みだれ髪』』(山王書房、1967年)がある。汪洋と与謝野鉄幹(1873–1935)、与謝野晶子(1878–1942)とはあさからぬ関係があるのだ。
鳳(与謝野)晶子が、先妻をおしのけるかたちで与謝野鉄幹と結婚したはなしはよく知られているが、その先妻である林滝野と結婚したのが汪洋なのである。この結婚には父親が猛反対し、汪洋は勘当されてしまう。汪洋はまだ学生だったので、夫人が郵便局につとめて生計をたてたそうだ。
この詩集の前半部分を「SDゆきぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組み、線装で製本してみた。
線装とは明代の万暦期以後に流行した装丁法で、二つ折りにした紙の折り目を左側にして重ね、右側に穴をあけて糸や紐で綴じる方式である。綴じた糸や紐が装丁の一部になる。中国では線装というが、日本では唐綴もしくは明朝綴と呼ばれている。袋綴の一種で、康熙綴・亀甲綴・麻葉綴・五目綴(朝鮮綴)などのバリエーションがあるが、一般的な四目綴(四針眼訂法)を採用した。
はじめての体験なので綴じ方がゆるく、ちょっと不細工になった。
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正富汪洋(1881–1967)の詩は、膨大な数にのぼる。五七調から、短い詩、長編の詩、散文詩、民謡調の詩まで、まことに多彩だ。幼馴染の竹久夢二(1884–1934)ほどには知られていないが、その実績は夢二にひけをとらない。夢二と遊んだ岡山県瀬戸内市の国司ヶ丘には詩碑がたてられている。
正富汪洋の晩年の著作に、『明治の青春 与謝野鉄幹をめぐる女性群』(北辰堂、1955年)と『 晶子の恋と死——実説『みだれ髪』』(山王書房、1967年)がある。汪洋と与謝野鉄幹(1873–1935)、与謝野晶子(1878–1942)とはあさからぬ関係があるのだ。
鳳(与謝野)晶子が、先妻をおしのけるかたちで与謝野鉄幹と結婚したはなしはよく知られているが、その先妻である林滝野と結婚したのが汪洋なのである。この結婚には父親が猛反対し、汪洋は勘当されてしまう。汪洋はまだ学生だったので、夫人が郵便局につとめて生計をたてたそうだ。