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名工 守屋貞治の石仏を訪ねる⑦

2020-03-11 23:06:29 | ひとから学ぶ

名工 守屋貞治の石仏を訪ねる⑥より

 

駒ヶ根市東伊那大蔵寺

 「下平の元久2年銘「十王」(昭和61年の記憶⑳)」の中で、昭和61年昭和61年3月2日に松本市の宮嶋洋一氏とはじめて顔を合わせ、駒ヶ根市下平の十王山観音寺を訪れたことについて触れた。このあと、近くの東伊那伊那森神社北側にある大蔵寺を訪れている。昭和44年に焼失したあとに建てられた本堂はちいさなもので、お寺であるかどうかはっきりわかる建物ではない。ここの本堂内に守屋貞治の石仏が安置されている。大蔵寺は天正5年(1577)に鎌倉建長寺の僧であった笑岩和尚によって開基創建されたと伝えられる。

 本堂内に安置されていたためか、真新しい石仏に見える。『石仏師守屋貞治』(昭和52年高遠町誌編纂委員会)には「伝えによれば、もとこの地蔵尊は屋外に造立されていたが、前住職の時代に、住職の夢枕にたち、「私を堂内に入れてほしい」ということで、その時から堂内に移したとか」とある。同書には焼失の際に避難した際に雨露にさらされていたというが、再建後に再び堂内に戻された。「拭ったわけではないが、此の様に新しい感じである」という奥さんの話も綴っている。そして「此の様に新しい感じなのは此の一体のみである」と筆者は感想を記す。ようはそれほど真新しさを現している。

 上伊那郷土研究会のホームページには次のような記述がされている。

 守屋貞治が伊南地域において彫造した石仏群のうち、旧上穂村原家の延命地蔵尊(頭部欠損)、北の原墓地に所在、宮田村田中の願主小町谷家の延命地蔵、光前寺浄雲塔(真応塔)である聖観音、駒ケ根市福岡(東)福沢家の聖観音、駒ケ根市東伊那大蔵寺の延命地蔵、松川町上片桐瑞応寺の延命地蔵の計6体が、蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている特異な表現方法をしている。
 この手の込んだ特別豪華に見せた蓮華座は、現存する他の貞治仏には見られない技法で、何か特別な意味合いがある石仏群であろうか。
 蓮華座の巻き返し表現を最初に注目したのは、貞治の祖父「貞七」作と思われる石仏7体に加工をしてあるのに気付いたのが最初であった。一般的に丸彫りの石仏に見る蓮華座下の台座(反花)に散見される装飾技法であり、蓮華座まで表現しているのはまれである。その後の調査で、貞七の他に貞治の父「孫兵衛」作と思われる石仏5体にも同様な蓮弁巻き返し表現が確認されたのである。
 以上12体の蓮弁巻き返し表現石仏と、貞治仏を対比したときに確認されたのが、前記6体の貞治仏であり、先祖石工との関連を考えるきっかけとなったのである。推察ではあるが、貞治作の蓮華座花弁巻き返し表現石仏6体は、祖父貞七、あるいは父孫兵衛が生前願主から制作依頼を受けていた未完の石仏を、先祖の死後に子の貞治が完成造立したものと考えたい。伊南地域でしか見られない特異な表現が、守屋家石工三代の系譜を示すものと考えるのである。そして、願主と貞七・孫兵衛の彫造の仲介役となっているのが、上穂の豪農当主「小町谷吉永」であったと推察される。蓮弁巻き返し表現石仏の願主や所在位置を検討すると、そのことがありありと見えてくるのである。

 ようは、この手法の貞治仏がほかにはないため、あえてこの手法を取り入れた彫像理由があったという考え方だ。繊細な蓮華座に比較すると、単純な形であり、蓮華座だけを見ていると貞治仏初期の作風となる。しかしながら、蓮華座から視線を上に上げていくと、貞治の後期の作風が見られるのである。年銘はなくいものの、作風から30代後期の作と推定されているが、推定年代のものとしたら傑作ではないだろうか。

続く


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