役所 信太のひとりごと。。。(カウントダウン365×4→0)

旅先で感じたことや報道など私的に思うこと

もう17年も経ちましたね・・・

2012年01月17日 01時17分17秒 | Weblog
早いもので
あれから17年の歳月が流れました。

あのころ
まだ若かった私は血の気が多く
毎日燃えて業務に当たっていました。

懐かしい思い出です。

確か地震の日1月17日は
月曜だったように記憶しています。

日曜はデートでお出かけしていて
夜遅く帰って来て
入浴後彼女にEメールしていたような気がします。
まだ携帯電話にメール機能がなかったので
パソコンでですが・・・。

それでも当時はまだEメールのやり取りなど
日常的ではなかった時代でした。

出だしの恋愛だったので
アドレナリンが出まくり
なかなか寝付けなかったような・・・。

睡眠に入ってしばらくして
急に揺れ出し
本棚から書籍が落ち
電気スタンドが床に落ち・・・
下から突き上げるような
あまりにひどい揺れだったので
初めは夢かと思いました。

はっと現実であることを認識し
起きようにも体がいうことをきかず
うつぶせで揺れが収まるのを待ったことを記憶しています。
その後
一人暮らしをしている親友に
真っ先に携帯電話で
安否確認をしました。
彼の部屋があまりに物が多く
棚にいろいろ置いていたので
怪我が心配だったからです。
彼は無事でしたが
心細かったと言っていました。

その後
すぐに彼女から電話が来ました。
彼女は
家族と同居だし
厳格な父親がいたので
あまり心配では無かった。
これだけ書くと
彼女より親友が大事なのかと
彼女に怒られそうですが
厳格な父親の存在が
私にどうしても
5時50分という早朝に電話を掛けることを
躊躇わせたのでした。

彼女の家も食器棚などが倒れ
かなり食器類が割れたそうで
あと30分遅かったら朝食の支度で
ストーブを焚いていたし
調理器具で火を使っていたので
ただでは済まなかったと言っていました。

その後
7時を回り空が明るくなってきたら
段々と被害状況がテレビで報道され出し・・・
被害の状況が
史上まれにみる大災害であることを
私は認識して行くのでした。

当日
自転車通勤だったので
私は定刻に出勤できましたが
電車やバスが止まっていて
かなりの職員が通勤不可能で
役所は大混乱していました。

9時に防災対策緊急会議を招集し
残った職員で対策に当たっていました。
今から考えれば
9時って遅いような・・・
当時の防災対策危機管理って
どこもこんなものだったようです。
なにせ
「関西には大地震は来ない」
という神話があったから・・・。
あっても南海地震。
100km以上離れた和歌山での話だ
というのが趨勢でした。
東大教授だかなんだか知りませんが
政府諮問機関の地震予知研究会でしたか、
大変な偉いさんが
いろいろご教示されたから
みな、信じてしまいました。
結局大はずれじゃないですか・・・。
「うそばっかり言ってんじゃないぞ!」

立腹。

さて、話を戻して・・・

あの大混乱から17年・・・。

その間
アメリカの同時多発テロが起こり
三国のタンカー座礁で重油流出が起こり
東日本大震災が起こり・・・。

確かに昨年の大震災は大きな衝撃でした。
ただ私にとっては
それよりも衝撃だったのは
2003年のSARSです。
SARSに感染した台湾の医師が
関西を旅行したと保健所に一報が有り
厚生労働省と大阪府とで対策を練り
対処に万全を期すために4月~5月ごろだったか
昼夜休みなく対応に追われたことを記憶しています。
まるで映画の感染列島のようでした。

あの時は本当に緊張したし
患者が1人でも出たら
あちこちで蔓延している可能性が高い
対応できなくなる可能性が大きくなるし・・・
国は特定感染症として認定するし・・・
減圧装置を救急車に乗せて
大阪府内は
すべて泉佐野の総合医療センターへ
配送しなければならなかった。
そこでしか治療できないから。
当時はそれくらい未知で重圧な感染症と
誰もが思っていたのでした。

幸い感染者は無く
肺呼吸器の疾患であることがわかり
薬で対応できることもわかり
終息へと向かうのでした。
法的には長い間特定感染症の枠内でしたが
感染源もわかり治療法もわかったので
2~3か月後には
ほっと一息をついたのを覚えています。

そうそう17日の話でした。
17年前の1月17日・・・。
考えてみれば
当時生まれた子供が
もう高校生になっているんですね。

すごい時間が経ちました。
でもあの混乱した状況下
災害復興ボランティアという言葉が
まだなかった時代・・・
多くの人が
無償で
現地に駆け付け
人を助けたいという思いで
集まっていたのを覚えています。
私もその一人で
電車が動いていないので
何キロも歩いて神戸入りしていました。
今のように情報が簡単に手に入れば
そうですね
ツイッターや
携帯電話の様々なアプリなどで
情報が簡単に
迅速に手に入れば
震災の数日後には復旧している鉄道が有り
三田経由で新神戸まで北神急行で入れると
分かっていたことでしょう。
何キロも歩かなくてすんだことでしょう。

1月、2月の神戸は非常に寒く
時間が経つにつれ
公衆便所など糞尿が溢れだし
異臭が漂う中
それでもそこに入って
用を足さなければならないという
屈辱に満ちた女性の姿を
何度も目にしました。

至る所で
時間が経っても
火事の跡の臭いが立ち込めていました。

戦争が無くても
街は崩壊する・・・

ただ、
その崩壊の一部は・・・
人災でした。

特に
自衛隊の救助活動を妨げた当時の村山内閣。

社会党と自民党が連立を組み
社会党党首が首相になるという
今となっては信じられない世の中だった。
「左翼」と「右翼の中の左翼」が
政治を動かすという
日本政治は恐ろしい状況だった。
彼ら左翼政治家にとって
憲法9条に反する自衛隊は
存在してはならないから、
被災者が死にかけていても
真剣に
「自衛隊は国道しか通行できない」ので
被災地神戸には行けないと言いよった。

ならば
海上からなら行けるだろうと
海自と陸自がタッグを組んで救出に向かうと
地元の「連合」と「日教祖」が
戦争をする組織は帰れと
港への入港を阻止した。
このことは
マスコミで報道されないので
ほとんど知られていないが、
神戸の海沿いの人間なら
誰でも知っている事実です。

そして
去年の大震災・・・。

また間が悪いというか
最悪の時代に被災したというか・・・
民主党政権・・・。
左翼社会党の残党が生き残っている政党が
政権与党という最悪な時に・・・。
ただ、
神戸の時とは違って
自衛隊の派遣は
比較的スムーズに行われた。

人間の歴史は繰り返す・・・。
破壊の歴史ということか・・・。

神戸では
今年も慰霊祭が行われていることでしょう。
私も学生時代の友人を1人亡くしました。

今年で最後の黙とうになります。
現在の時刻
もうすぐ2時半です。

5時46分に
黙とうを捧げたいと思います。


。。。。

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