サドベリースクールにはカリキュラムもテストも成績表もなく、子どもたちはゲーム・スポーツ・読書など好きなことができます。そこでは大人が子どもに「あれをしなさい」「これをしなさい」などと指図することはまったくありません。
しかし、子どもが好きなことだけをしていれば、それは混乱を引き起こします。例えば、ゲームをしたくても他の子との間で順番を決める必要があります。部屋の中で動き回りたくても、本を読んでいる子どもたちの邪魔をしてはいけません。スタッフと一緒にキャッチボールをしたくても、ほかの子どもがそのスタッフに勉強を教えて欲しければ、順番を決めなければいけません。
このようにサドベリースクールが学校である以上、そこには自分以外の子どもがいて、その子も自分の欲求を訴えるので、それら各人の欲求を調整する機会が必要になります。ミーティングはそのための機会です。サドベリーでは、無際限に子どもは自分のしたいことをできるのではなく、他人の自由や権利を妨害する場合には、話し合いで決まりを作っていきます。
●自由とは自分で考えて物事を決めること
決まり・ルールに従って行動しなければならないとしたら、サドベリーでは結局自由に行動できないと思う人もいるかもしれません。しかし、決まりをミーティングで決めること自体が、実は「自由」の一部です。
「自由」とは、自分で物事を起こすことを意味します。それに対して、欲望のままに生きることは「放縦」です。欲望がただ本能のままに自分を主張するのに対し、自由は意識的に自分のあり方を決定していくことです。自分で考えて自分で物事を決めていくこと、それが自由です。
ただ自分の欲望を主張する人は自分のしたいことを周りの迷惑を考えずにするので、周りを不幸にします。彼らは本能に従っているだけで、何がよいか悪いかを自分で考えていません。
それに対しひたすら自分の欲望を押し殺している人たちは、朝起きてから寝るまでのほとんどの時間をしたくない勉強やしたくない仕事をしてすごしています。彼らは規律に沿って生きていますが、それは学校や会社や社会から押しつけられた規律をそのまま受け入れているだけで、何がよいか悪いかを自分で考えていません。
それに対し、何がよいか悪いか、自分はどうあるべきかを自分で考える人は、自分のしたいことと他人がしたいことが衝突した場合、すべての人にとって公正なルールを作ろうとします。
ルールを作れば、自分のしたいことができなくなる場合があります。しかし、ルールづくりによってその人は自分がどうあるべきかを自分で考えることになります。そのように自分で考えることで初めて人は自由になります。
●自由と社会的公正
ロビンソンクルーソーのようでない限り、人は必ず他の人とともに社会生活を行います。人がそのように社会的な存在である以上、幸せに生きるためには、自分の欲望を主張するだけではなく、他の人とよい関係を保つことを人生の目標にしなければなりません。
ただ自分の欲望を主張する人は、低次元の欲求にとらわれています。それに対して、自分の欲望と他人の欲望が衝突した時に、それを調整するルールを作り、人同士が調和的な秩序を作りだすことは、単なる個人の欲望ではない、高いレベルの意識をその人がもっていることを意味します。
上で述べたように自由とは、自分の欲望に左右されるのではなく、そのような高いレベルの意識をもつことを意味します。自分と他人との関係・社会の秩序のよい在り方を自分で考えることこそが、自由の本質です。
●既存の学校とルール
自由民主主義の社会は、自由な個々人が互いの話し合いでルールを作り、そのルールを守ることによって成立します。もし小さい人(子ども)に民主主義社会を担う大人になって欲しいのであれば、彼らは社会・団体のルールを自分で作りそれを守る経験をしなければなりません。
しかし、現在の日本社会では、学校で子どもたちがルールづくりに参加することを許されていません。学ぶ内容を自分で決めることができないのは勿論、日常の学校生活に関わることも自分たちで決めることができません。
子どもは自分で団体・社会のルールを作るということを経験せずに、ただ上から与えられたルールを守ることを要求されます。しかし自分で納得することなく押し付けられたルールを守ることは、人にとって大きな心理的負担となります。そのため、多くの子どもはそのストレスを発散せるために、学校規則の違反やいじめに向かいます。
また私たちの社会では、学校時代に自分で団体・社会のルールを作るということを経験せずに、いきなり大人になると選挙権をもち、民主主義社会を担うよう要請されます。しかし、社会のルールを自分たちで決めるというプロセスを子ども時代に経験しないため、世界のほとんどの民主主義社会では、個々人が十分に熟慮したうえで投票することはありません。
●サドベリーとルール
それに対してサドベリーでは、子どもたちは自分の属する団体を自分が担っているという意識を早くから持ちます。自分が自由でいる権利がある以上、彼らは権威を恐れずに、自分の考えを率直にミーティングなどで表明します。
同時に、自分の意見と他人の意見が異なるときには、話し合い・投票による結果を受け入れます。自分の意見を明確に他人に伝えても、それが団体=社会が受け入れないときは、それは団体=社会の意思であるとみなして、社会の意思を尊重します。そのように子どもたちは自分の欲求よりも社会の意思を尊重します。それは納得した上での尊重なので、そこで作られたルールは厳正に守られます。
子どもたちにとって、ルールを守ることもまた、自分の意思で行う行為なので、自由の一部となります。
サドベリースクールがサドベリースクールルであるのは、このように子どもたち自身が学校を運営し、校内のルールを自分たちに合わせて作りかえることができる点にあるのです。
しかし、子どもが好きなことだけをしていれば、それは混乱を引き起こします。例えば、ゲームをしたくても他の子との間で順番を決める必要があります。部屋の中で動き回りたくても、本を読んでいる子どもたちの邪魔をしてはいけません。スタッフと一緒にキャッチボールをしたくても、ほかの子どもがそのスタッフに勉強を教えて欲しければ、順番を決めなければいけません。
このようにサドベリースクールが学校である以上、そこには自分以外の子どもがいて、その子も自分の欲求を訴えるので、それら各人の欲求を調整する機会が必要になります。ミーティングはそのための機会です。サドベリーでは、無際限に子どもは自分のしたいことをできるのではなく、他人の自由や権利を妨害する場合には、話し合いで決まりを作っていきます。
●自由とは自分で考えて物事を決めること
決まり・ルールに従って行動しなければならないとしたら、サドベリーでは結局自由に行動できないと思う人もいるかもしれません。しかし、決まりをミーティングで決めること自体が、実は「自由」の一部です。
「自由」とは、自分で物事を起こすことを意味します。それに対して、欲望のままに生きることは「放縦」です。欲望がただ本能のままに自分を主張するのに対し、自由は意識的に自分のあり方を決定していくことです。自分で考えて自分で物事を決めていくこと、それが自由です。
ただ自分の欲望を主張する人は自分のしたいことを周りの迷惑を考えずにするので、周りを不幸にします。彼らは本能に従っているだけで、何がよいか悪いかを自分で考えていません。
それに対しひたすら自分の欲望を押し殺している人たちは、朝起きてから寝るまでのほとんどの時間をしたくない勉強やしたくない仕事をしてすごしています。彼らは規律に沿って生きていますが、それは学校や会社や社会から押しつけられた規律をそのまま受け入れているだけで、何がよいか悪いかを自分で考えていません。
それに対し、何がよいか悪いか、自分はどうあるべきかを自分で考える人は、自分のしたいことと他人がしたいことが衝突した場合、すべての人にとって公正なルールを作ろうとします。
ルールを作れば、自分のしたいことができなくなる場合があります。しかし、ルールづくりによってその人は自分がどうあるべきかを自分で考えることになります。そのように自分で考えることで初めて人は自由になります。
●自由と社会的公正
ロビンソンクルーソーのようでない限り、人は必ず他の人とともに社会生活を行います。人がそのように社会的な存在である以上、幸せに生きるためには、自分の欲望を主張するだけではなく、他の人とよい関係を保つことを人生の目標にしなければなりません。
ただ自分の欲望を主張する人は、低次元の欲求にとらわれています。それに対して、自分の欲望と他人の欲望が衝突した時に、それを調整するルールを作り、人同士が調和的な秩序を作りだすことは、単なる個人の欲望ではない、高いレベルの意識をその人がもっていることを意味します。
上で述べたように自由とは、自分の欲望に左右されるのではなく、そのような高いレベルの意識をもつことを意味します。自分と他人との関係・社会の秩序のよい在り方を自分で考えることこそが、自由の本質です。
●既存の学校とルール
自由民主主義の社会は、自由な個々人が互いの話し合いでルールを作り、そのルールを守ることによって成立します。もし小さい人(子ども)に民主主義社会を担う大人になって欲しいのであれば、彼らは社会・団体のルールを自分で作りそれを守る経験をしなければなりません。
しかし、現在の日本社会では、学校で子どもたちがルールづくりに参加することを許されていません。学ぶ内容を自分で決めることができないのは勿論、日常の学校生活に関わることも自分たちで決めることができません。
子どもは自分で団体・社会のルールを作るということを経験せずに、ただ上から与えられたルールを守ることを要求されます。しかし自分で納得することなく押し付けられたルールを守ることは、人にとって大きな心理的負担となります。そのため、多くの子どもはそのストレスを発散せるために、学校規則の違反やいじめに向かいます。
また私たちの社会では、学校時代に自分で団体・社会のルールを作るということを経験せずに、いきなり大人になると選挙権をもち、民主主義社会を担うよう要請されます。しかし、社会のルールを自分たちで決めるというプロセスを子ども時代に経験しないため、世界のほとんどの民主主義社会では、個々人が十分に熟慮したうえで投票することはありません。
●サドベリーとルール
それに対してサドベリーでは、子どもたちは自分の属する団体を自分が担っているという意識を早くから持ちます。自分が自由でいる権利がある以上、彼らは権威を恐れずに、自分の考えを率直にミーティングなどで表明します。
同時に、自分の意見と他人の意見が異なるときには、話し合い・投票による結果を受け入れます。自分の意見を明確に他人に伝えても、それが団体=社会が受け入れないときは、それは団体=社会の意思であるとみなして、社会の意思を尊重します。そのように子どもたちは自分の欲求よりも社会の意思を尊重します。それは納得した上での尊重なので、そこで作られたルールは厳正に守られます。
子どもたちにとって、ルールを守ることもまた、自分の意思で行う行為なので、自由の一部となります。
サドベリースクールがサドベリースクールルであるのは、このように子どもたち自身が学校を運営し、校内のルールを自分たちに合わせて作りかえることができる点にあるのです。