気分の悪いことがあった。知人の家に電話をしたら、○○番へ電話してくれ、といわれた。この知人は嫁に行った人で、おそらく姑であろう人がそう答えた。最近というより、もうずいぶん前より、同居世帯へ嫁に入ったとしても、二世帯住宅とか、あるいは電話を別にするということはあたりまえのようにあった。それは住居、あるいは屋敷が広い農家の場合の方が顕著である。このごろの農家で、火や水を共同している親子は少なくなった。同居とは名ばかりで、現実は別居なのである。どちらも干渉されず気楽かもしれないが、それがあたりまえになってしまったら、農村の良さはなくなってしまう。いや、むしろかつて農村の家族という姿は、都会の方が残っているかもしれない。別居に近い家に電話をしたら、冷たく○○番に電話をしてくれ、といわれる。こんな経験は一度や二度ではない。わたしのように四十代になった者でも、そんな言葉を聞くと滅入る。ましてや若い世代の人たちが聞いた場合、どう思うだろう。だが、若い世代はそれがあたりまえと思っていて、慣れたものかもしれない。わたしが電話が嫌いなのは、そんな滅入る経験を避けたいからだ。
先日こんなこともあった。同級会を開こうと思ったものの、住所が確認できないため、彼の兄の家に電話をした。そこで電話に出たのは、おそらく兄嫁であろう女性であった。同級会の連絡をしたいので、住所を教えてほしいといったら、本人からそちらに電話をするようにする、というので、これはすぐ住所がわからないからだろうと察知して、電話番号を教えていただければこちらから電話をします、といった。こちらは、わざわざ電話をさせて電話代を使わせるのも悪いと思っていった言葉であったが、相手はそんなふうにはとらえていなかった。「こんな時代でいろいろあるから・・・・」といった。最初は意味がわからなかったが、おそらく電話を使った犯罪が多発するなか、直接教えることを避けたためだろう。田舎である。しかし、これが今なのである。このときもずいぶん気分を害した。同級会という、普段は認識のない世界のことで、こちらとしては、善意で行なっている行動にもかかわらず、怪しまれるこの世の中。
若い頃から、あちこち転勤しながら、地域性を感じ取ってきた。性格上、人の言葉を気に過ぎるところはある。しかし、その地域性を垣間見るなかで、滅入る経験をいくつもしてきた。先日、小学校の担任の先生と二人で飲んだ。卒業以来の顔合わせであった。わたしの方から確認したいことがあって、会ったものであった。何を確認したかったかというと、わたしの育った地域は、たいへんおとなしい子どもが多く、また、比較的勉強にも積極性がない地域であった。いわゆる田舎だったのである。その田舎に他所からやってきた先生は、この地域がたるんでいるということを盛んに言ったもので、どうしてそういうことを言うんだと、最初は強く思ったものであった。この地域にあったものとは何だったのか、そんな所を、もう一度聞きたくて会ったのであった。
当時はとても田舎であったこの地域、実はこれを書いている地域は長野県の南部、南信といわれる地域なのであるが、昔から県内では田舎だと思っていた。ところが、最近県内の他地域を意識しながら気づいたのは、最も田舎が残っているのは県庁のある長野市近辺で、むしろ田舎といわれ、長野からは馬鹿にされていた南部地域ほど人擦れし、人間が冷たいという印象を持つようになった。
農家でも金が第一という世の中で、無駄な非生産的なことはしないし、人の世話など好き好んでしない。そんな地域が、意外と南部に多いのである。なぜこんな世の中になってしまったのか。こんな田舎になってしまったのか。自然を残せばよいというものではない。人々の心を残してほしかった。そう思うのである。
先日こんなこともあった。同級会を開こうと思ったものの、住所が確認できないため、彼の兄の家に電話をした。そこで電話に出たのは、おそらく兄嫁であろう女性であった。同級会の連絡をしたいので、住所を教えてほしいといったら、本人からそちらに電話をするようにする、というので、これはすぐ住所がわからないからだろうと察知して、電話番号を教えていただければこちらから電話をします、といった。こちらは、わざわざ電話をさせて電話代を使わせるのも悪いと思っていった言葉であったが、相手はそんなふうにはとらえていなかった。「こんな時代でいろいろあるから・・・・」といった。最初は意味がわからなかったが、おそらく電話を使った犯罪が多発するなか、直接教えることを避けたためだろう。田舎である。しかし、これが今なのである。このときもずいぶん気分を害した。同級会という、普段は認識のない世界のことで、こちらとしては、善意で行なっている行動にもかかわらず、怪しまれるこの世の中。
若い頃から、あちこち転勤しながら、地域性を感じ取ってきた。性格上、人の言葉を気に過ぎるところはある。しかし、その地域性を垣間見るなかで、滅入る経験をいくつもしてきた。先日、小学校の担任の先生と二人で飲んだ。卒業以来の顔合わせであった。わたしの方から確認したいことがあって、会ったものであった。何を確認したかったかというと、わたしの育った地域は、たいへんおとなしい子どもが多く、また、比較的勉強にも積極性がない地域であった。いわゆる田舎だったのである。その田舎に他所からやってきた先生は、この地域がたるんでいるということを盛んに言ったもので、どうしてそういうことを言うんだと、最初は強く思ったものであった。この地域にあったものとは何だったのか、そんな所を、もう一度聞きたくて会ったのであった。
当時はとても田舎であったこの地域、実はこれを書いている地域は長野県の南部、南信といわれる地域なのであるが、昔から県内では田舎だと思っていた。ところが、最近県内の他地域を意識しながら気づいたのは、最も田舎が残っているのは県庁のある長野市近辺で、むしろ田舎といわれ、長野からは馬鹿にされていた南部地域ほど人擦れし、人間が冷たいという印象を持つようになった。
農家でも金が第一という世の中で、無駄な非生産的なことはしないし、人の世話など好き好んでしない。そんな地域が、意外と南部に多いのである。なぜこんな世の中になってしまったのか。こんな田舎になってしまったのか。自然を残せばよいというものではない。人々の心を残してほしかった。そう思うのである。