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宙(そら)日記

デモクラティックスクール宙(そら)、神戸サドベリーでスタッフをしていたターボウの個人ブログ

デモクラティックスクールにとっての「自然」

2009-02-22 21:46:33 | 自分を生きる
mixiで前回の記事第3回デモクラティックスクール講座、ありがとうございました!を紹介したところ、あるコミュで多くの人にコメントをいただいています。


デモクラティックスクールは、その存在自体がまだまだ世の中に知られていない段階です。またその方針も、多くの人が簡単には受け入れがたいものです。

そうした中で、一人でも多くの人に反応してもらえるというのは、それだけでも価値があることだと思います。


以前、このブログにも批判を書き連ねるコメントがたくさん来たことがあります。それ自体は有り難くないことですが、やはりデモクラティックスクールの「子どもが完全な自由をもつ」という考えは、人々の感情や考えの中の触れてほしくない部分を刺激するようです。


わたし自身は、それを「コントロールを手放す恐怖」とみなしています。


「物事をコントロールする」という態度がもっとも表れているのが、技術開発です。この技術発展のいきすぎを反省してきたのが、様々なエコロジー運動でした。


いわゆる「自然に還れ」という運動です。


ただ、デモクラティックスクールはこの「自然に還れ」という運動とは一線を画すものであることを指摘する必要があります。


草木を保護する自然、草木を愛する自然と、デモクラティックスクールは必ずしも結び付くわけではありません。


「自然」という言葉の「然」という字は、「そうであること」という意味を表します。


むしろデモクラティックスクールの理念は、この「そうであること」という意味に近いでしょう。


子どもそれぞれが「そうであるように」育つこと、それを可能にするのがデモクラティックスクールという場です。分かりやすく言えば、「その人らしく」なる場です。


大人がヘンなコントロールを加えなければ、子どもはその人自身を生きるようになります。


生きる上で必要な知識は身につけますが、無意味に頭でっかちにはなりません。


必要な話し合いでは自分の意見を言いますが、議論好きになったりはしません。


好きなことは追求しますが、それで人に褒められることを目的にはしません。


こうなることは、人として当然のように思えますが、今の社会ではとても難しいことです。


>>子ども「が」まなぶ 「超」学校。
    都会のサドベリー・スクール
    デモクラティックスクール 宙(そら)

 〒662-0837 兵庫県西宮市広田町2-15
 Tel/Fax 0798-70-0777
 公式HP


日本におけるデモクラティックスクールの「これまで」と「いま」を紹介した『自分を生きる学校』(デモクラティック・スクールを考える会編 せせらぎ出版)好評発売中 宙(そら)のメンバー・保護者・スタッフも書いてます。 


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その人に合った成長

2009-01-03 16:07:23 | 自分を生きる
既存の教育の問題点の一つは、子どもをつねに二分法で見る癖を教師につけさせてしまう点です。


勉強ができる子/できない子。

教師の言うことを聞く子/聞かない子。

行儀のいい子/よくない子。

動作の早い子/のろまな子。


等など・・・


教える側はほぼ例外なく、後者の子どもに対して敵意と軽蔑の意識をもちます。


教師・大人にとってもっとも都合がいいのは、大人しく机に座り、教師に口答えせず、言うことをちゃんと守り、指示を迅速に実行できる子どもです。それは、教師の側の「子どもをちゃんとコントロールしている」という優越感を満足させてくれます。同時にこれらのコントロールがうまくいかなければ、教師は怒りと自己嫌悪感に陥ります。


以前、ある進学塾の職員の人が私に、「最も教えやすいのは、超難関校を目指すクラスではありません。そのクラスの子どもたちは頭がいいので、教師のミスにすぐにつけこんできます。

同じように、中堅や底辺のクラスは、あまり勉強ができないので、もちろん教えにくい。態度も悪い。

一番教えやすいのは、トップから二つ下ぐらいのクラスです。この子たちは、こちらが教えたことをすぐに吸収するし、授業の態度もよく、教師に口答えしません」

と教えてくれたことがあります。


これは、子供に勉強を教えたことのある人にほぼ共通する実感なのだろうと思います。

極端に「勉強ができる」子どもというのは、教師の学力の凡庸さや授業力の程度を容易に見抜くでしょう。

また「勉強ができない」子どもというのは、実は勉強という枠におさまらない大きな個性をもっていて、人間的な魅力を外に表している子が多く、彼らも「勉強しか取り柄のない」教師の人間の小ささを簡単に見抜き、教師の弱点を簡単についてきます。

この子たちは、私たち大人に嫌われる子どもたちですが、それは彼らが豊かな才能や魅力を発揮して生きているからです。

勉強が極端にできる子というのは、兎にも角にも「勉強」という側面での才能を発揮しているのです。それは彼or彼女にとって無駄な経験ではないはずです。

また「勉強ができない」「問題児」の多くは、「勉強」「授業」というものが彼or彼女たちにとって無意味であることが分かっている人たちです。つまり、明確に意識はしていなくても、(幾らかは)自分を生きているのです。だから大人の「勉強しなさい」という言葉にも反応しないのです(しかし、中には中途半端に勉強しようとして、わからなくなって教師や親に反抗する子もいますが、それは彼らが自分で自分のすることをちゃんと選べていないからです)。


これらに対して、一番心配なのは、そこそこ勉強ができて、親や大人の言うことも聞く子どもたちです。

ふつうは大人が見ていて一番安心するのはこの子どもたちです。

しかしこの子たちの一番心配なのは、上の子どもたちと違い、自分のすることを自分で選べていない点です。

勉強ができること自体は悪いことではありませんし、親の言うことを聞くのもそれ自体は悪いことではありません。

問題は、彼らが自分で選んでそうしているかどうかです。

大人を馬鹿にすることが偉いわけではないし、勉強を馬鹿にすることが偉いわけではありません。ただ少なくとも、そうできることは、その子どもの自立性を表してはいます。

しかし平均的に物事をそつなくこなせる人たちは、自分を我慢することに慣れてしまうため、“自分”というものを見失う危険があるのではないでしょうか。




デモクラティックスクールのいいところは、子どもを最初に述べたような二分法で見ない点にあります。強制的に勉強を教えることはないし、強制的に同じ時間に給食を食べさせようともしません。全員強制参加の運動会も音楽会もありません。子どもたちはしたいことをしているのですから、彼らに優劣のレッテルを貼る必要がないのです。

だからデモクラティックスクールでは、子どもたちは大人に反抗するような“問題児”になる必要はありません。


デモクラティックスクールでは、勉強の好きな子は自分一人で勉強していき、必要なことはスタッフに教わります。勉強以外に興味のある子はそのことを追求していきます。

無理がないのです。

デモクラティックスクールが学校の在り方として唯一正しいとは言えないでしょう。個人的には私はそう言いたいのですが、それは傲慢な物言いでしょう。


ただ、どの子どもにとっても、その子に合った成長を成し遂げることができる、それがデモクラティックスクールです。



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正直であるということ

2008-10-30 11:42:50 | 自分を生きる
有名な哲学者のヴィトゲンシュタインにこんな短いエピソードがあります。


彼がある人の家に訪問していました。


その家の夫人がヴィトゲンシュタインにお茶を注ごうとしていろいろと好みを聞こうとしました。


するとその家のおやじは夫人に「なんか適当に出しとけばいいんだ」と荒っぽく言い放ったそうです。


それを聴いたヴィトゲンシュタインはいたく感動したそうです。


ヘンな話かもしれませんが、わたしにはヴィトゲンシュタインの気持ちがよく分かるような気がします。


人のうちに訪問して、あれがいいかこれがいいかその家の人にあれこれ言われても、出される方は困ってしまうものです。


気が置けない友達と一緒にお茶を楽しむわけではありません。特別親しいわけでもない人とお茶を飲むのに、あれこれ飲み物を考えようとは普通思いません。また相手の人にいろいろ気を使われても疲れてしまいます。


それに、そこにはまだ心の通ったコミュニケーションはありません。やたら気を使われても、相手が自分という人間に対して本当に関心をもっていなければ、しらけるし、うっとおしいものです。




ある日宙(そら)で、外に遊びに行っていた子どもに、


「もう帰ってきたの?」


と聞くと


「Shut up!」


と言われたことがあります。


べつの子どもに


「最近どう?」


と話しかけると


「知るか」


と言われたこともあります。



わたしはそう言われたとき、そう言われるのももっともだと思いました。


私は子どもに何か話しかけたほうがいいと思って話しかけました。


しかしそこには、相手に対する本当の興味や、本当の関心はなく、おざなりの言葉をかけようとした態度があったのかもしれません。


相手が大人であれば、それに対して礼儀としての返答をしたでしょう。そして退屈な会話が始まったことでしょう。


しかし子どもたちは、そういう大人の無理な気遣いや、退屈なコミュニケーションを察知し、拒否したのだと思います。


デモクラティックスクールで子どもたちはよくおしゃべりをします。


しかし大人同士が、知り合いというだけで交わす、表面的にはさわやかで礼儀正しく、しかしとても退屈な会話はしません。


そういった偽善とは彼らは無縁なのです。


彼らはどこまでも自分に正直です。


だから素晴らしい、と私は思います。



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世界と自由

2008-10-27 22:20:16 | 自分を生きる
わたしたち人は誰でも、自分の意思にかかわりなく、この世界に投げ出されて生を享けます。


そこから私たちの生は始まり、喜びと同時に、様々な苦しみも味わいます。


つまり、生きるということは、それによって人は様々な経験をするよう強いられることだと言えます。


では、生きるということは、私たち人間にとって、襲いかかってくる悪魔のようなものなのでしょうか?


もちろん違います。


人はなぜ生まれてきたのかは、証明不可能な神学を持ち出さなければ解決できない問いです。


しかし、にもかかわらず私たちは、生きることを<強いられる>経験ではなく、自分から行っていく経験へと変えることができます。


生まれるという一つの制約を課された人間が、それでもその制約を納得して受け入れるには、すべての行為をすべて本人が決めることができる環境が必要です。


完全な自由の下で、世界がどうなろうと、自分は自分ができることをなすものだという経験です。


世界とは自分の自由意思を発揮させるために存在するのだと意識することです。


すると、世界とは自分に課された制約ではなく、自分の自由を実現する場だということになります。


なぜ自分が生まれてきたのかは分かりません。


しかし自分には自由があり、その自由意思を発揮することができる、ということは分かります。


なぜ自分がこの世界に存在するのかは分かりません。


しかし世界は自分の行為を制約するのではなく、むしろ自分の自由意思が世界を作るのだということが分かります。


だからこそ自由は素晴らしいし、人に必要なものなのです。


変化

2008-09-24 00:38:34 | 自分を生きる


23日も終わりました。


明日から本格的に秋、なのかもしれませんね。


宙(そら)もまた違った風景を見せるようになるでしょうか?



デモクラティックスクール関係者で作る「デモクラティックスクールを考える会」では、この夏に神戸で100人規模の講演会を開き、多くの人の支援により無事盛況で終えることができました。


秋にはもっと大きな企画の話が持ち上がっています。


でも来年にはそれよりも大きな計画があって、日本中をデモクラティックスクールの波で覆い尽くそうという計画も進行している(そう)です。それには、宙(そら)が協力する場面も出てくると思います。


実際、奈良や東京、北海道に長野・沖縄・大阪でデモクラティックスクールを作ろうという話がすでに持ち上がっています。


もうムーヴメントは起きているんですね。


100年後には、子どもの半分がデモクラティックスクールに通う、そんな状況ができていれば、社会はもっとよくなっているでしょう。


教育だけでなく、社会のあらゆる分野でよい傾向が生まれることにきっとなるでしょう。


考えてもみてください。


世の中の子どもの多くがデモクラティックスクールに行くということは、世の中の大人の多くが子供をコントロールしようとしないということです。


ただ小さいから・年齢が低いからという理由で子どもの人権を侵害し自分の思い通りにしようとしないということです。


人権侵害とは、あからさまな暴力とか中傷だけを言うのではありません。


「あなたのことを考えているのよ」


という言葉でもって机に縛りつけることも含まれているのです。


「お行儀よくしなさい」という言葉で叱ることも。




そのような行為がなくなり、大人が子供を信頼するようになるのです。


子どもの行為を受容するようになるのです。


子どもの人生を手放し、子どもたちに返すようになるのです。


そのとき大人たちは、自分たちの人生もコントロールしようとはしなくなるでしょう。


「一部上場企業で働ければ幸せになるのに」「医者になればよかった」「もっといい大学に行っておけば」とは思わなくなるでしょう。


みんな、もっと現実的に生きるようになるでしょう。


勉強のための勉強はなくなります。


学ぶことの楽しさを取り戻すでしょう。


カリキュラムで学ぶことを制限することの馬鹿らしさをみんなが認識すれば、学歴社会は崩壊するでしょう。


大学は、早く現実に生きようとは思わない少数の暇人の集まりになるかもしれません(この夏に会ったサドベリーのスタッフのスコットさんは、サドベリー・バレーに比べて、大学が退屈だったと語っていました)。


みな、自分の人生を生きるようになるのです。


当然、教育委員会はこの世からなくなります。


工場のように秩序だって設計された校舎もなくなります。


学校を恨む人は世の中からいなくなります。


自分の子ども時代を恨むことはできなくなります。


親も大人も自分を信頼してくれていたのですから。


そのとき人は、自分の人生を自分で引き受けるようになります。


自分を生きるようになります。




人がみなデモクラティックスクールで学ぶようになり、人がみな子どもをデモクラティックスクールに行かせるようになれば、誰もが「いい気分」で生きるのかどうかはわかりません。


でも、人はみな自分を生きるようにはなります。


そういう社会が100年後にできていればいいですね。


100年は早いでしょうか。


でも、100年前には人種差別と女性差別は当たり前でした。


子どもへの差別がなくならないと誰が言えるでしょうか。



100年以上前に近代国家の軍隊を模して作られた学校はまだ自明のものと受け止められています。


でも、それは普通ではないと多くの人は気づき始めています。


人々の意識の変化はさすまじいスピードで進んでいます。


多くの人が古い信念に強固にしがみついている一方で、考え方を変えている人も増えています。


100年経ったら、今の世の中はどうなっているでしょうか。



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子どもの特権

2008-09-11 00:49:51 | 自分を生きる


デモクラティックスクール宙(そら)の子どもたちと話すと、人はその大人っぽさにびっくりするかもしれません。


彼らは、自分たちが子どもであるという理由で、勝手に大人に話しかけられたり、命令されたり、怒られたりするいわれのないことを承知しています。


これは、大人に反抗することとは違います。


彼らと話したわけではないですが、私の印象では、彼らは自分が子どもであり、その衣・食・住を親に負っていることを、おそらく既存の学校に通う子供の多くよりも、自覚しています。つまり、じぶんは子どもであり、普通の大人ほどの経験がまだないことを彼らは自覚しているように私は感じています。


ただ同時に、まだ子供なのだから自分は親に養ってもらっており、大人になれば子供の役目を終えるということも今の時点から自覚しているのではないかと、彼らと接していて私は感じています。



彼らは毎日好きなことをしています。ただ好きなことをしています。


ただ好きなことをすること。それを彼らは子供の特権であると自覚しているのではないでしょうか。


彼らの話を聞いていると、自分がお金を稼いでいないこと、自分がお金を持っていないことを気にしていることがわかります。早く大人になりたがっているようにもみえます。


これは、既存の学校に通う子供たちと似ているようで、全く違う点です。


既存の学校に通い、したくもないことを強制的にさせられている子どもは、子どもであることの特権を意識しないまま、ただ年齢だけ大人になっていきます。


子どもであることの特権を意識しないとはどういうことなのか。それはつまり、ただ命令に従うだけの癖を身に着け、自分から動こうとせず、また動かないことを「自分は子供だから」という言い訳ですまそうとするようになることです。


したくもないことを強制されている子どもたちは、大人への不満を言います。でも彼らの口からは、「だから親元を出て自由に生きる」とも「自分はこうする」という言葉も出てきません。「自分はこうしたい」という主張が出てこないのです。


それは、子どもであることの特権を享受していないために、逆説的ですが、やがて自分は大人になるのだということを自覚しにくくなっているのではないでしょうか。


それに対し、子供であることの特権を享受している子どもは、「今は自分は子どもであり、やがて大人になる」ということに自覚的になります。自分の選択でやりたいことをしている彼らは、社会に出てからはきっと自分の判断で自分のすることを選んでいくでしょう。



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You will be happy.

2008-09-09 11:19:10 | 自分を生きる


宙(そら)のメンバーの最年長は16歳の男の子ですが、ひとりの15歳の男は来年卒業することにきめています。


彼が高校に行くつもりなのか、それとも働くつもりなのか、私は知りません。




デモクラティックスクールをアメリカで創始したサドベリー・バレー・スクールでは、学生のほとんどが大学に行くことで知られています。ハーバード大学に行く学生もいるそうです。


サドベリー・スクール(デモクラティックスクール)はその事実によって多くの人の注目を集めているのかもしれません。


強制的な授業もテストもないサドベリー・スクール。多くの人はその事実を聴いてびっくりし、さらにそういう学校からほとんどの子供が大学に行くと聞いてさらに驚かれるのでしょう。私も最初驚きました。


宙(そら)からも、高校に行って、そこから大学に行った子供もいます。


では、デモクラティックスクールの価値は、大学に行くことができるということなのでしょうか?



高校卒業の資格を取るとか、大学卒業の資格を取るとかは、生きていくための戦略として有効な場合もあるかもしれません。



でも、デモクラティックスクールの価値は、大学進学率が高いといった点にあるのではないでしょう。


ある著名な作家・コンサルタントでお子さんをデモクラティックスクールに通わせている方は、

「デモクラティックスクールに来るということは、それだけでもう世の中の常識には染まらないと覚悟することです。ここに来た以上は普通の生き方はできないですよ、と親御さんに覚悟してもらう学校なんです」

「高卒の資格とか、そういうものに頼らないで生きる力を得ることが、デモクラティックスクールのいいところです」

と(笑いながら)力強くおっしゃっていました。



アメリカのデモクラティックスクールで大学に行く人が多いのは、アメリカが実は日本よりも遙に学歴社会であるという事実が影響しているのかもしれません。詳しいことはまだ知りません。


日本のデモクラティックスクールはまだ歴史が浅いので、子どもたちがどういう進路を取るのか、はっきりとした傾向はありません。


あるお子さんと親御さんが宙(そら)に見学に来たとき、代表の倉谷はこう言いました。


「デモクラティックスクールに子供が通ったら、子供が医者になって欲しいとか親が思っていても、そうなるかどうかは分りません。


 でも、幸せにはなります」



それはとても印象的な言葉です。


そう、デモクラティックスクールに来れば、いい学校に行けるかどうかは分りません。


でも、幸せにはなります。



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民主主義の学校」犬も歩けば棒に当たる

デモクラティックスクールとは

2008-08-27 01:00:07 | 自分を生きる


デモクラティックスクール。


そこは、人がその人になれるところ。


自分で自分のあり方を選択できるところ。



デモクラティックスクールでは、誰もああしろこうしろとは言いません。


だからデモクラティックスクールにいて、イライラしたり怒ったりしていたら、それはその人の責任であるとすぐに分かります。


教師が悪いとは言えません。教師はいないから。


親が悪いとは言えません。デモクラティックスクールに通わせている時点で、その親はすべてを子供の判断にゆだねることにしたのですから。


まわりの友達が悪いとは言えません。デモクラティックスクールにはクラスも部活もなく、嫌な人とは離れていられるから。


自分に起こる内面的な感情も外面的な出来事も、すべて自分の結果であること。そのことをデモクラティックスクールでは、知識ではなく体験として学ぶことができます。



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普通

2008-08-20 23:37:32 | 自分を生きる
明日から、いよいよ宙(そら)が再び始まります。


何事もなかったように、夏休み前と同じように始まるのでしょうか。


あるいは、夏休み前と何かが変わっているでしょうか。


きっと子どもそれぞれでしょう。



突然ですが、デモクラティックスクールで働き始めて、わたしは生まれて初めて「普通の子ども」を見た気がします。


そう、じつは私たちは「普通」の子どもを知らないんです。


私たち大人は子ども、とりわけ小学生以上の子どもを「勉強のできる子」「頭の悪い子」「運動のできる子」「運動神経のない子」「のろまな子」「お行儀のいい子」「おとなしい子」「活発な子」「素行の悪い子」といったいろいろなレンズで見ることに慣れています。

でも、それって要するに、子どもには、「頭がよくて行儀がよくて大人の言うことをおとなしく聴く子供」でいて欲しいという期待があって、その期待に合うか合わないかで子どもを見ているんですね。

だから自己主張する子どもを「反抗的」と見たり、教科に興味のない子どもを「頭の悪い子」と見たり、集団生活に馴染めない子どもを「問題児」とみなしてしまうのです。


デモクラティックスクールは、「子どもだからこうあるべき」という制限を子供に加えることはありません。

するとどうでしょう。まさに子供たちはそのありのままの姿を見せてくれます。

彼らは皆ルールを守ることを心得ており、大人に媚びることも反抗することもなく、自分のしたいことをします。

まっすぐなのです。

一人の人間として存在するのです。

デモクラティックスクールが「自分を生きる学校」と呼ばれるのは、そのためです。


何も上から押さえつけることがないので、彼らは何かに反抗することもないし、また無理にお行儀よく振舞ったりもしません。

彼らはありのままで存在し続けることができます。


デモクラティックスクールでは、子供が普通に育つことができます。


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アトリエとしての学校 2

2008-08-16 01:00:42 | 自分を生きる
先日、「アトリエとしての学校」という記事をこのブログに書きました。


デモクラティックスクールは、芸術家のアトリエのような場所ではないかと。


このアイデアは結構気に入っています。


デモクラティックスクールは、芸術家たちの共同体。


芸術家たちが自分のやりたいことを(ときには試行錯誤して)進めながら、ルールを共同で決めていきます。


スタッフは、芸術家たちがやりたいことをできる環境を作るのが仕事。


煩わしい仕事はスタッフが担う。


同時に、共同体のあり方・方向性は芸術家たちの意見が決めていきます。


アトリエなのですから、そのあり方は芸術家たちの意向が最優先されなければなりません。


しかし、細々とした仕事に芸術家の神経をすり減らせるわけにはいきません。それはスタッフが担うべき仕事です。



実際、すべての人は、アーティストのような衝動を抱えて生きているのではないでしょうか。


学校教育は(と、言い切ってもいいと思うのですが)人の中に住むその内なるアーティストを殺していきます。



アーティストが何をしていようと、それにまわりが口を挟むのは慎むべきです。その行動が他の人の邪魔をしていないかぎりは。



芸術家が何時にお弁当を食べていようと、またその食べる速さが遅くとも早くとも、まわりがとやかく言うことではないでしょう?


芸術家が何時間ゲームをしていようと、それがおかしいことのはずがないでしょう?


すべての人の中に「内なる芸術家」が住んでいるとしたら、私たちは子どもたちとどう接するべきか分かってくるのではないでしょうか。


彼らに敬意をもち、彼らに(ルールの範囲内で)したいことをする自由を保証し、彼らが活動している場所のあり方を彼ら自身に決めてもらうことです。


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