Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

2005-07-27 08:20:27 | 民俗学
 まもなく盆月である。この盆月という言い方も、最近の実働世代のなかではあまり聞かなくなった言葉である。盆月には忌み嫌う儀礼もある。例えば「盆月だから」といってお見舞いを避けることもある。少し盆に関連したことを何回か触れてみる。
 最近は熟年離婚という言葉もよく聞かれるが、先々が見えてくると、いろいろ考えさせられることが多くなる。とくに子どもたちが同居しないのがあたりまえになると、自分の老後はどうなるのか、誰が面倒を見てくれるのか、といったことである。先々を計算し始めると、離婚という回答も出てくるのであろう。結婚しない人たちだって多いのだから、そういう計算をするだけ、まだ幸せなのだろう(いや、不幸なのかもしれない)。夫婦同姓があたりまえだった時代が、別姓も可能な時代がやってくる。わたしの家でも「別姓がよかったなら、そうしたかった」などいうことを言われたりする。しかし、そんな世の中が本当に良好なのか、と言わざるをえない。家族が同居するのが一番将来的にはベストであると考えているわたしだから、そう思うだけかもしれないが。別姓なんていう話題が出てくるから、死んでも夫や姑と同じ墓に入りたくない、なんていう話が出るのである。生前の同居すら嫌うのだから、死後に同居などしたくないのも無理がない。結局そんなことを論議するよりも、まず結婚したら夫の家に「嫁入り」する、というかつての考えを論議してからの、離婚や墓問題ではないか。
 石井研士は、『日本人の一年と一生』のなかで、盆行事から寺とのかかわりを解いている。寺から人々は離れ、一年でも盆や彼岸といった限られた季節のみの存在に寺がなっているといっている。わたしなどは分家したから檀那寺はない。家を建てた際に墓地をどうしようと話したが、では寺をどうしようということで、なかなか結論に達しなかった。地域でつき合いが増えていくうちに、親しくなった寺へお願いしよう、などと考えたが、お寺が必要なのか、ということになった。根底には、「同じ墓に入る」というまさしく現代的な話題で、寺も墓の話も立ち消えてしまった。ただ、お互い葬儀は身内だけで行い、墓は持たずに、いっそ骨を残さないように燃やしてもらおうという話になった。こんな世の中である。なんでもありっていう感じだから、急いで墓や寺を決める必要はないだろうということになった。ところが、最近の若い世代は、家を建てると意外にも墓地をすぐに購入する人が多いという。どういうことだろう。
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