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宙(そら)日記

デモクラティックスクール宙(そら)、神戸サドベリーでスタッフをしていたターボウの個人ブログ

サドベリースクールにおけるミーティング

2009-05-19 02:05:19 | ミーティング、ルール、民主主義
サドベリースクールにはカリキュラムもテストも成績表もなく、子どもたちはゲーム・スポーツ・読書など好きなことができます。そこでは大人が子どもに「あれをしなさい」「これをしなさい」などと指図することはまったくありません。

しかし、子どもが好きなことだけをしていれば、それは混乱を引き起こします。例えば、ゲームをしたくても他の子との間で順番を決める必要があります。部屋の中で動き回りたくても、本を読んでいる子どもたちの邪魔をしてはいけません。スタッフと一緒にキャッチボールをしたくても、ほかの子どもがそのスタッフに勉強を教えて欲しければ、順番を決めなければいけません。

このようにサドベリースクールが学校である以上、そこには自分以外の子どもがいて、その子も自分の欲求を訴えるので、それら各人の欲求を調整する機会が必要になります。ミーティングはそのための機会です。サドベリーでは、無際限に子どもは自分のしたいことをできるのではなく、他人の自由や権利を妨害する場合には、話し合いで決まりを作っていきます。


●自由とは自分で考えて物事を決めること

決まり・ルールに従って行動しなければならないとしたら、サドベリーでは結局自由に行動できないと思う人もいるかもしれません。しかし、決まりをミーティングで決めること自体が、実は「自由」の一部です。

「自由」とは、自分で物事を起こすことを意味します。それに対して、欲望のままに生きることは「放縦」です。欲望がただ本能のままに自分を主張するのに対し、自由は意識的に自分のあり方を決定していくことです。自分で考えて自分で物事を決めていくこと、それが自由です。

ただ自分の欲望を主張する人は自分のしたいことを周りの迷惑を考えずにするので、周りを不幸にします。彼らは本能に従っているだけで、何がよいか悪いかを自分で考えていません。

それに対しひたすら自分の欲望を押し殺している人たちは、朝起きてから寝るまでのほとんどの時間をしたくない勉強やしたくない仕事をしてすごしています。彼らは規律に沿って生きていますが、それは学校や会社や社会から押しつけられた規律をそのまま受け入れているだけで、何がよいか悪いかを自分で考えていません。

それに対し、何がよいか悪いか、自分はどうあるべきかを自分で考える人は、自分のしたいことと他人がしたいことが衝突した場合、すべての人にとって公正なルールを作ろうとします。

ルールを作れば、自分のしたいことができなくなる場合があります。しかし、ルールづくりによってその人は自分がどうあるべきかを自分で考えることになります。そのように自分で考えることで初めて人は自由になります。


●自由と社会的公正

ロビンソンクルーソーのようでない限り、人は必ず他の人とともに社会生活を行います。人がそのように社会的な存在である以上、幸せに生きるためには、自分の欲望を主張するだけではなく、他の人とよい関係を保つことを人生の目標にしなければなりません。

ただ自分の欲望を主張する人は、低次元の欲求にとらわれています。それに対して、自分の欲望と他人の欲望が衝突した時に、それを調整するルールを作り、人同士が調和的な秩序を作りだすことは、単なる個人の欲望ではない、高いレベルの意識をその人がもっていることを意味します。

上で述べたように自由とは、自分の欲望に左右されるのではなく、そのような高いレベルの意識をもつことを意味します。自分と他人との関係・社会の秩序のよい在り方を自分で考えることこそが、自由の本質です。


●既存の学校とルール

自由民主主義の社会は、自由な個々人が互いの話し合いでルールを作り、そのルールを守ることによって成立します。もし小さい人(子ども)に民主主義社会を担う大人になって欲しいのであれば、彼らは社会・団体のルールを自分で作りそれを守る経験をしなければなりません。

しかし、現在の日本社会では、学校で子どもたちがルールづくりに参加することを許されていません。学ぶ内容を自分で決めることができないのは勿論、日常の学校生活に関わることも自分たちで決めることができません。

子どもは自分で団体・社会のルールを作るということを経験せずに、ただ上から与えられたルールを守ることを要求されます。しかし自分で納得することなく押し付けられたルールを守ることは、人にとって大きな心理的負担となります。そのため、多くの子どもはそのストレスを発散せるために、学校規則の違反やいじめに向かいます。

また私たちの社会では、学校時代に自分で団体・社会のルールを作るということを経験せずに、いきなり大人になると選挙権をもち、民主主義社会を担うよう要請されます。しかし、社会のルールを自分たちで決めるというプロセスを子ども時代に経験しないため、世界のほとんどの民主主義社会では、個々人が十分に熟慮したうえで投票することはありません。


●サドベリーとルール

それに対してサドベリーでは、子どもたちは自分の属する団体を自分が担っているという意識を早くから持ちます。自分が自由でいる権利がある以上、彼らは権威を恐れずに、自分の考えを率直にミーティングなどで表明します。

同時に、自分の意見と他人の意見が異なるときには、話し合い・投票による結果を受け入れます。自分の意見を明確に他人に伝えても、それが団体=社会が受け入れないときは、それは団体=社会の意思であるとみなして、社会の意思を尊重します。そのように子どもたちは自分の欲求よりも社会の意思を尊重します。それは納得した上での尊重なので、そこで作られたルールは厳正に守られます。

子どもたちにとって、ルールを守ることもまた、自分の意思で行う行為なので、自由の一部となります。

サドベリースクールがサドベリースクールルであるのは、このように子どもたち自身が学校を運営し、校内のルールを自分たちに合わせて作りかえることができる点にあるのです。

スタッフを選ぶ

2009-03-12 23:11:59 | ミーティング、ルール、民主主義
どのサドベリースクールでも、スクールで働く大人=スタッフを子どもたち自身が選ぶ制度があります。

スタッフはすべて一年に一度の選挙を通じて選ばれます。何年働いていても、その選挙によってスタッフはスクールに来て働いてよい日数を決められます。

宙(そら)でも、2月の終わりから3月にかけて選挙が行われ、来年度のスタッフの構成が決まりました。


子どもが学校で働く大人を選ぶという制度に違和感を感じる大人の人も世の中にはいます。


「子どもが働く大人の人を公正に、適切に選ぶことができるのか?」

「自分がいたい人とだけ一緒にいて、社会の厳しさが分かるのか?」

そう言う人もいます。

しかし、今回メンバーである子どもたちによる来年度のスタッフ構成を決める話し合いに参加して、やはり上のような一部の人たちの予想は間違いであると私は思いました。

わたしは大人である雇用主によって雇われて働くという経験をもっていますが、その大人の人による被雇用者を選ぶ上での検討と、子どもたちによる被雇用者を選ぶ上での検討に、差を感じなかったのです。


また先日、仕事上での私の発言に対して、それはスタッフとしてふさわしくないのではないかという意見がメンバーから出されました。

その意見をめぐってメンバーたちの間で議論が交わされましたが、そこでも、雇い主であるメンバーたちは、雇っている私に対して、どういう点を厳しく見るべきか、またどういう点はこれから成長していくのを我慢すべきか、慎重に議論していました。

そこにも、私は、雇用主として大人にも子どもにも差はないと感じました。


子どもが学校で働くスタッフを選ぶということに関して、眉をひそめる大人の人もいます。

「子どもが大人の雇用・解雇を決めるなんて、よくない」

という意見です。


でも、よく考えてほしいのですが、そんなに公正に・また適切に雇う人を選ぶことができている大人の人は多いでしょうか?

会社や事業体の大きい・小さいにかかわらず、不条理な理由で人を雇ったり、また解雇したりしている大人は、少ないと言えるでしょうか?

子どもだから雇う人を選ぶことができないというは偏見ですし、同時に大人であれば適切に雇用・解雇を決定できると思うのも偏見です。

デモクラティックスクールは一人の恣意ではなく、メンバーすべての総意によってスタッフの選任が選ばれるので、適切に決定が行われています。


>>2009.4.1 学校名称が「神戸サドベリースクール」に変わります!

    都会のサドベリー・スクール
    デモクラティックスクール 宙(そら)

 〒662-0837 兵庫県西宮市広田町2-15
 Tel/Fax 0798-70-0777
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日本におけるデモクラティックスクールの「これまで」と「いま」を紹介した『自分を生きる学校』(デモクラティック・スクールを考える会編 せせらぎ出版)好評発売中 宙(そら)のメンバー・保護者・スタッフも書いてます。 


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他者の意見を自分のものとする

2009-02-01 11:06:38 | ミーティング、ルール、民主主義
民主主義とは、当り前の話ですが、自分一人の思い通りには物事が上手くはいかないようになっている制度です。


自分にとって常識だと思っていたことは、往々にして他人にとっては常識ではありません。


そこで意見の修正を余儀なくされます。そのとき、その意見が自分のこだわりにかかわれば関わるほど、自分が引き裂かれるような感覚になります。


自分は自分として意見をもっていても、自分は同時に団体に属していると、その団体の意思に沿わなければなりません。


ある人が、

「デモクラティックスクールの中にい続けるには、自分の中心にとどまっていなければならない」

と言っていましたが、このように自分が引き裂かれるような経験がデモクラティックスクールでは多くあるゆえに、自分の中心に居続けることが重要だということなのでしょう。


デモクラティックスクールでは、誰もが、少なからず少数派になる場面が出てきます。個人の意思をもつ以上、それは必然的なことです。


学校の運営に関して自分の意思を主張できるのは、他にはない、デモクラティックスクールのもっとも大きな特徴です。


これはある意味でとてもつらいことです。意見が衝突した際には、自分の意思を削られたように感じながら、多数派の意思に従うからです。


普通の学校であれば、私たちは最初から意見を主張したりはしませんし、その機会もありません。ですから、意見を衝突させる機会もないし、それゆえに自分が引き裂かれるようにも感じません。


意見は意見でしかありません。意見をもつことは大切ですが、意見をもつことは必然的に他人の意見と衝突することを意味します。ある団体に属していなくても、私たちは社会には属しています。社会全体の決定に従うだけなら、それは普通の学校の校則に従うだけと同じ、社会の運営にコミットしていないことになります。


わたしたちは団体の運営にコミットするほど、自分の意見の修正を余儀なくされます。自分が変わることを強いられます。他者の意見を自分のものとすることを必要とされます。


デモクラティックスクールが社会の縮図である理由は、ここにもあります。


>>子ども「が」まなぶ 「超」学校。
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望ましい社会のための学校とは

2009-01-10 23:05:26 | ミーティング、ルール、民主主義
デモクラティックスクールに見学に来られる保護者の方が、


 「デモクラティックスクールに通っていると、子どもが集団で生きていくことができなくなるんじゃないでしょうか?

 社会で生きていくためには、普通の学校の方がよいのではないでしょうか」

という質問をされることがあります。


これは、デモクラティックスクールを知り始めた大人がもちやすい疑問ではないでしょうか?

わたしたち大人は、1000人前後の生徒がおり、大きな建物にたくさんの人がいるあの学校を思い出し、そこにいれば多くの人間と関わっていると思うからです。




学校が、大人になって社会に出ていくための準備期間としての場を(も)備えた方がよいとは私も思います。そしてそのためには、学校が社会というものにできるかぎり近づかなければなりません。


しかし現実の学校はある点では現実の社会と類似しているのですが、ある点では現実の社会と全く異なっているのです。


まず、社会にも学校にもルールは存在するのですが、社会のルールが(一応)民主的に決定されているのに対し、既存の学校は一方的に上から子どもたちに与えられ、それを破ることはもちろん、異議を唱えることも許されません。


学校に存在するルールは学校の構成員である生徒の同意を得た制度ではないため、それは生徒にとって単に押し付けられたものとして機能します。


このような組織を子どもの頃から10年以上経験することにより、私たちには、「ルールとは上から与えられる束縛」という観念が埋め込まれます。


この「束縛としてのルール」は、現実の私たちの社会の法律とある点では似ていると言えるでしょう。


法律は、私たち「が」選んだ議員が制定しているという点で、一応私たち「が」作っていることにはなっています。


しかし現実は、私たちの意思を反映する法律を議員が発案することは稀ですし、また私たちの生活の実感から乖離した法案を官僚や「有識者」が考え出し、彼らと深い結びつきを持つ議員がその法案を議会で通過させています。


その点で、社会の法律も、学校の拘束と同じで、私たちにとって束縛の役割を果たします。国民の同意を得ていない陪審員制度や定額給付金制度が運用されるように。


だから、国や地方公自治体の法律に何の疑問ももたずに社会で生活を送るという点では、そのための訓練をする場所として学校はふさわしいと私は思います。


問題は、それが本当に私たちの望んでいる社会の姿かどうかということです。


学校における校則が上のような欠点をもっていたとしても、それによって社会の秩序を維持する人間が養育されているのであり、それによって今の社会は成り立っているのだから、既存の学校はその点で重要な役割を果たしていると考える人もいるかもしれません。


しかし、それは、秩序・ルールとは上から与えられなければ人は守ることができないという考えに基づいた考えです。


デモクラティックスクールで日々働いていて実感するのは、人は、そのようにルールを上から与えられよりも、自分でルールを作る方がはるかに規則遵守の精神を培うことができるということです。


デモクラティックスクールでは、ご存知のように、子どもとスタッフが平等に一票を持つミーティングで物事が決められていきます。


そこではルールが作られると同時に、既存のルールに疑問をもつ子供やスタッフはルールの変更を提案していきます。


「ルールとは自分が作るもの」


こういう意識をもつとき、人はどれほど真面目にルールを守るかを日々私は体験させられています。デモクラティックスクールの子どもたちの規律意識はとても高いものがあり、その厳しい目を自分にも他者にも向けます。規則を破る行為は、ミーティングの場で他の構成員から「訴え」られます。


ルールが単に上から与えられるとき、それに対して自立性を表明するためには、「破る」しかありません。既存の学校には、反抗のための反抗を繰り返す子どもがいますが、彼らは、とりあえず押し付けられたルールを「破る」ということしか思いつくことができないのではないでしょうか。なぜなら、「よりより学校とはどういうものか」「学校をよりよくするにはどうすればいいか」という問題を考える機会を小さなころから全く与えられていないのですから。


デモクラティックスクールの子どもたちは、反抗のための反抗のような無駄な時間を過ごしません。自分に不都合なことがあれば、変えるよう提案し、自分の主張の妥当性を周りの人に訴えればいいのですから。

デモクラティックスクールのよさは、「学校をよりよくするにはどうすればいいか」という問題につねに子どもたち自身が直面することです。他人任せではいられないのです。自分で学校の在り方を考えるのです。頭を使うのです。


社会と人生に対する建設的な態度とは、そのような環境によって初めて育まれるのではないでしょうか?


また、今の社会に求められているのも、既存の秩序を自分で作り変えていくことを当然と考えている人財ではないでしょうか?


わたしたちの社会を、その構成員自身がルールを作り出しながら、同時に疑問をもつ時には積極的に自分でルールを変えることができる社会にしたいのなら、つまり真の民主主義の社会を作りたいのであれば、学校も民主主義的なものにすることが望ましいでしょう。




>>子ども「が」まなぶ 「超」学校。
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ミーティングでスタッフはどうあるべきか

2008-11-24 11:54:29 | ミーティング、ルール、民主主義
22日に行われたデモクラティックスクール・ネットワーキングで、あることが話題になりました。


それは、デモクラティックスクールの核であるミーティングで、大人はどこまで介入すべきか、という話題です。大人と子供が平等な一票をもつミーティングにおいて、大人はどこまで話し合いに自分の意見を主張すべきなのでしょうか?


宙(そら)のスタッフのぐらは、堂々と、自分はミーティングで自分の意見を言うし、どうすれば自分の考えがミーティングで認められるかを考えて発言する、と言います。


実際、宙(そら)のミーティングでは、大人がどんどん自分の意見を主張します。


大人と子どもが対等に議論する。それは、大人が子供のために手加減して議論することとは違います。


“議論”というものは、その場で意見を出し合う場です。“その場”で出される意見について検討し合います。逆に言えば、“その場”で出されなかった意見は、それがどれほどいい意見であっても、検討されることはありません。


そのため、“いい”議論をするためには、“その場”で議題に関して参考になるようなよい意見を考え出して口にしなければなりません。


これは簡単なことではありません。人と対面するという多少緊張する状況の中で、議題に適切に関連する意見を考え出し、それを相手にわからせる形でうまく伝えなければならないからです。


このことを首尾よく行うには、場数を踏んでいる必要もあります。また、生まれつきそういうことが得意な人もいれば、苦手な人もいます。


議論が上手であることと、頭がいいことやどれだけその話題についていい意見を考えているかは、必ずしも結びついているわけではありません。


議論のこういう性格から、議論はどうしても大人の方が子どもよりもうまくなる傾向はあります。


単にものを考えるのではなく、それを口に出して言うためには、スキルや慣れが必要だからです。


しかし、だからと言って、大人が子どもと議論するのに、手加減して思っていることを口に出さないのは、フェアではありません。


議論である以上、そして大人と子どもが対等な立場に立っている議論である以上、大人は自分の意見を言うべきです。


そうすると、大人が子供より意見を押し通すことが多くなると思う人も多いでしょう。


実際はそうでもないんですね。宙(そら)では、大人が言いたいことを言うため、子どもも議論に慣れているので、自分の意見を主張することに長けています。


デモクラティックスクールは、学校でありながら、現実の社会と似た構造をもっています。またそれが子どもが育つ場である上で、強みとなっています。


現実の社会に似ている以上、ミーティングの議論だけは、大人はあまり言わないというのも不自然です。対等な立場で学校を一緒に作り上げているのですから、大人も言いたいことをどんどん言ったほうがいのではないでしょうか。


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「勉強会」「講座」・・・

2008-11-20 12:24:26 | ミーティング、ルール、民主主義
今週に入って、広報に関して私がある提案をしました。


宙(そら)やデモクラティックスクールについてもっと人に知ってもらうために、「講座」「勉強会」のようなものをしてはどうかと言ったのです。


イメージとしては、デモクラティックスクールに興味のある人に、宙(そら)あるいは公民館のようなところに来てもらって、宙(そら)のスタッフがデモクラティックスクールについて説明し、みんなに質問をしてもらったり、感想を話し合ったりするというものです。


ここまで読んで感じた人もいるかと思いますが、私の構想はまだまだ漠然としたものでした。


それがよくなかったのです。


私がミーティングで上のような構想を話しても、メンバーたちにはピンと来ませんでした。つまり、普段見学希望の人にスクールまで来てもらってスタッフがしている説明と何が違うのか?とメンバーには思えるのです。


普段見学希望の人にスクールについて説明するのと、そのような「講座」を開いてデモクラティックスクールについて説明するのと何が違うのか?


確かにそう言われると、どこが違うのか、すぐにははっきりと私は説明できませんでした。


それに、デモクラティックスクールに興味のある人であれば、普段平日に開校中に見学に来るはずと言われたら、強く反論もできません。


なぜわざわざ「勉強会」「講座」を開くのか?


そんな無駄なことはしないほうがいいのではないか?


そう言われて、「なぜ勉強会を開くのか」を説得的に説明するには、

・どういう目的で
・どこで
・いつ
・何時間ぐらい
・どのぐらいの人を集めて
・どういうことをするのか

を紙に書いてはっきり示さなければなりませんでした。


よく考えれば(よく考えなくても)、社会常識的に、何か案を人に認めてもらうには、紙に書いて、つまり具体を示して、説明するのが当たり前です。


会社の会議で、レジュメを渡さずに通るプロジェクトはありません。


宙(そら)でも、メンバーの子どもたちが学校のお金を使って活動をするには、例えば野球をするためにグラウンドを借りたり、釣りのえさを買ったりするには、ミーティングで他のメンバーやスタッフの承認を得る必要があります。そのときには、具体的に予算を説明しなければなりません。いい加減な予算はミーティングで却下されます。


私はその基準も満足に満たしているとはいえませんでした。


結局は私の提案はミーティングで承認はされました。でもメンバーの一人から「この提案はビジョンが見えない」といわれたけど、私もそのときになってその通りだと思いました。


社会常識をまた一つ教えてもらいました。


デモクラティックスクールに関する勉強会は、一月一回ぐらいのペースで12月から始める予定です。詳細を決めたらまた広報します。場所は宙(そら)の校舎か近くの公民館などを考えています。



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機会

2008-11-14 00:09:27 | ミーティング、ルール、民主主義
大麻所持 同大生に有罪判決 「学生は自由がある分、責任も重い」(産経新聞) - goo ニュース


最近は大麻所持のニュースが頻繁に報道されます。とくに大学生など若い人が関わっている事件が報道されます。


大麻がなぜ法律で禁止されているのか、大麻について全く知らない私には分かりません。しかし、法律で禁止されているという理由から、大麻を吸うことは悪いことだと漠然に思っています。


大麻所持だけでなく、世の中には“なぜその法律が存在するのか分からない”と思う法律が多く存在します。当然です、私たちは大学の法学部にでも行かない限り、法律を学ぶことはほとんどないのですから。


法律は、私たちが生まれる前から存在します。そして、生まれた後も、どういう法律が存在するかを教えてくれる人はいません。


覚醒剤や大麻のように大きく事件で報道されるものであれば、それを使用してはいけないことは分かります。しかし、法律違反をして初めて、“そういう法律があったんだ”と気づく法律も多く存在するのでしょう。テレビで弁護士がコメンテーターを努める番組が存在するのもそのためです。


わたしたちの社会は、私たちが作ったわけではないし、その存在理由を知っているわけでもない法律をたくさん持っているのです。


では、だからといってそういう法律に従わなくていいわけではありません。


わたしたちのほとんどすべては法律の素人なのですから、いつでも法律を破る可能性を持っています。知らない法律を破る可能性もあります。


しかし、その法律は知らないからと言って、私たちが従わなくていい法律ではありません。


法律を破ってから「法律違反」だと言われても、自分は法律違反だと知らなかったのですから、釈然としない気持ちは残ります。


しかし、法律は社会を維持するためのものである以上、知らなくても破れば、その法律にのっとってジャッジが行われる必要があるのです。


このようなプロセスにすべての市民が納得できるようになるためには、その法律の存在に疑問がある場合には、誰でも異議申し立てすることができ、その法律の妥当性についていつでもだれでも議論できる機会が保証されていることが必要です。法律の再検討・刷新に市民が関与できる機会が保障されて初めて、法律は“市民が作ったもの”となります。


しかし、わたしたちの社会は法律によって秩序が維持されているにもかかわらず、このように法律の維持・更新に関わる機会について、誰も子どもの頃から教えられません。


それゆえ私たちの大部分は、大人になっても、法律は単に難しいものであり、専門家にまかせてよいものになっています。


これは、“社会”の規模があまりにも大きすぎるため、法律が細分化され、難解になっているからです。


そのような現状は簡単に変えられるものではありません。しかし、市民が法律を作りかえる機会がなければ、法律の妥当性は失われていきます。


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面倒くささ

2008-10-10 11:05:58 | ミーティング、ルール、民主主義
デモクラティックスクールは、その名の通り民主主義を重んじます。


デモクラティクスクールをアメリカで創始したダニエル・グリーンバーグさんは、『自由な学びが見えてきた』の中でこう述べています。


保護者と子どもたちの会話で、親たちが「デモクラティックスクールであなたたちにとって一番重要なことはなに?」と聞いたとき、子供たちは「民主主義!」と答えたそうです。


その発言を聞いて、グリーンバーグさん自身が驚いたそうです。


たしかにサドベリー・バレー・スクールは子どもたちが好きなことができるし、また民主主義に則って団体が運営されています。


でもダニーの中ではその二つは必ずしも結びついていなかった。




民主主義のいいところは、団体のあり方を自分で決めることができる点です。


これは、スクールでは自分の好きなことをできるという点と同じで、自分だけでなく、自分が属する団体を自分の好きなようにできるということです。


自分を自分の好きなようにする。


これは本人にとって面倒くさいことでもある。


自分が何をするか自分で決めるより、他人にあれこれしなさいと言われて動く方がラクだと思う人もいます。


日本人にはそういう人が多そうですね。


民主主義というのは面倒くさいものです。


デモクラティックスクールでもスタッフとメンバーが対等な一票を持つミーティングをしますが、それは長引くと面倒と感じているメンバーもいます。


民主主義って面倒ですね。


実際、私たちの国の選挙では、投票率が50パーセントを超えるほうが珍しいでしょう。


私たちの国は、民主主義を放棄する人を、民主主義を実践する人がカバーして国を動かしている、ともいえます。国のことを考えることを放棄する人を、考える人がカバーしているんですね。


民主主義が嫌だ、という人をも含むのが社会です。そして、そういう民主主義が嫌だと思う人を含みながら、意識のある人が民主主主義について考えて実践しているのも社会の現実の姿です。


これは民主主義についてまわる問題です。


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いじめのないことと民主主義

2008-09-10 01:34:37 | ミーティング、ルール、民主主義


いじめって何なのでしょうか?


辞書で「苛(いじ)める」をひくと、「(弱い者を)苦しめる.困らせる.」とあります。


誰かを苦しめたり、困る姿を見て喜ぶこと、それがいじめですね。


つまり、誰かが苦しむ姿を見て喜ぶこと、それが苛めです。


その意味で、デモクラティックスクールには苛めがありません。



子どもたちが他のメンバーすべてと仲がいいというわけではありません。


人間である以上、同じ趣味や感覚の子供と一緒にいるようになるのは当たり前ですし、そうすると他の子供とはふだんあまり話さないというのも自然な傾向です。


デモクラティックスクールのいい点は、そのように個々人で自分のいる領域がたがいに分かれながら、ミーティングによるルールの形成では、客観的な判断を下している点です。


自分の個人的な感情を挟まないのです。


それは、ドライと受け止められるかもしれません。


でも、平和とは、そのようなドライな感情によって初めて成り立つのではないでしょうか。


自分の感情は自分の感情であり、学校のことは学校のこと、というように、自分と社会とを分けることができてはじめて、趣味の違う他の子供と一緒に一つの学校を運営していくことができます。


平和に必要なドライさ、言い換えれば公正さを身につけること、しかもしれを毎日行われるミーティングで身につけることができる場所、それがデモクラティックスクールです。


そのような民主的な姿勢を最も確実に身につけることができる場所もデモクラティックスクールです。


この日本という国を作っていくうえで、民主主義というルールがもっとも重要な価値をもつと考えるなら、デモクラティックスクールはこの社会に最も必要な人材を生み出していると言えます。



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参考:「デモクラティックスクール」『自然に生きたい。。。』

   「子ども達の自主性に任せる学校」『先生ばんざい!コーチたか♪の応援日記』

デモクラシーと自由

2008-09-04 00:38:04 | ミーティング、ルール、民主主義
民主主義とは、「人民」が自ら統治を行うことを意味します。


つまり、その人が属している団体がどうなろうと、その結果について団体の構成員全員が責任を背負わなければなりません。


言い換えれば、構成員全員が団体の状態について責任を負うことができる状態、それが民主主義です。


その状態は制度・規則によって維持できるものではありません。


よく知られているように、1933年にドイツではナチスが議会第一党になりました。これは、民主主義が自ら民主主義を放棄する第一歩となりました。


人民自らが、団体の状態について責任を負わず、その責任・権限を特定の政党や個人に委ねるとき、民主主義はそこで亡くなります。


だから、民主主義は、つねに「構成員全員が団体の状態について責任を負う」と全員が意志していなければ、存続しえないのです。


それゆえ民主的団体では、団体のある構成員がその団体に損害・悪影響をもたらす行為を行った場合、他の構成員がその理由を問いただし、以後同じようなことを起こさないように要求する必要があります。


そう要求する義務が構成員に課されている訳ではありません。


ただ構成員たち自身がその団体をデモクラティックなものにしたいのなら、自覚的に自らと他の団体の構成員の行為についてチェックする姿勢をもっていなければなりません。


そのようなチェック自体が、「人民」による統治です。


デモクラティックスクールは、ミーティングを行いみんなが投票権をもっていればデモクラティックスクールになれるわけではありません。


メンバーひとりひとりが、自分たちの学校をいいものにしたいという自覚をもち、その自覚にのっとって自分と他のメンバーの行為をチェックし、また自らあるべきルールを設定することによって初めて、デモクラティックスクールとして成立します。


どのような点でメンバーの行為をチェックすべきか、どのようなルールを作るべきかなどは、スクール毎で違ってくるでしょう。メンバーが変われば、チェックする際の基準も変わってくるからです。


私はほかのデモクラティックスクールを詳しく知りませんが、きっとデモクラティックスクールはそれぞれでいろいろな特色をもっていることでしょう。国・場所によって変われば、歴史によっても変わってくるでしょう。


ただ、それでもすべてのデモクラティックスクールに共通するものがあるとすれば、メンバー自身がその学校をどうしたいかという“意志”をもっていることです。


この“意志”こそ、わたしたち人間がもつものの中で最高のもののひとつではないでしょうか。


意志があるからこそ、私たちは自分の“したいこと”をすることができます。


つまり、意志があって初めて、自由は存在するのです。


デモクラティックスクールの中で、自由と民主主義はまさに分かちがたく結びついているのです。




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参考:「こんな学校が!」 あみさんの「成幸哲学」-“いつも心に笑みを”