宙(そら)日記

デモクラティックスクール宙(そら)、神戸サドベリーでスタッフをしていたターボウの個人ブログ

デモクラティックスクールにとっての「自然」

2009-02-22 21:46:33 | 自分を生きる
mixiで前回の記事第3回デモクラティックスクール講座、ありがとうございました!を紹介したところ、あるコミュで多くの人にコメントをいただいています。


デモクラティックスクールは、その存在自体がまだまだ世の中に知られていない段階です。またその方針も、多くの人が簡単には受け入れがたいものです。

そうした中で、一人でも多くの人に反応してもらえるというのは、それだけでも価値があることだと思います。


以前、このブログにも批判を書き連ねるコメントがたくさん来たことがあります。それ自体は有り難くないことですが、やはりデモクラティックスクールの「子どもが完全な自由をもつ」という考えは、人々の感情や考えの中の触れてほしくない部分を刺激するようです。


わたし自身は、それを「コントロールを手放す恐怖」とみなしています。


「物事をコントロールする」という態度がもっとも表れているのが、技術開発です。この技術発展のいきすぎを反省してきたのが、様々なエコロジー運動でした。


いわゆる「自然に還れ」という運動です。


ただ、デモクラティックスクールはこの「自然に還れ」という運動とは一線を画すものであることを指摘する必要があります。


草木を保護する自然、草木を愛する自然と、デモクラティックスクールは必ずしも結び付くわけではありません。


「自然」という言葉の「然」という字は、「そうであること」という意味を表します。


むしろデモクラティックスクールの理念は、この「そうであること」という意味に近いでしょう。


子どもそれぞれが「そうであるように」育つこと、それを可能にするのがデモクラティックスクールという場です。分かりやすく言えば、「その人らしく」なる場です。


大人がヘンなコントロールを加えなければ、子どもはその人自身を生きるようになります。


生きる上で必要な知識は身につけますが、無意味に頭でっかちにはなりません。


必要な話し合いでは自分の意見を言いますが、議論好きになったりはしません。


好きなことは追求しますが、それで人に褒められることを目的にはしません。


こうなることは、人として当然のように思えますが、今の社会ではとても難しいことです。


>>子ども「が」まなぶ 「超」学校。
    都会のサドベリー・スクール
    デモクラティックスクール 宙(そら)

 〒662-0837 兵庫県西宮市広田町2-15
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日本におけるデモクラティックスクールの「これまで」と「いま」を紹介した『自分を生きる学校』(デモクラティック・スクールを考える会編 せせらぎ出版)好評発売中 宙(そら)のメンバー・保護者・スタッフも書いてます。 


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第3回デモクラティックスクール講座、ありがとうございました!

2009-02-17 12:39:25 | Weblog
3月21日(土)神戸で本田健さんをお迎えして教育講演会を開きます。

興味のある方はぜひ講演会の詳細をご覧ください。




2月15日(日)に第3回デモクラティックスクール講座を宙(そら)で開催しました。お子さんを連れた親御さんたちが来て下さいました。


15日のテーマは、要するに「親は子どもに干渉してよいか?」という問題でした。


1 親子が対等な関係になることの難しさ

そこでまず私がお話したのは、親子が対等な関係になることの難しさです。

親という存在は子どもに衣・食・住を与えようとし、多くの子どもは小さいうちは親と一緒に生きていきます。親は子どもを親に依存させつつ自立させようとし、子どもは親と一緒に暮らしながら自立することを学ぼうとします。このパラドックスがあるゆえに、親子関係では衝突・葛藤が生じやすくなります。

親は子どもを「ちゃんとした大人」にするために生活習慣などいろいろなことを躾けようとします。しかしそうした干渉をすればするほど、子どもは自分の自由を奪われることに抵抗します。

これは親子関係というものに本来孕まれている困難です。



この“親は干渉してよいかか”という問題は多くの親御さんを悩ませています。たとえば、家でずっとゲームをしているわが子を見ると、多くの親はもっといろいろなものに目を向けてほしいと思います。

あるいは、何かに熱中していて生活習慣が乱れているように見えると、親としては子どもに注意したくなります。

15日の集まりでは、そういった不安について、参加してくださった親御さんたちが普段思っていることをシェアしてくださいました。

たとえば子どもがゲームをする時間を区切っている親御さんもいらっしゃいますし、まだ子どもがゲームをしていなくても、将来するようになることが不安になる方もいらっしゃいます。


ただその一方で、ゲームに夢中なお子さんが攻略のために自分でいろいろな調べ物をしている姿を見て、少しゲームに対する考えが変わることもあるようです。

あるいは、わたしが「学者が寝食忘れて研究している姿を見たらどう思いますか?」と問いかけると、それはカッコいいとも思うし、でも生活をちゃんとした方がいいと思うとおっしゃる親御さんもいます。

私自身は学者が自分の研究に夢中になるのも、子どもが(子どもに限らないですが)ゲームに夢中になって自分でネットで攻略法を調べるのも、同じことだと思っています。

つまり、人に教えられたことを覚えるのではなく、自分から解答を調べるというのはすごいことだし、そのときの人の思考力は、あるいは(今流行の言葉で言えば)“脳”はものすごく働いているのだと思います。また“学び”とはそういう行動をこそ指すのだと思います。


2 デモクラティックスクールの役割

しかしいずれにせよ、親が子どもの行動を見て、干渉しようとすることは避けられません。そのように家庭では親が子どもに干渉せざるを得ないのに対し、デモクラティックスクールは子どもが自分ひとりで自由に判断できる機会だといえます。そこでは大人と子どもは対等な関係にあり、子どもは自分のすることを自由に選択でき、その責任を背負います。


3 <小さな干渉>を最小化する


デモクラティックスクールとしては、大人が子どもに干渉することは最大限少なくしていいということを主張しています。4歳以上の子どもには大人と同じ判断力が備わっており、彼ら自身の判断・選択を信頼してもいいのだというメッセージを発しています。

その場合、また同じ問題に戻るのですが、ではどこまでなら大人は干渉してよいかという問いが生じます。


サドベリー・バレー・スクールのダニエル・グリーンバーグさんは、この問題を考える際に、「大きな干渉」と「小さな干渉」とを分けます。

「大きな干渉」とは、要するには家族ぐるみの引越しなど、子どもの生活を左右せざるを得ない大きな決断です。

それに対して、「服装」「食べ物」「趣味」などについて親が子どもに意見を述べることは<小さな干渉>であり、これは最小化することが大切だと彼は言います。

たとえば「服装」について、

「子どもたちがその時、快適だと思うものを身につけているかぎり、彼・彼女たち自身、寒さや不快を感じないかぎり、わたしたちはそれでよしとしなければなりません。・・・
 服装に関することで自分の本能に従い自分で決めている子どもの方が、そうでない子どもより病気にならないのです」


あるいは「食べ物」について。私たちは「正しい」食べ物を食べさせないと子どもたちは生きていけないと考えているのですが、来る日も来る日も、その年も、次の年も、ケロッグばかり食べている子どもがサドベリーにいたそうです。しかし・・・

「この子のことでいちばん面白かったのは、ある冬の出来事です。ほかの子が風に片っ端からやられている中、この子だけは一度も風邪を引きませんでした。これがどういうことなのか、わたしにもよく分かりません。
 たぶん言えることは、・・・大抵の場合、子どもが何を、何時、食べているかは、それほど干渉すべきことではない、ということです」(『自由な学びが見えてきた』緑風出版 p.89-91)。


服装にせよ食べ物にせよ、わたしたちはそれを子どもの命にかかわると考えがちです。

悪い食べ物は健康を害し、乱れた服装は人生の破滅の兆候ととらえます。しかし、わたしたちが“神経質”になることのほとんどは、この「小さな決断」にかかわることであり、実はそれほどたいしたことではないとわたしも思います。


4 ゲームは他の遊びと違うのか

そして、ゲームです。


大人がゲームをする子どもに不安を感じるのは、あたかも子どもがコンピュータにコントロールされているようになり、子ども自身の自律性・思考力が鈍るように感じるからでしょう。

ゲームは、コンピュータによってプレイする条件がすべて設定されており、プレイヤーはその条件・ルールの外に出ることはありません。

しかし、このルール・条件・制約があるということは、すべての遊びに共通することです。遊びとは、かくれんぼからサッカーやつりに至るまで、すべてルールや制約があるのです。


たとえば、大人は子どもには自然の中で、野原を駆け回ってほしいと思います。しかし、そこで<遊ぶ>ときには、子どもたちはつねにルールを決めるのです。おにごっこですら、ルールがあるのです。

ルールや制約があるがゆえに、人は頭を働かせます。頭を働かせることで、制約の中で最高の結果を生み出そうとするのです。これって人生そのものだと思いませんか?!?!

ビデオ・ゲームは、コンピュータがすべてルールを決定します。プレイヤーが操作できる範囲は限られています。にもかかわらず、だからこそ、プレイヤーは、その限界の中で最高の結果を生み出すことに熱中します。コンピュータが課してくる課題に挑戦するのです。



それでも大人は、ゲームに熱中する子どもに不安を感じます。


重要なのは、―これもダニエル・グリーンバーグさんが言っていることですが―「自問自答」を続けることです。これは「大きな干渉」なのか、それとも実は取るに足りない「小さな干渉」なのではないか?と。

 「わたしたち親は、次のような問題設定をして自ら問うべきです。
 
 それは子どもの独立への道を均す、干渉に価する「大きな決断」なのか、それとも「これは独立するために必要なことなんだ。黙って見ていよう」と言える「小さな決断」なのか?
 
 考えればきりのない問題ですが、こういうことにいちいち、わたしたちは判断を迫られているのです。

 でも、親としての役割において、フェアな態度をとろうとするなら、わたしたちは絶えず、自問しなければなりません。「この干渉は、本当に本質的なものなのだろうか?」と。

 干渉とはその一つひとつが、独立からの後退の一歩であるからです」(同p.91)


ゲームに関しては、多くの親御さんは、完璧な解答を見出しているわけではないでしょう。ゲームに詳しくない大人は、子どもたちと同じ「精神世界」にいないのですから。わたしたちの親の世代がマンガやロックのすばらしさを理解できなかったのと同じことです。

しかし、というよりだからこそ必要なのは、ダニエルさんが言うように、たえず「自問自答」することではないかと思います。



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《♯18 ゲーム》 

2009-02-15 01:53:32 |  サドベリー関係者へのインタビュー
3月21日(土)神戸で本田健さんをお迎えして教育講演会を開きます。

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サドベリー関係者へのインタビュー・シリーズ、今回のテーマは、ズバリ「ゲーム」。

Sudbury Schools: #18: Video games on YouTube

デモクラティックスクールとゲームは、切っても切れない関係にあると言っても過言ではないでしょう。そのゲームにまつわることについて、サドベリーのスタッフが語ってくれています。


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Mikel Matisoo(スタッフ、Sudbury Valley School)

・ゲームのマナー

「僕たちの学校にはビデオ・ゲームをしているたくさんの子どもたちがいるんだけど、ゲームをすることでまわりに迷惑をかけないようにするにはどうすればいいかということについて、多くの議論がスクール・ミーティングでなされてきたんだ。その際、ゲームをする子どもたちはゲームはまわりに迷惑をかけないということを主張してきたよ」


・ゲーム・コ-ポレーション

「学校には“ゲーム・コーポレーション”というグループがあって、ちゃんとそれ用のスペースや、ゲームの環境をきれいにしておくためのルールをもっているんだ。彼らはコーポレーション内でそれらのルールについて話し合っているんだ。機材が盗まれたりした事件もあったんだけど、それ以来物品の管理のために機材を記録しておくルールもできたんだ」


・ゲームと社会性

「ゲームに関して特筆すべきなのは、一般的に子どもたちはグループでゲームをしているということだよ。何人かがプレイをしていて、たくさんの子どもたちがそれを眺めている。ビデオ・ゲームをする子どもたちは、(ひとりでゲームに没頭しているわけではなく)そこで他の子どもたちとお互いに交流しているんだ。そこではビデオ・ゲームについて話し合ったりするんだけど、それだけじゃなくて別のことについて話し合ったりする。

 そこからゲームをしていない子どもたちと交流したりして、ゲームをする子どもたちとそうでない子どもたちとのつながりができる。そうやって、彼らは相互に交流しているんだ」


・関心の移り変わり

「10才ぐらいの子どもはゲームに夢中で、13・4才になると女の子に興味をもつようになる。自分の身の回りの清潔さに気を使うようになったり。そうやって別のことに興味をもったり、話し合ったりするようになるんだ」


・中毒

「中毒というのは、人間のとても基本的な問題だよね。どんなものにも中毒は起こりうる。その中でもゲームは害の少ないものだよ。(アルコールやタバコ、麻薬、セックスなど)人々が後々の人生で中毒に陥るものに比べてね」


・知的トレーニングとしてのゲーム

「いいゲームというのは、それだけで知的なトレーニングのための道具なんだよ」


・なぜゲームは批判されるのか?

「ほとんどの親は子どもがゲームをすることに怖れをもっているけど、それは彼ら自身にゲームで遊んだ経験がないからだよ。子どもが野球をしていてそれが気になる親はいるかい?」



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「子どもは自分のしたいことをしてもよく、その活動について大人から批判されることがない」というポリシーをもつデモクラティックスクールの中では、多くの子どもが思う存分ゲームを楽しむことができます。先日見学に訪れたある子どもは、デモクラティックスクールではずっとゲームをしていてもいいと聞いて、とてもうれしそうな顔をしていました。

それだけ子どもから愛されているゲームですが、なぜかほとんどの大人は子どもがゲームをすることに眉をひそめます。


おそらく、多くの大人は、ゲームという遊びの中に、なにも生産的なものが見い出せないのでしょう。


しかし、人が何かに夢中になる時、そこにはその人にとっての“何か”があると考える方が自然ではないでしょうか。


大人は、子どもがゲームをしている姿を見て、アルコール中毒か何かと同じものをイメージしてしまうのでしょう。しかし、インタビューでサドベリーのスタッフが述べているように、中毒というものはあらゆるものに起こりえます。


仕事中毒で体と人間関係を壊す人も多くいます。


勉強ばかりして他人とうまくコミュニケーションがとれない子どももいます。


しかし、そういう人がいても私たちは、仕事をしてはいけないとか、勉強をしてはいけないとはいいません。なのに、なぜかゲームだけは、ゲーム中毒になるわずかな例を取り上げて、「してはいけない」と言ってしまいます。


大人がゲームを見る視線は、かつてマンガやロックに向けられた視線と同じようなものです。昔、若者がマンガやロックに夢中になった姿を見て、大人はそれらを文化の退廃とみなしました。しかし、今では、マンガ家もロック・ミュージシャンもすべてを同様に一括りにできるものではないし、すぐれたマンガやロックは他の優れたアートと比べて劣るものではないことは自明になっています。


ゲームも同じで、すぐれたゲームがあり、それに多くの子どもが熱中している、そういうことなのだと思います。


ロックやマンガですら、かつては、多くの大人に拒絶されましたが、今ではそれらの価値を否定する人はいません。ゲームも、何年後かには、誰もが認める文化になっているのだと思います。

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お泊り

2009-02-12 11:48:59 | 日常
昨日は宙(そら)は“お泊り”でした。


みんなで泊まって遊ぶのです。


たこやきを作ったり、みんなでサッカーを観たり、2月の誕生日の子を祝ったり、まめまきしたり。


たこやきおいしかった~ 

コミュニティ

2009-02-07 20:39:14 | Weblog
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デモクラティックスクールを運営していて分かるのは、子どもの両親がいかにスクールの理念を理解し、スクールにコミットしているかということの大切さです。


デモクラティックスクールの運営自体は、保護者が介入してくることは望ましくありません。大事なのは子どもがスクールの運営の主体であり、スクール内部のことはすべてスタッフと子どもで決められるべきだからです。


しかし、では保護者がスクールに無関心でいてよいかと言うと、そうではないのがデモクラティックスクールの面白い点です。むしろデモクラティックスクールの維持・運営には、普通の学校以上に保護者のコミットメント(献身)が必要なのではないかと、私は最近思うようになりました。


まず、常識に抗ってデモクラティックスクールを運営する上での保護者の役割です。


ご存知のように、世の中には「子どもは(国が認めた)学校に行かなければならない」という価値観がひじょうに根強く残っています。この価値観は、大人は勿論、子どもにさえ深い影響を及ぼしています。勉強がどれほどつまらなく、授業がどれほど苦痛でも、「学校に行かなければならない」と思い込んでいる子どもがどれほど多いでしょうか。


そのようにある価値観が支配する状況の中でデモクラティックスクールを運営するには、子ども自身がスクールに通うだけでなく、子どもが帰って行く場所である家庭もが、子どもを完全に信頼するというスクールの方針を理解しておく必要があります。


「したいことをなんでもできる」


これがデモクラティックスクールの方針である以上、スクールで自由に遊ぶことができても、家に帰ってから勉強を強制されていたりしたら、それは結局こどもの好奇心を摘んでしまい、生きる意欲を阻害してしまいます。


同時に、単に子どもに干渉しないだけでなく、子どもを100%信頼することが必要となります。家に帰ってきてゲームをしたりマンガを読んでいる子どもを見て、保護者の人たちには安心して欲しいとわたしは思います。そのとき彼らは何かを学んでいるのですから。


つまり、保護者の人たちのそのようなコミットがあってはじめて、常識に抗っている学校に通う子どもが自分のことを完全に肯定することができるのです。


デモクラティックスクールが存在していくには、子どもとスタッフだけでなく、そのような保護者の人たちの理解と精神的なコミットメントが必要です。それによって初めて、スクールが存在する上で必要な“コミュニティ”ができあがります。


デモクラティックスクールを立ち上げる上でも、また維持していく上でも、そのような“コミュニティ”を形成していく必要があります。


デモクラティックスクールは、単に教育サーヴィスを提供するだけの既存の学校とは異なります。まるで“商品”のようにサーヴィスを提供することは、売り手と買い手とを分け隔てることになります。


しかしデモクラティックスクールを運営していく上では、そのような通常の企業のようなスタンスで“教育サーヴィス”を売ろうとすることは間違っているのではないかと、わたしは思うようになっています。


そのような売り手と買い手を分断するようなスタンスで、デモクラティックスクールに興味をもつ子供や家庭を探すことは、違うのではないかと感じています。


デモクラティックスクールを運営していく上で必要なのは、むしろコミュニティを拡げていくというスタンスです。スクールの理念に共感する人たちの集まりを形成することです。


デモクラティックスクールの運営に必要なのは、“お客”を集めることではなく、同じ理念を共有する仲間とつながっていくことなのではないかと、私は思うようになっています。



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《♯7 クラス》 

2009-02-03 10:54:35 |  サドベリー関係者へのインタビュー
サドベリー関係者へのインタビュー・シリーズ、今回は「クラス(授業)」についてです。


Sudbury Schools: #7: Classes on Youtube.

サドベリー・スクールではご存知のように、カリキュラムを組んで大人が子どもに
何かを教えるということがありません。子どもは自分の好きなことだけをしています(それがゲームであれおしゃべりであれ)。

ただ、子ども自身が誰かに何かを教えてほしいとき、スタッフに頼んで授業をしてもらうこともできますし、スタッフがもっている知識・技能を超える場合はスクールの外部の専門家に授業してもらうよう頼むこともあります。

宙(そら)でも、子どもが公式な形でスタッフを予約して時間を取り、スタッフに勉強を教えてもらうこともあります。


しかし、この「クラス(授業)」というテーマのインタビューで面白いのは、答える人が一様に、学びは必ずしも公式の授業を通して得られるものではなくて、むしろ日常の物事や人とのかかわりで得られるものだと述べていることです。


「自然発生的であること」


これがサドベリー・スクールの学びの特徴だと言えるでしょう。

ウィキペディアにはクラス(授業)について次のように述べられています。


「クラスや他の活動の計画はいつも自発的かつ自由な選択によって作られており、クラスを主導することが許可されているのは生徒とスタッフである。生徒は一度もクラスを取らなくてもよい。「クラス」という言葉は多くのサドベリー・モデル・コミュニティの中で使われているが、誤解を招くかもしれない。サドベリー・モデルの提唱者の中には、「興味・関心が共通したので自発的に形成されたグループ」と呼ぶ方がより正しいと考える人もいる。」(「サドベリー・スクール」on ウィキ)

あくまで子ども自身が望んだときに「クラス」は成立します。これは授業の理想的な形態と言えるでしょう。


授業(クラス)というものは、人が自分から授業を受けると選択したときにはじめて、能動的に講師の話を聴くことができるし、吸収することができるのです。

では、インタビュー読んでみてください。


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

Anthony(スタッフ、Diablo Valley School)

「クラス(授業)の企画はサドベリー・スクールでは公式な手続きを経て行われることなんだ。紙に“僕は○○という主題(教科)に興味があって、同じような関心をもつ誰かを探している”と書くとする。そうすると何人かの生徒を見つけることができるかもしれない。「わたしは算数を学びたい!」「僕は料理を!」なんてね。主題(教科)は何でもいいんだ。生徒はクラス(授業)の準備に取りかかることができるんだよ。専門知識をもったスタッフを見つけることができるし、あるいは学校の外でその専門知識をもった人を見つけなければならない。ともかく、クラス(授業)の準備を進めることができるんだ」


David(19才、Sudbury Valley School)

「クラス(授業)には子どもはあんまり時間を割くことはないよ。たとえば僕はサドベリー・バレーにいたとき、一日に一回スタッフが教える歴史のクラス(授業)を取っていた。誰もが参加できる他のクラス(授業)もあったよ。僕たちのクラス(授業)でさえそうなんだけど、サドベリーのクラス(授業)は伝統的な授業の形態を取っていないんだ。テストがあったり成績表があるようなね。僕たちのクラス(授業)では一人が講義をして参加者が質問をして、インフォーマルな議論があったりするんだ」


Anthony(スタッフ、Diablo Valley School)

「僕たちの学校ではクラス(授業)というのは大きな位置を占めないんだ。定期的に行われるのは四つか五つかな。通年じゃなくて一定の期間のね。僕たちの学校ではクラス(授業)が行われるようになったのはここ最近のことかな。基本的に子どもたちはインフォーマルな形で学ぶんだ。学校で行われることの多くはインフォーマルなものなんだよね。個人で学ぶにしても、あるいは友達やスタッフと一緒に学ぶにしてもね。来年にはクラス(授業)が一つ増えるかもしれないし、クラス(授業)っていうのはサドベリー・スクールが時を経て展開していくことの一部なんだよね。あるいは別のサドベリー・スクールに行ったりしてつねにクラス(授業)を取ることもできる。こんな仕方で子どもたちは学びにとりかかるんだ。そうやって多くのクラス(授業)が形成されることになる。」


「子どもたちが、いつでもクラス(授業)を始めることができるということを知っておくことが重要なんだ。

 サドベリーの子どもたちの多くはパブリック・スクールやトラディショナル・スクールから来ているんだけど、そこではもちろんつねに授業が行われていた。すると僕たちの学校に来た子どもたちは「授業をうけなくていいんだ!」って興奮するんだ。

「前の学校ではいつも嫌いな授業があったけど、もう受けなくていいんだ。だから授業には行かないぞ!」ってね。そう彼らは

決意するんだ。

 でも少なくとも知っておくべきなのは、たとえまわりにクラス(授業)がなくても、自分が受けたいと思う授業を自分で企画することができるということだ。何かに真剣になったり本当に学びたいと思ったら、それが数学であれ大工であれ、自分でできるということを知っておくことが、学ぶ上での動機付けになるんだよ。サドベリーでは、やりたいことができて、いつでもクラス(授業)を企画することができるということを知っておくことが重要なんだ。サドベリーの素晴らしいところは、一緒に学ぶ人を見つけられるし、手助けしてくれるスタッフを見つけることができる」


「子どもたちは、一人でも何人かと一緒にでも、とにかくクラス(授業)を企画することができる。それがサドベリーの素晴らしい点だよ」


Evelyn(スタッフ、Diablo Valley School)

「今年私の娘がクラス(授業)を始めたんだけど、スタッフに教えてもらえるように準備したり、教会で演奏しているミュージシャンに教えてもらえるように手配したわ。そういうのってパブリック・スクールでは想像できないわよね」


Anthony(スタッフ、Diablo Valley School)

「昼食やミーティングの後や運動場や戸外なんかで、生徒同士やスタッフを交えたりしてある主題(教科)について話し合ったりすることがあるんだけど、そんな会話の中からクラス(授業)が生まれたりすることもあるんだ」


Romey(スタッフ、Fairhaven School)

「今年多くの人がクラス(授業)を受けたけど、わたしも3分の一以上の時間を教えるのに費やしたし、他のスタッフも自分の時間の2割は何かを教えていた。でもそれは、インフォーマルに教えることも教えることと考えたなら、ということ。伝統的な授業では、生徒は何かを学びたいとき、教室に行って着席するわよね。でも私たちの学校では、たとえば私がコンピュータをしていて、子どもに“この字はこう読むのよ”って言ったりして会話をする。それはインフォーマルなクラス(授業)なの」


Gayle(スタッフ、Fairhaven School)

「(上のRomeyの話を受けて)そういったインフォーマルな“教え”の方が公式の授業よりも多いわよね。わたしたちの学校では学校のどこにでも学ぶきっかけになるものがあるの。会話とかを通してね」


Anthony(スタッフ、Diablo Valley School)

「僕は学校にクラス(授業)がたくさんあることには興味ないんだ。子どもたちはクラス(授業)を始めることができるという考えを気に入っているし、子どもとスタッフが興味を持っている限り一週間・一か月・一年・三年・五年と続けることができる。

人は普通授業を受けることを学びととらえているし、授業に行かなければ学んでいないと考えている。でも僕たちの学校では、インフォーマルな学びこそが主役なんだ。インフォーマルな学びも教室で席に座る授業と同じ価値をもっているんだ」


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他者の意見を自分のものとする

2009-02-01 11:06:38 | ミーティング、ルール、民主主義
民主主義とは、当り前の話ですが、自分一人の思い通りには物事が上手くはいかないようになっている制度です。


自分にとって常識だと思っていたことは、往々にして他人にとっては常識ではありません。


そこで意見の修正を余儀なくされます。そのとき、その意見が自分のこだわりにかかわれば関わるほど、自分が引き裂かれるような感覚になります。


自分は自分として意見をもっていても、自分は同時に団体に属していると、その団体の意思に沿わなければなりません。


ある人が、

「デモクラティックスクールの中にい続けるには、自分の中心にとどまっていなければならない」

と言っていましたが、このように自分が引き裂かれるような経験がデモクラティックスクールでは多くあるゆえに、自分の中心に居続けることが重要だということなのでしょう。


デモクラティックスクールでは、誰もが、少なからず少数派になる場面が出てきます。個人の意思をもつ以上、それは必然的なことです。


学校の運営に関して自分の意思を主張できるのは、他にはない、デモクラティックスクールのもっとも大きな特徴です。


これはある意味でとてもつらいことです。意見が衝突した際には、自分の意思を削られたように感じながら、多数派の意思に従うからです。


普通の学校であれば、私たちは最初から意見を主張したりはしませんし、その機会もありません。ですから、意見を衝突させる機会もないし、それゆえに自分が引き裂かれるようにも感じません。


意見は意見でしかありません。意見をもつことは大切ですが、意見をもつことは必然的に他人の意見と衝突することを意味します。ある団体に属していなくても、私たちは社会には属しています。社会全体の決定に従うだけなら、それは普通の学校の校則に従うだけと同じ、社会の運営にコミットしていないことになります。


わたしたちは団体の運営にコミットするほど、自分の意見の修正を余儀なくされます。自分が変わることを強いられます。他者の意見を自分のものとすることを必要とされます。


デモクラティックスクールが社会の縮図である理由は、ここにもあります。


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