typeKIDS Report

活字書体を使う人のための勉強会

平賀元義の歌集を組む-つきぐみノーマルで読む『平賀元義歌集』

2017年09月03日 | typeKIDS_Library
底本にしたのは、『平賀元義歌集』(斎藤茂吉・杉鮫太郎編註、岩波書店、1938年)である。



この歌集から抜粋して「SDつきぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組み、大和綴(やまととじ)で製本してみた。



大和綴とは表紙の上から結んで綴じたもので、結び綴ともいわれる。料紙を折らずに一枚ずつ重ね、表紙の右側の端の上下から数センチのところに二つ穴をあけて、数本の糸で綴じた。
料紙の重ね方は、料紙の中央から折った料紙を重ねてもよく、左右どちらにきてもよいそうだ。また穴の数も四つ、八つの場合があり、紐などで綴じることもある。歌書などの装訂に見られる。外側に結び目が出ているので、房のように装飾的な感じにしてみた。



平賀元義(1800–1866)は江戸末期の歌人である。備前国岡山藩士の子として生まれたが家督を弟に譲り、中国地方を流浪したりもして奔放に生きた人物であった。賀茂真淵(1697–1769)に私淑し独得の万葉調の歌をつくった。その鮮烈な歌風は正岡子規(1867–1902))によって評価され脚光を浴びた。岡山県立和気閑谷高校の構内などに歌碑がある。

近松秋江の小説を組む—はなぐみノーマルで読む『黒髪』

2017年08月27日 | typeKIDS_Library
底本にしたのは、小説『黒髪』(近松秋江著、新潮社、1924年)〈「名著復刻全集 近代文学館」〉である。



この小説の「一」から「六」までの部分を「SDはなぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組んだ。「S塾」(正宗白鳥)、「赤とんぼのこと」(三木露風)を併載し、手製本してみた。



今まで本文を行書体で組むということもなかっただろうし、そもそも行書体(漢字書体)は本文書体として設計されてはいない。タイプフェイスとしての行書体はほとんど筆耕士の手によるもので、案内状や宛名書きなどに使用されることが多いと思われる。しかしながら、江戸時代まで小説や詩歌の類は「御家流」とよばれる日本独自の書写体による木版印刷だった。この漢字書体もちょっと違和感があるのだが、和字書体さえ工夫すれば行書体(漢字書体)で本文を組むことは可能なのではないかと考えた。「SDはなぐみノーマルW3」は、明治時代の木版教科書の本文(手紙文)を参考にして制作した和字書体である。



近松秋江(1876-1944)は岡山県和気町の出身である。和気神社の境内に文学碑が建つ。この文学碑には「京の春」の中の一文が刻まれている。秋江の色紙を拡大したそうだが流麗な筆跡である。
岡山県尋常中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学、上京して慶應義塾に入るが父の急逝により二ヶ月で退学。波乱万丈である。いろいろあって再度上京し、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。東京専門学校の同級生に、同郷の正宗白鳥(1879-1962)がいた。一時同じ下宿で暮らしていたこともあり、お互いの作品に相手とおぼしき人物が登場するほどの強い因縁で結ばれていたそうだ。作家としての地位を確立したのは、『別れたる妻に送る手紙』や『黒髪』を代表とする情痴文学である。筆名の近松秋江は、近松門左衛門への傾倒からだそうだ。

正富汪洋の詩集を組む-ゆきぐみノーマルで読む『世界の民衆に』

2017年07月23日 | typeKIDS_Library
底本にしたのは、詩集『世界の民衆に』(正富汪洋著、新潮社、1925年)である。この詩集では、前半の世界改造の志を訴えた詩と後半の叙情的な詩とが同居している。



この詩集の前半部分を「SDゆきぐみノーマルW3」(和字書体のみ)で組み、線装で製本してみた。



線装とは明代の万暦期以後に流行した装丁法で、二つ折りにした紙の折り目を左側にして重ね、右側に穴をあけて糸や紐で綴じる方式である。綴じた糸や紐が装丁の一部になる。中国では線装というが、日本では唐綴もしくは明朝綴と呼ばれている。袋綴の一種で、康熙綴・亀甲綴・麻葉綴・五目綴(朝鮮綴)などのバリエーションがあるが、一般的な四目綴(四針眼訂法)を採用した。



はじめての体験なので綴じ方がゆるく、ちょっと不細工になった。



正富汪洋(1881–1967)の詩は、膨大な数にのぼる。五七調から、短い詩、長編の詩、散文詩、民謡調の詩まで、まことに多彩だ。幼馴染の竹久夢二(1884–1934)ほどには知られていないが、その実績は夢二にひけをとらない。夢二と遊んだ岡山県瀬戸内市の国司ヶ丘には詩碑がたてられている。
正富汪洋の晩年の著作に、『明治の青春 与謝野鉄幹をめぐる女性群』(北辰堂、1955年)と『 晶子の恋と死——実説『みだれ髪』』(山王書房、1967年)がある。汪洋と与謝野鉄幹(1873–1935)、与謝野晶子(1878–1942)とはあさからぬ関係があるのだ。
鳳(与謝野)晶子が、先妻をおしのけるかたちで与謝野鉄幹と結婚したはなしはよく知られているが、その先妻である林滝野と結婚したのが汪洋なのである。この結婚には父親が猛反対し、汪洋は勘当されてしまう。汪洋はまだ学生だったので、夫人が郵便局につとめて生計をたてたそうだ。

竹久夢二を組む

2016年03月27日 | typeKIDS_Library
『童話集 春』は、竹久夢二による全19篇を収載した唯一の童話集です。大正ロマンの香り漂う1冊です。センチメンタルな画風の画家として、あるいは「宵待草」の作詞などで広く知られる竹久夢二が、子供向けの雑誌に挿絵を描き、童謡や詩を発表していることはあまり知られていません。



この童話集から3作品を選んで、それぞれ「いぬまる吉備楷書W3」「さるまる吉備隷書W3」「きじまる吉備行書W3」で組んでみることにしました。「吉備」という書体名は、「柊野(ヒラギノ)、「筑紫」に(知名度として)並び称せられるように、古代国家の名称から選びました。
ちなみに、竹久夢二は岡山県の出身です。岡山市の後楽園のとなりには「夢二郷土美術館」があります。また岡山駅近くには「吉備路文学館」があり、竹久夢二の著書なども所蔵されているそうです。




「いぬまる吉備楷書W3」で読む「大きなこうもりがさ」
「いぬまる吉備楷書W3」は、筆者が第14回(1996年)石井賞創作タイプフェイス・コンテストに出品し、残念ながら2位になった書体をもとに、あらためて自分の筆跡をベースにしてフェルトペンで書いた楷書体です。その制作にあたっては、『近代孔版技術講座基礎科第1部テキスト』(実務教育研究所孔版指導部編集、財団法人実務教育研究所、1971年)に掲載されていた楷書体を参考にしました。
漢字1006字だけの書体なので、不足する漢字については、やむをえずひらがなに開いていますが、童話集なのでその量は多くありません。



「さるまる吉備隷書W3」で読む「人形物語」

「さるまる吉備隷書W3」は、第15回(1998年)石井賞創作タイプフェイス・コンテストのために試作していた書体をもとに、あらためて自分の筆跡をベースにしてフェルトペンで書いた隷書体です。その制作にあたっては、かつて謄写版印刷などで書かれていた手書きのゴシック体を参考にしました。
「いぬまる吉備楷書W3」と同様に漢字1006字だけの書体なので、不足する漢字については、やむをえずひらがなに開いていますが、童話集なのでその量は多くありません。



「きじまる吉備行書W3」で読む「日輪草 日輪草は何故かれたか」
「きじまる吉備行書W3」は、謄写版の書体には行書体は存在しなかったので、もっぱら『書道教範』(井上千圃書、文洋社、1933年)に掲載されたペン字による行書体をお手本にして制作しています。
本文が行書体というと最初は違和感があるかもしれませんが、慣れてくると読みやすいという感想が多く寄せられています。まだまだ改善する余地の多い書体です。もう少し右上がりにして筆勢をきびしくしたいと思っています。