宙(そら)日記

デモクラティックスクール宙(そら)、神戸サドベリーでスタッフをしていたターボウの個人ブログ

デモクラティックスクールで得られるもの

2008-12-23 23:59:44 | 学び
既存の教育・価値観の問題は、子どもの権利・尊厳を全く認めておらず、彼らを依存的な立場に縛って、18歳あるいは22歳ごろまで彼らに自分で物事を決めることを許さないでおきながら、その年齢になっていきなり「さぁ、自立しなさい」と言うことです。


それに対してデモクラティックスクールは、子どもが自分の物事を自分で決める権利を認めています。


しかし、ではデモクラティックスクールが子どもをまったく大人と同じように扱っているかというと、それは違います。


まず、デモクラティックスクールは、子どもが自分の衣食住のすべてを賄うことができるとは考えていません。学費は親が出すものと考えています。


ここには、いかにして人は依存からうまく自立した存在へと移行するかという問題が横たわっています。


人は、そして多くの動物は、子どもの間は大人に依存して生きざるを得ない存在です。衣食住に関しては、親が与えてくれなければ、自分で確保することができない存在です。


ただ私たちが犯す間違いは、その子どもの依存の状態をみて、「だから子どもは弱い存在であり、大人が全面的に守ってやらなくてはならない存在であり、子どもが正しい人間になるように教育してやらなくてはならない存在である」と考えてしまうことです。




本来人間は遊ぶ存在です。自分の好きなことをして喜ぶ存在です。


この遊びと働くこと・生きることとの関係を上手く調和させることは、人間が生きていく上での大きな課題の一つです。


わたしたちの社会では、多くの人はこの二つを調和させることができず、遊ぶことを犠牲にして、働いて生きています。


それだけではありません。多くの人は何をしているときに自分は一番“遊んでいる”のか、つまり楽しんでいるのか分からなくっています。


その原因の一つは学校教育にあるのは明らかですが、学校教育が出現した近代資本主義以前では人が遊ぶことと生きることとうまく両立できたのかどうかは分かりません。


ただともかく、既存の学校教育により、多くの人は子ども時代に自分の好奇心を犠牲にして、強制的に課された課題をこなすという不毛な時間を過ごしています。


これが問題なのは、その人の価値観・モノの見方が決定的に形作られる幼年・青年期において、今の社会では、「生きるためにはやりたくないことをしなければならない」という考え方を人は身につけるようになるということです。


デモクラティックスクールは、子どもの衣食住は親が賄うべきと考えていますが、それは、子どもにはまずその子の好奇心のおもむくままに生きることを覚えていって欲しいと考えているからです。


生活の糧を得るという課題に取り組む前に、まず“それをしていて楽しいということ”を子どもたちに見つけ出して欲しいと考えています。


そのような経験を子ども時代に思う存分することで、“遊ぶ”ということがその子どもの基本的な人生に対する態度となります。そのような態度を身につけた子どもは、きっと、生きるということと遊ぶということを調和させることが、大人になってからできるでしょう。


それは自分の好きなことを仕事にする場合もあれば、自分の仕事の中に好きなことを見つける場合もあるでしょう。


いずれにせよ、彼・彼女たちにとって、生きることは遊びであり、遊ぶことが生きることなのです。


そうなるためにも、彼らに必要なのは最大限遊ぶ自由です。


そして同時に、遊ぶ環境をどのように構築するのかという自由も得なければなりません。その環境が学校にあたります。この学校を自由に作ることができてこそ、初めて子供たちは自分の好きなように遊ぶことができます。


彼らにとっては、学校のルールを作ることは自由に伴う責任でありながら、同時に遊びと密接に関連しているのです。


学校という団体の場を自ら運営することで、自由に遊ぶためには、その環境を自分たちで管理しなければならないことを学びます。つまり、自由に遊ぶための環境は自分たち自身で創造しなければならないことを知るのです。言い換えれば、自由に遊ぶためには何が必要で何が必要でないかを知るのです。


そのことを知っていなければ、生きることと遊ぶこととを両立させる人生などは不可能です。


彼らは子どもという依存的な時期を経ながらも、自立した存在となるために必要なことを身につけていなければなりません。それが、上に記したような、デモクラティックスクールが与える経験なのです。

考える

2008-11-30 22:35:12 | 学び
人が何かに熟達するのによい方法は、それをすること、しかも多くすることです。あなたの脳をうまく使えるようになるには、できるだけたくさんあなたの脳を使わなければなりません。注意してください。ここで鍵となっている考えは、この「あなたの」という言葉に表れているのです。あなたがたくさん使わなければならないのは、誰かのではなくて、あなたの脳なのです。そして、本当にそのことが上手くなるには、できるだけ早い段階から、つまり生まれた時からそれをしなければなりません。自分の脳を自由に使うため、また脳が受け取る錯綜した情報を巧みに扱う技術を身につけるために、そして問題を解決する際の失敗や成功を経験するためにより多くの自由を子どもが持てば持つほど、そしてこれらのことを生まれた時から行うために子どもがより多くの自由を持てば持つほど、彼または彼女が <考えること> に熟達する見込みはより大きいでしょう。 (Daniel Greenberg "Worlds In Creation" p.42 )


ある保護者の人と話していた時、「街で見かける学校に通う子どもと比べると、デモクラティックスクールの子どもたちは逞しく見える」と私は言いました。それは逞しく現実を生きているという意味です。学校という保護された空間に閉じ込められておらず、現実社会の複雑さを受けとめながら生きているということです。


それに対してその保護者の人―彼女は二人の子供を宙(そら)に通わせているのですが―、が私に言った印象的な言葉は、「デモクラティックスクールの子どもの方が頭をよく使う」といったものでした。


「逞しい」という言葉と「頭をよく使う」という言葉は意味は同じではありませんが、デモクラティックスクールの子どもの特徴をよく言い表しています。


デモクラティックスクールの子どもをみていると、たしかに頭をよく使うという印象をもたされます。


彼らは無駄なことをしないし、そのとき自分に興味のあることに取り組んでいるので、その分野で熟達するためにどうすればいいかをつねに考えているように見えます。


自分で考えようとしなければその人の脳が発達することはないと、上の文章は主張します。科学的なことは私は分かりませんが、そりゃそうだろうと思ってしまいます。


自分で考えることができる人。


子どもにそうなって欲しいのなら、まさに彼or彼女たち自身に<考え>てもらうことです。そのために大人にできることは、指示を与えないことです。彼or彼女たちが考える機会を奪わないことです。


子どもたちに<考え>てもらうためには、大人が子どもの代わりに考えるということをやめなければなりません。


手放さなければなりません。




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    都会のサドベリー・スクール
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現実的

2008-11-04 23:20:23 | 学び
デモクラティックスクールの子どもたちの特徴をひとつ挙げるよう言われたら、私は「現実的なところ」と答えます。


デモクラティックスクールの子どもたちは、考え方が現実的です。


彼らは多くの大人のように論理のための論理を振り回すことがありませんし、多くの大人のように自分の意見を主張をするのに感情的になったりもしません。


シンプルにものを考えます。


あるものが必要かどうかを考える時も、「将来あったら便利かも」という考え方はしません。


大人は“不測の事態”というものを考慮したがります。「もしああなったら」「もしこうなったら」と考え、なかなか決断を下せなくなります。


デモクラティックスクールの子どもたちは、今必要かどうかを考えます。


彼らは現実的にものを考えます。


わたしは、彼らは常識という名の偏見にも、また夢のような妄想にもとらわれずに生きていくのではないかと感じています。


多くの大人は、常識や思い込みの苦しみから脱しようと、心理学や自己啓発やヒーリングに取り組みます。


それらはもちろん素晴らしい。


でも、デモクラティックスクールの子どもたちは、そういうものに頼らなくとも、現実をちゃんとみることができる大人になるように見えるし、すでにそうなっているようにみえます。


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構築を見守る

2008-10-20 00:50:03 | 学び


ご存じのように、デモクラティックスクールでは子どもたちが自分の好きなことをすることができます。


しかし単に子どもにしたいことを自由にさせたいだけなら、わざわざ子どもを学校に行かせる必要はありません。衣食住を与えるだけで、あとは好きにさせていればいいだけです。


だから、子どもに好きなことをさせることと、デモクラティックスクールに子どもを通わせることとは違います。


また、デモクラティックスクールでは学校のルールを決めるミーティングに子どもも大人も平等な権利を持って参加することができますが、これはデモクラティックスクールが子どもを大人と同様に正しい判断力を備えているとみなしているからです。


しかし、だからといってデモクラティックスクールが子どもを完全に大人と同じとみなしているとは言えません。


そもそも大人と同じとみなしているなら、上で述べたことと同じように、わざわざ子どものための学校を作る必要はないのです。


もちろん子どもは大人と同じように物事を正しく判断する能力を備えています。しかし子どもは大人として社会に出ていくために準備はしなければなりません。ゼロ歳の子供を路上に置いていては、もちろんちゃんと育つことはできません。しかし、5歳の子供も10歳の子供も社会に出て行くには早いのです。


人間以外の動物を見てみてください。生まれていきなり親に見捨てられる子どもはいますか?


私たち人間だって同じです。


いきなり子どもを一人にしても世界で生き抜いていくことはできません。


では、子どもが大人として社会に出て行くまでにしていなければならない準備とは何なのでしょうか?


動物であれば狩りの仕方でしょう。


しかし、西洋社会は狩猟の段階をすでに通り抜けています。


農耕の段階も。


そして、工場で働く段階も、です。


これまでの学校教育は、工場労働に合わせて作られた教育でした。


それは文字通り工場労働だけではなく、官僚組織をも含んだ労働です。


大きな組織であれ小さな組織であれ、上からの命令に従うことを強いられる労働です。


今でもそのような労働は多く残っています。


しかし同時に、多くの人はもはや組織に属して上からの命令に従うだけの人生を選択しなくなっています。


自由への渇望です。


この自由への渇望は、自己実現への渇望、とも言ってよいものです。


単に制約がないことを求めているのではありません。


自分を実現することを求めています。


では、大人になって自分を実現するために、子どもが子供時代にしていなければならないことは何でしょうか?


それは、その子にしかわからないことです。


また、その子にしても、自分のやることが将来結び付くかどうかも分からないでしょう。


大切なのは、その子がそのときしたいことをできる環境を大人が整えていることです。


これは放任によって可能なことではありません。


子どもがしたいことをするには、それなりの空間が必要です。


また、親の目は届かない方がよい場合が多いでしょう。


子どもはただでさえ親に依存して生きているのですから、親の目を脅威に感じます。


だから、子どもがしたいことをできる環境と同時に、親の目が届かない環境が必要です。


またそこには、子どもがしたいことを手助けしてあげることができる大人も必要です。


しかし、同時に、親は子供に愛情だけでなく、信頼をも常に送っていなければなりません。


家に帰れば子供は親と一緒にるのであり、休日も一緒にいるのであり、つまりデモクラティックスクールに通っていても子どもは日々の大部分を大人と一緒に過ごしているのですから。


デモクラティックスクールは、大人の子どもへの信頼によって成り立っています。それは放任ではありません。


子どもが自分とスクール(=社会)を構築する過程を見守ることを意味します。


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参考:「秋と言えば…」 おどるかつおぶし。

   「斎藤保育とデモクラティック(サドベリー)スクール」 makko*sanのBLOG~沖縄人生エキスパート編~

自然

2008-10-08 12:35:36 | 学び


宙やまっくろくろすけで今、私たちのメンバー・保護者・スタッフが執筆した『自分を生きる学校』を寄贈することを行っています。


その寄贈先の候補の一つとして、自然出産を実践されている助産院が挙がっています。


自然出産とデモクラティックスクールがどう結びつくのか、子どもを生んだことも生ませたこともない私は最初ピンと来ませんでした。


でも、よく考えたら、普通に結びつくのかもしれません。


自然出産は、安易に科学技術に頼らない形で出産することを志向されているのだと思います。


デモクラティックスクールは、工場で製品を作るように、教室でテキストを教えれば正しい知識が身につくという考えを拒否します。


どちらも、人を安易にコントロールするという発想・考えを否定する点で共通するんですね。



ただ、あるデモクラティックスクールのスタッフで自然出産を経験した方もおっしゃっていたのですが、デモクラティックスクールは科学技術を否定して自然に触れることを志向する教育というわけではありません。


教育にも色々な形があります。その中には、コンピュータやゲームに子どもを触れさせないようにする教育もあるでしょう。


それに対してデモクラティックスクールの子どもはゲームもパソコンも大好きです。


一日中ずっとゲームをしている子どももいます。


でも、子どもを見ていると、ずっとゲームをしているように見えても、本当にずっとしているわけではないことがわかります。


いろいろしているなかで、ゲームをするときもあるのだということがわかります。


また、ゲームに熱中する姿は、野球や勉強や漫画に熱中する姿と同じだということが分ります。


勉強をしていて目が悪くなることもあれば、ゲームをしていて目が悪くなることもあるでしょう。


なのにゲームが批判されるのは、ゲームからは何も学べないと大人が思っているからです。


でも、そういう考え方がデモクラティックスクールでは通用しません。


ある事柄に取り組み、一つの状態にとどまらずに上のステップに進むと言うプロセスこそが学びであり、ゲームはまさにその例に当てはまるのです。


でも、そんな言い方をしなくても、子どもがゲームに熱中する姿を見ていれば、そこには何かあると考えるのが普通です。



デモクラティックスクールの自然とは、その人本来のあり方をすることです。その人本来のあり方とは、固定した・停滞した状態ではありません。


その人にとって必要なことはその人にとってわかるのであり、人をコントロールせずに人を信頼する、というのがデモクラティックスクールの考えです。

熱中

2008-10-05 17:24:36 | 学び
吉本隆明さんに『子供はぜーんぶわかってる』という著作があります。


その中で、子どもが遊びに見せる“熱中”している姿をめぐって、吉本さんと対談相手の小学校の先生が次のように話しています。

子どもの熱中の度合いがあまりにもすごいことをその先生は言います。たとえば自分たちで「花壇の柵など少し高い所を逃げ回る、地面に着かないでする鬼ごっこ」を考案するなど。

それを受けて、吉本さんは子どもと大人にとって“熱中”することの意味は変わらないといいます。そして、要するに熱中とはどういうことかを次のように述べています。


大人が生活の中の三分の一である勤め場所で熱中する……ここで真面目じゃないと、どういう考え方から言ってもあまり真っ当じゃない気がするんです。そこでだけは意識して怠ける時を除いて、熱心な人の方がなんとなく良いなぁと。

賃金仕事は生活の根底に触れる問題だから、そこで怠けている人よりは評価が良いのは僕らの中でも同じです。僕は大きい本屋さんも小さい本屋さんも付き合いがありますが、あまり誤植が多かったり、話が通らない投げやりなところがあったりすると、やっぱり嫌だなぁと思います。(p.76)


吉本さんは、子どもにとって遊びが仕事だ、と言います。そうであるなら、たんに鬼ごっこをするのではなく、「花壇の柵など少し高い所を逃げ回る、地面に着かないでする鬼ごっこ」を考案することは、より難易度の高いハードルに挑戦するという意味で、正しく仕事をしていると言えます。


そして、それは大人が自分の仕事をまじめにこなすことと等価なのです。


また、熱中していなければ、子どもは生きながら死んだ状態にあるも同然、、とも言えるでしょう。


でも、20世紀になって一部の国を襲った「学校」という制度の普及は、子どもが熱中する機会を排除してきました。


私自身の記憶では、小学校から帰って異様に熱中して遊んでいたのを思い出します。小学校まではそうやって遊んでいました。


学校にまつわる嫌な出来事はもちろんありましたが、思いきり遊ぶ時間もありました。


学校の成績で人間を分ける見方もまだついていませんでした。


しかし中学になると、そのような余裕も完全になくなってしまいます。



今も、小学生は遊びの時間を自分たちで見つけて熱中して遊んでいます。


しかし、そのような熱中する時間を私たちの社会は子供たちに十分には与えていません。


彼らは、学校の休み時間(=「遊び時間」)や放課後のわずかな時間をみつけて遊んでいるのです。


大人は、本来は、働いている時間の間は熱中していなければなりません。つまり、熱中できる仕事に取り組んでいなければなりません。


でも、私たちは知っています。そのような大人は多くはないことを。


なぜなのか。おそらく、子どもの時から熱中することを抑えていたら、自分のやりたいことが何なのかは分からないし、ましてやりたいことを仕事にするなどということも不可能でしょう。


子どもに、大人になっても仕事に熱中し、真っ当な大人になって欲しいのであれば、子ども時代から熱中する時間と環境を彼らに与えるべきではないでしょうか。


デモクラティックスクールはそのための一つの試みです。


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学ぶ力

2008-10-03 13:42:24 | 学び


わたしがよく読ませてもらっているブログ “404 Blog Not Found”の「学力って本当に低下しているのだろうか?」はとても興味深いです。


ここで著者の小飼弾さんは学力について次のように言っています。


私にとっての「学力」の定義は、読んで字のごとく「学ぶ力」、すなわち「わからなかったことをわかるようにする力」だ。はじめから「わかっている」必要は全くない。極端な話、何も知らなくても、誰に聞いたらわかるのかを知っている人の学力は、8割のことを知っていても残りの2割を誰に聞いたらいいのかわからない人よりもずっと学力は高いのだ。


これはデモクラティックスクールの考える“学ぶ”ということと同じだと思います。

「子どもは大人になるための準備として教科を学習しなければならない」という考えは世の中に根強く残っています。

しかし大人はみんな知っているように、社会で生きていく上では、学校で学ぶ知識はほんの少ししか、あるいは全く役に立ちません。

実社会には直接役に立たないことを子ども時代に勉強しながら、大人になってあらためて必要な知識を人は学んでいるのです。

おそらくわたしたちは、生きているかぎり未知の問題にぶつかり続けます。そのとき必要なのは、あらかじめ色んな知識を知っていることではなく、分らないことを自分で調べる癖であり、力です。

生きていくにはそのような力が必要です。しかしわたしたちの社会では、ただ教科書を覚え込ませることを子どもに強いて、自分がぶつかった問題を自分で解決するような機会を与えていません。

人は自分の興味のある問題に取り組むとき、自分から解決策を調べようとします。だから自分で問題を解決する癖を身につけるには、子ども時代に自分の好きなことに徹底的に取り組んでいる必要があります。

しかし、もちろん既存の学校では、子どもが自分のやりたいことを追求できる時間はありません。それだけでなく、やりたいわけではないことを強制されることで、自分が好きなことは何なのかまったくわからないまま大人になります。

そのために、わたしたち大人の多くは、「自分の好きなことが何なのか分からない」と言います。

だから、“問題”にぶち当たることもありません。


それに対しデモクラティックスクールでは、子どもたちはいつも“問題”にぶち当たります。それを解決するよう子どもたちは迫られます。


彼らが今すぐ教科のテストを受けさせられたら、何点取るかは分りません。


しかし、頭の良さ、つまり生活の中で問題を解決する力は遙に他の学校の子供より上だと思います。また現実の社会に関する知識も。彼らは世の中の仕組みについて実によくわかっています。


本当の学力を身につける上で、デモクラティックスクール以上に相応しい学校があるのかどうか分かりません。



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ふだんの想い

2008-09-17 23:10:24 | 学び


宙(そら)はフリースクールとは異なります。


フリースクールと言っても意味はまちまちですが、フリースクールを「居場所」として、つまり学校に疲れた子どもの休む場所としてとらえた場合です。


そういった場所は必要だとわたしは思います。


学校という組織は、子どもに指図して強制的に一定の行動をとらせようとしている点で明らかに不自然であり異常です。


そのような学校に行かされた子どもが疲れるのは自然なことです。


だから、そのような子どもが休む場所も必要です。



ただ同時に、宙(そら)のスタンスは、「入学してくる子どもには積極的に学校にかかわって欲しい」というものです。


これは、宙(そら)がデモクラティックスクールである以上避けられないことです。


デモクラティックスクールである以上、子どもたち自身が学校の運営に積極的にかかわらなければなりません。


こまごまとした雑事はスタッフがしなければなりません。


しかしルールはメンバーが作らなければならないのです。


また、デモクラティックスクールでは誰も何も子どもに強制しません。


それゆえに、メンバーは自分で何をするのかを考えなければならないのです。


自然な人間関係として他の人が話しかけてくることはあります。


でも、誰かが「かまう」ことはありません。


カウンセラーが来ることもありません。


学校全体で行う「行事」もありません。


自分のことは自分でしなければならないのです。


そういう場所である以上、メンバー自身が「この学校に自分から関わっていこう」という想いが必要になってきます。


それゆえに厳しい場所でありますが、同時に学校のやり方に合ってくると、その子どもはとてもパワフルになります。


そのような子どもが多くなるほど、学校はその活気を幾何級数的に増していきます。


それは子供たち自身の間でいい影響を与え合うことになります。



だってそうでしょう?


すべてを自分で判断できる子どもたちが、お互いにその場にいるのです。


活気が生まれないわけがありません。



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何かを感じること

2008-09-08 00:34:53 | 学び


今日は宙(そら)で総会がありました。


メンバー、保護者、スタッフが集まって、2008年度上半期の活動報告と、下半期の活動計画の承認を行いました。


私は広報担当で、他の提案とともに、公式HPのデザインと内容の変更を提案しました。


しかし、何をどう改善すべきかについて、具体例、つまり実際のデザイン等を示さなかったため、出席者の人たちの共感は得られませんでした。


具体とは、すなわち形をそなえていること。


HPの変更の提案のようなものは、かならずを人に見せないと、説得するのは難しい。



ところで、「具体的」な経験とは、何かに直接触れたり、あるいは体験したりすることを意味します。


人は具体的な経験や具体的な事物から、もっとも多くのことを学びます。釣りの本を読むより、実際に釣りをする方が学べるように。


既存の学校教育の問題点は、文字を羅列した情報を頭に詰め込むことに終始し、何かを「体験」「体感」することがほとんどないことにあります。


このことの問題点はすでに多くの教育者に気づかれているでしょう。やたら絵や写真が入ったテキストを使ったり、「体験学習」と称して田舎に子どもを連れていったりするのは、少しでも文字情報以外の学びをさせたいと思っているからでしょう。


しかし、デモクラティックスクールの立場から見れば、それらによって子どもたちが、「生き生きとした体験」をすることは、ないと言えます。


「体験」「体感」ということが、もし体を動かすことによってもたらされるなら、体育の時間や部活動によって子どもたちはそれができていることになります。


子どもたちが何かを「具体的」に感じたり、「体感」したりするためには、ある物・対象に対して、問題関心・好奇心をもたなくてはなりません。


つまり、それら物・対象に対して向かう気持ちがなければ、そこから何かを感じることはないのです。


もし都会の子供が田植えをしても、彼or彼女が田植えに面白さを感じなければ、それはつらいだけの拷問になります。それでは、彼が水や土や草を実際に触っていても、そこから彼が何かを学ぶこともないでしょう。


もし子供たちを「トライアル」と称して無償で働かせても、彼自身がその仕事に興味を持っていなければ、それは学校で教科書を読む作業と何も変わらないでしょう。


子どもに何かを「実感」「体験」してもらうには、子ども自身にやりたいことをしてもらうことです。


それはゲームかもしれませんし、ネットサーフィンかもしれませんし、テレビを視ることかもしれません。いずれにしても、それに彼or彼女が強烈な関心を抱いているのなら、彼らにとってはそれが何かを実感できる体験であり、そこから彼らは何かを学ぶことができるのです。


もし彼らが本当に教科書に好奇心を持つのなら、教科書を読むことだって立派な体験学習なのです。


人は、具体的な経験、具体的な物・事柄しか何かを学ぶことができません。


さらに言えば、人が何かに「具体性」を感じるのは、言い換えれば「生き生きとしたもの」を感じるのは、それに好奇心・問題関心をもつときです。


デモクラティックスクールにカリキュラムがないのは、人間の内側にある好奇心に子供たちに触れてもらいたいからです。



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参考:「昨日の報告会


   「世界一素敵な学校」No.1テニス上達道場日記

   

遊びの野球

2008-09-05 00:18:37 | 学び
今日はメンバーがそれぞれ野球や釣りを大阪や琵琶湖などでしていたので、スクールに来た子どもたちはいつもより少なめでした。


でも、スクールに来たメンバーと私で野球をしました。


外は、日差しはきついけれど、風は涼しくなっています。



3人で野球。


キャッチボールの後は私がノックをする役目で、メンバー(子ども)たちが守ります。


普段野球をしない私は、ただボールをバットで打つだけで緊張です。


だから、子どもたちのことを考えて加減をするとかあまり考えていなかった。


今思えば、ちょっときついノックだったろうか。


もうちょっと簡単なノックのほうがよかったかな。


でも、大丈夫だったんじゃないだろうか、とも思う。


いずれにしても、これからも子どもたちはしたいようにするのだから、大丈夫。




遊びの野球の楽しみを、どれだけの子供が知っているだろうか?


たしかに、経験のある指導者によるトレーニングによって多くの子供たちは野球やほかのスポーツをします。


でも、わたしは(自分の経験を振り返って)思うのですが、“野球部”“野球クラブ”になると、コーチの“命令”に沿って動くように強いられ、その分楽しみは減ります。


これは野球に限らず、サッカーなど他のスポーツにも言えることです。


「うまくなるためには、専門家による指導は欠かせない」と言う人もいるかもしれません。


その通りです。


でも、既存の学校の部活は、中途半端な指導者が無理やり子供たちに命令を下して全体練習をします。


そこには、スポーツの楽しみはありません。


もっと子供たちには、遊びでスポーツをする機会を増やしてあげたほうがいいでしょう。


“スポーツ・クラブ”や“指導者”など、本当はそんなに必要ないのです。そういうものは、プロやオリンピックを目指すごく一部の人たちにとってだけ必要なのであって、多くの子供には無用です。


むしろ子どもたちに必要なのは、遊ぶ環境であり、遊びでスポーツをする環境です。


遊びのスポーツ。それは、子どもたち自身が集まって、子どもたち自身の決定ですることです。


たとえば、ストリートサッカーやストリートバスケってそうでしょう?


サッカーをする楽しみに、芝生が必要なのでしょうか?


違うでしょう。


サッカーをする子どもたちに必要なのは、ボールと、ちょっとしたスペースと、そしてたっぷりの時間です。


そこには、“指導者”など必要ありません。


野球も同じこと。



多くの子供は、スポーツに興味を持っても、スポーツ・クラブや“部活”に入らないとスポーツができないようになっています。中学生や高校生はそうですし、今は小学生もそうなっていないでしょうか?グラウンドを見ても、小さな子どもが大人がいるところでユニフォームを着て野球やサッカーをしています。


べつにそれらが要らないと言いたいのではありません。


ただ、特別上手い子供でない限り、そういったクラブや部活は、ただつらいものなのではないでしょうか。



子どもたちには、もっと遊べる環境が必要です。


繰り返しになりますが、そのために子どもたちに必要なのは、たっぷりの時間。



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