Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

スケートのできなくなった池

2007-02-25 07:30:16 | 歴史から学ぶ


 飯島町から飯田市へ向う県道飯島飯田線から10分も山へ登ると、千人塚と言われる場所がある。場所というよりは池といってもよいのだが、実は千人塚という池ではなく、城ケ池というのが正式な名称で、千人塚はその池の端にある塚のことをいう。しかし、一般に千人塚という名称が知られていて、そこに池があることから、その一帯を総称してそう呼んでいるようにも捉えられているし、また池のことをそう呼ぶ人も多い。事実、わたしも子どものころ盛んにその池に行ったものだが、池のことを千人塚と言うものだと、しばらくは思い込んでいた。町民に池の名前を聞いても意外に城ケ池という名を知らない人がいるかもしれない。

 写真は午後の日差しが逆光になりつつある時に撮っているから、山がはっきり写っていないが、かなり近くに南駒ケ岳の山々が見える。そんなスポットだけに古くから観光開発がされてきた場所である。すでに2月も末だけに池がさざなみをうっていても不思議ではないかもしれないが、かつては伊那谷のスケートのメッカでもあった。子どものころ盛んに行ったのもスケートをしに行ったもので、あまり好きではなかったスケートであったが、ここへ来ては練習しているうちに、そこそこ滑れるようになったもので、その楽しさがわかったのもこの地からだ。ほかでは滑れなくとも、ここのスケート場のシーズンは、そこそこ長かったように記憶する。家からは5キロくらいあったのかもしれないが、それを歩いてやってきたものだ。ところが、30年ほど前には、期間にして1ヶ月も滑れなくなり、しだいにシーズンは短くなり、20年ほど前にはまったく滑ることができなくなった。せいぜい中学生くらいまでしかスケートはしなかったから、その後の詳細はあまり定かではないが、千人塚で滑れないともなれば、よそではほとんど滑れなくなっていたはずである。

 暖冬と叫ばれて久しいが、今に始まったことではなく、ことスケートというスポーツからみれば、何10年も前から伊那谷のスポーツから姿を消したような状態である。かつて田んぼに水を張って凍らせ、授業でスケートをやったなんていう経験は珍しくなりつつある。それでも氷の張るような田んぼを確保している学校では、今でもスケートを取り入れているところもある。今年はともかく、高森南小学校は、日影の田んぼに氷を張り、子どもたちが滑る姿を数年前に見た覚えがある。とまあ、昔はウインタースポーツといえば、このあたりではスケートだけであったが、のちに近隣にスキー場ができてくると、スケートをやっていたなんていことはまったく忘れられたように、学校ではスキーを取り入れるようになったものだ。ちょうどそのスキーに転換されていったころは、スキー人口が多くなったころだったように記憶する。世の中の若い人だれもがスキーをする時代に進んでいったのだが、そのスキーも今では衰退の一途で、世の移り変わりの激しさを覚えるわけだ。

 ちなみにこの千人塚の由来は、現在の松川町上片桐にあった船山城主の臣がここに城を構えていたといわれ、天正10年の織田攻めの際にその城は落ちたと伝えられ、その際の戦死者を埋葬した場所といわれている。また、近世になると悪疫が流行り、この塚の崇りを恐れて天保15年に千九人の童子の碑(現在残っている碑)を建てて祀ったようで、その後も供養されている。池そのものは農業用水を目的に昭和9年に造られたものであるが、この一帯を伊那谷断層が走っていることも、最近はよく知られている。

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