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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

松本工業優勝

2010-07-25 21:34:20 | ひとから学ぶ
 高校野球選手権大会長野大会は松本工業の初優勝で幕を閉めた。どらが勝っても「許せる」という言い方は適正ではないかもしれないが、ここまで戦ってきた両チームの戦跡を見てそう思った。決勝で戦ったのは松本工業と松商学園というこれまでの県大会の決勝戦としては初めての顔合わせ。薄川という松本市内を流れる川を挟んで南と北という対面同士の対決。テレビ放映では両校は400メートルほどの位置にあると盛んに説明されていたが、敷地境界の距離でいけばもっと近いはず。たまたま薄川があるから離れているが、隣接しているといってもよいくらいの位置にある。もう10年以上前に源地のあたりや筑摩神社周辺に調査に入ったことがあるから両校とも親近感がある。それに松本市内に出向く折には両校の近くを通る道が定番ルートだったし、浅間の方へ抜ける際には松本工業東方の裏道をよく利用したもので、会社の地元の人たちにも「よくこんな道を知っているね」と言われたほどこのあたりは詳しかった。それはともかくとして、そんな隣接校であるが、もちろん松商学園といえば甲子園常連校。夏の選手権は35回の出場経験があり、全国最多というのは高校野球に少しでも興味を持っている人には知られたこと。1970年代後半には6年連続を成し遂げていて、当時の長野県の高校野球といえば、松商学園しか頭に浮かばないほど突出していたものだ。唯一対向していたのは丸子実業(現在の丸子修学館)くらいだっただろうか。1980年代に入ると県立高校が松商学園の出場を阻止したものだが、逆に言うと最も長野県の高校野球のレベルが低かった時代とも言える。そして1990年代に入ると上田佳範を擁して選抜準優勝という時もあったが、このあたりから新興勢力が松商学園を脅かすようになる。1994年に選手権でベスト4に入った佐久高校がその最たるものであるが、実はこの高校を率いたのはかつての丸子実業を率いていた中村良隆監督である。ということは丸子実業→佐久へ移行しただけと捉えられがちであるが、このころから県内の指導者の中に中村監督の教え子たちが台頭しはじめるとともに、私立高校の特徴ある監督が知られるようになる。2000年代はそんな傾向を見せたといえるだろう。そしてかつては野球と言えば「松商」と言って有力な中学生が入学して行ったものだが、今では私立と言えば佐久長聖や長野日大、そして上田西や創造学園とか地球環境といった変り種もあって、簡単には県内で優勝することは叶わなくなった。かつての松商一人勝ちの時代は終焉を迎えたのである。

 2005年より今年までの長野県大会の覇者を上げてみよう。
 2005年春季  佐久長聖
 2005年選手権 松商学園
 2005年秋季  松商学園
 2006年春季  上田西
 2006年選手権 松代
 2006年秋季  長野日大(創造学園大付)
 2007年春季  長野日大
 2007年選手権 松商学園
 2007年秋季  丸子修学館(長野日大・丸子修学館)
 2008年春季  佐久長聖
 2008年選手権 松商学園
 2008年秋季  佐久長聖
 2009年春季  佐久長聖
 2009年選手権 長野日大
 2009年秋季  長野
 2010年春季  丸子修学館

という具合である。かっこ内はその大会より選抜に出場した高校である。歴史的に選手権大会に強い松商学園も、選抜大会選考の参考になる秋季大会には「弱い」とよく言われている。そのいっぽうで選手権大会にはしっかりチームを作り上げてくることでも知られていて、秋季春季では優勝しなくても夏にはしっかり代表になるという歴史を刻んできた。今年も昨秋、今春と北信越において常に上位の戦いをしていた佐久長聖は本命と言われていた。しかし、しっかりと整えてきた松商学園は、佐久長聖を上回る実力をつけていたともいえる。いずれにしても今年の長野県大会は準々決勝からすべて接戦を演じた(松商学園対丸子修学館も点差は開いたが中盤までは接戦だった)。近年ではレベルの高い大会だったと言えるのではないだろうか。

 そして決勝である。誰もが9回ツーアウトの段階で松商学園優勝を確信していただろう。そこから同点に追いついた松本工業。エース柿田を中心にした本当にまとまりのあるチームだった。松本工業のキャプテンの優勝インタビューで出た言葉に集約されるだろう。彼らは中学時代レギュラーにはなれなかった、いわゆる名門松商学園には手の届かなかった少年たちだったのだ。2年前、同じように絶対的エースでこの大会に挑んだ東海大三。そこにはオリックスに1位氏名された甲斐がいた。しかし、彼はあまりにも突出していて、個人の力は甲子園並みでもチームとしてはたどり着けなかった。そこにいくと今年の柿田はチームの中で突出した技量を持っていても、チームに溶け込んでいた。それが甲子園を掴んだ要因ではないだろうか。

 松本工業といえば、御子柴進を思い出す。わたしが成人したころに松本工業に在籍していた投手である。彼は阪神にドラフト指名され、縦縞のユニフォームで小林繁ばりの投球をしたものだ。そもそも長野県出身のプロ野球選手はとても少ないなか、当時は彼の活躍を誰もが期待したものだ。

 近年になかったすばらしい決勝戦だった。いや準々決勝からすべて良い試合だった。感謝である。

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2 コメント

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通りががりで失礼します (nao)
2010-07-27 23:50:20
こんばんは。『松本工業』からこちらへ来ました。大変冷静に分析されてますね。また、しっかりとした文面で爽快感を覚えました。

松商学園が6年連続の頃は小学生でしたが、NHKのアナウンサーが入場行進の際「長野代表は、また松商学園です」と言っていたのをよく覚えております^^ 御子柴投手ですか・・懐かしいですね。同じ頃伊那北高校にも同じ御子柴という好投手いませんでしたっけ。

小生が最も記憶に残っているのは、松商学園の連続出場を阻止した岡谷工業です。地元諏訪地区の公立高校とあって大変な盛り上がりでした。金丸投手のナックルは甲子園でも話題になりましたね。ベスト8直前で都城の加藤選手に延長でサヨナラ本塁打を打たれましたが、あの夏の興奮は今でも忘れません。あの頃は、東海大三1勝(選抜)→松商川村投手→岡工と一つの分岐となった時代と捉えております。

近年は、貴殿の記された通り『変り種』の私立校に加え、松工や諏訪清陵といったシード常連の公立、野球どころ東信、中原監督の長野日大等まさに戦国時代ですな。また、2~3年ほど前の辰野や今大会の阿南の活躍など、南信にも十分チャンスはあると思います。といいますか、また南信の高校が新たな分岐を作ってもらいたいと願っております。

ほとんど回顧録のようになってしまいましたが、是非松工には旋風を巻き起こしてもらいたいですね。変化球の切れる柿田投手には金丸投手以上の活躍を期待したいです。
乱筆にて失礼致しました。
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可能性ゼロということもないでしょうが (trx_45)
2010-07-29 20:04:45
 伊那谷の学校が甲子園、まったく可能性ゼロということはないでしょうが、まず受け皿がないとなかなかゼロに近いと言えるのと、そのときは長野県のレベルがかなり落ちたときかもしれません。
 伊那北の御子柴って確かに聞いた記憶がちらほら・・・。松商が六連敗したころってけっこう有名な選手がいたんですよね。でも勝てなかった。赤穂中から進学していた川島なんかも懐かしい。そもそもわたしにとって初期は堀場のいた丸子実業ですね。その後桃井も出た。今年の佐久長聖のキャッチャーが良かったように、中村監督はやはり良いキャッチャーを発掘します。
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