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東大寺二月堂修二会(昭和61年の記憶㉒)

2020-03-12 23:43:21 | つぶやき

刈谷沢神明宮 作始め(昭和61年の記憶㉑)より

東大寺二月堂修二会(昭和61年3月14日)

 刈谷沢神明宮を訪れた5日後、奈良東大寺に向かっている。このことは、以前「回想“まつりの旅”」に詳細を触れた。3月14日は東大寺二月堂の修二会最終日。当時金曜日だったわけだが、午後仕事を休み、名古屋へ向かった。いつも通り、田中義廣先生の運転手である。以前も記したが、この年事故をして、代車に乗っていたので、奈良行きもその代車での行動となった。車には田中先生と、版画家の佐藤宏さん、もうお一方女性が同乗された。修二会最終日は、籠松明が間隔を空けずに10本続けて石階段を上り、二月堂にずらりと並ぶ。そして松明が回され、最後に一斉に揺すられると松明から火の粉が舞い落ちるのである。

 

百豪寺石仏(昭和61年3月15日)

 翌朝百豪寺に立ち寄っている。本道東側の道脇に石仏が並んでいる。地蔵十王石仏は花崗岩である。右手弥陀定印を結び、左手に宝珠を捧持。頭上に七条の光が刻まれており、光背には十王像が左右5体ずつ刻まれている。南北朝時代の作品という。

 弥勒石仏は地蔵十王石仏と像高は同じくらい。右手は施無畏印、左手は下げて甲を表にしている。光背の左右に下記のように刻まれている。1610年建立である。

奉供養唯識論一千部
慶長十五年庚戌二月十五日
               論講衆

 その後南部に向かったことは、「回想“まつりの旅”」で触れた。また、3月15日には、南部町猪野山観音を訪れており、このことは「猪野山観音の道祖神」で触れている。

 

東野獅子舞(昭和61年の記憶㉓)


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