Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

草刈り

2005-07-18 21:34:39 | 農村環境
 昨日は畔草刈だった。天候がこのところ良すぎて稲の生育が早いという。稲が病にかからないように畔草を刈る。植生は、盛んに畔草を刈ると、単一化するという。かつては鎌で刈っていたため、草刈機のようにきれいに刈り取ってしまうということはなかった。そうしたスローな草刈だけに、刈りながら残そうと思う草、あるいは花を残すことができた。しかし、草刈機ではそうはなかなかいかない。何が生えているかという認識する前に草刈機はすでに刈り払っているのである。草刈機での除草を繰り返すと、丈の短い草の植生に優先されるという。結局土手には芝が残るのである。多様な植生を残すためにも、刈り過ぎずに、また、気を使って残そうとする花は刈り取らないようにする、それが自然保護からみた草刈の基本だという。しかし、そんな草刈をしていると、時間がかかり、結局は燃料はもちろん、人件費が高くつくわけで、趣味でないとできないわけである。三週間ほど前に草刈をした際には、野アザミが咲いていて、なるべく刈り取らないように気を使った。今回は、それほど気にするようなものは生えていなかったので気楽であったが、稲を優先するには、気を使ってはいられないのが現実である。
 引き続き、今日はまた屋敷の草取りをした。メヒシバが盛んに生えていて、とくにいけないのは砂利を敷いてある車の通り道に出るメヒシバである。抜き取ろうとしてもなかなか力がいる。それが一面に出ていると、いっそ草刈機で刈るようにして、芝にしてしまおうなんて思うのだが、砂利が敷いてあるとそんなにきれいにはならない。それこそこういった丈の短い強い草には、除草剤がよいかもしれないがも、除草剤は使っても草が枯れるが、そのまま形は残ってしまう。土にすぐ返ってくれればよいがそうはいかない。それなら生の方が取りやすい。
 自分が子どものころは、他所の土地(農地)に入ってはいけないなど言われたことはなかった。しかし、時代が経過すると、しだいに土地への立ち入りはしてはいけないというのが常識化してきた。それは自分が成長したというよりも、そういう世知辛い時代になってきたといった方が正しい。かつては草を刈ってもそれを利用する必要性があったから、他所の土地の草を刈ってはまずかった。しかし、今のように草を刈っても利用価値がなくなってしまっては、他所の土地の草を刈ってもいいじゃないか、と思うのだが、それは違う。やはり他所の土地だからまずいのである。昔とは意味が違う。過疎化した田舎に、廃屋が朽ちている姿は美しいとはいえない。しかし、他人がどうすることもできない。同じように、どんなに荒れ果てて草が身の丈以上に伸びきっていても、よそ者がその草を刈ることはできない。地域をなんとかしたいのなら、そうした見にくさから整理しなくては、過疎地は存続できない。土地を離れていくのなら、他人が管理しても了解である、というような協定を結んでほしいところである。いや他所に住んでいなくても、荒れ放題にしている人は多い。なんとかならないだろうか、でも、自分の土地ですらままならない現状に、地域は終わりかなと思う。
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